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(回答先: もう一つの“奇蹟”[Carry That Weightさんへ] 投稿者 如往 日時 2004 年 12 月 21 日 18:09:56)
如往さん こんにちは。忙殺され、レスがまたも遅れまして恐縮です。
>『あなたが存在すること自体が、神による(主の)“奇蹟”である。』との宣託に外なりません。
「個々人の存在」とは生態系の進化が齎した時系列的に「自然な」因果律に基づくという認識を、「先人・上位存在としての権威付け」によって覆し、服従させる手段として使われるのではないかと思っています。親が子の躾のために使う言葉にも見られるのが身近な例です。
>私が存在することは、宇宙の、限局的には地球というMatrixが生んだ“奇蹟”の投影であり、
>そこには何ら神の手らしきものが介在する必要性がないと考えるからです。
>環境条件の一つをとっても、確率論的にもこの地球上に微細な種子が萌芽し進化の過程を経て
>人類が誕生して来たこと自体が、紛れもないより原初的な“奇蹟”と言えるのではないでしょうか。
>そこに神なるものを持ち込もうとするのは浅はかな人間の知恵の仕業であり、宗教システムを
>死守せんとする愚かな教会関係者達の企みに過ぎません。
そうですね。脳の構造・働きの解明によって「地球環境への適応の積み重ね」が進化の源泉であることは明白ですから、原始のホモサピエンスに「神という概念」があったとは思えません。最小限のコミュニティが形成された後のあるタイミングから「突然神は現れた」訳です。人為的に。それは偏に「集団統治」「凝集性の維持」の手段としてです。
>地球というMatrixから我々人類にたいし託されているミッションは、単に“奇蹟”を
>後継していくことではないでしょうか。
生命の営みと人類が獲得した叡智の齎す進化は、皮肉にも地球環境を修復不可能に、つまり「奇蹟の後継」を不能にせしめんとしているのが実態です。にもかかわらず、どの宗教もその点に言及せず、見てみぬフリをしていることが不思議です。
>宗教は個人の内なる精神世界を支えるものとして今後も継続・維持されるでしょう。
>しかしながら、神なるものを措定しあるいはメルクマールにして、人類史を解釈したり
>進歩・発展の拠り処にする時節は疾うに過ぎ去っていると考えています。
難しいところです。価値観の多様性の顕在化は、本質的に不安定な心理状態を人々に齎しました。自身のコアを確信し得ない人は、安定を求め「神」を拠り所に走るでしょう。今はそういう時代だと思われます。
>ところで、現実の世界には地政学的な問題が複雑に折り重なっていることは確かでしょう。
>それは種の保存とそのために個体を維持していこうとする、すなわち生存の優位性を確保していこうとする
>様々な鍔迫り合いを反映しています。それ自体は生物の基本的な営為の様態を示すものですし、
>人類もけっして例外たり得ません。しかし、問題解決への一つの可能性があるとしたら、
>人類は既に生存のための戦いに纏わる不合理性(不経済性)を計算できる能力を獲得していることでしょう。
>つまり、少なくとも人類は智慧を働かせるための基材を手にしてはいるのです。
全く仰る通りです。「軍事・経済的優位性を振りかざすマジョリティによる、世界中に散在する資源争奪過程におけるエゴイスティックなマイノリティ虐め」と、マイノリティのレジスタンスとしての「テロ行為」の構図は、本来的な生存のための戦いとは全く無関係です。際限のない「Greed」が、獲得した叡智を専ら自らを太らせることだけに働かせているのです。
>かかる人類の叡智は、旧来の資本主義システムや共産主義思想を超えて、無論在来の宗教にも拠らずに、
>幾千年の月日にも堪え得るような恒久的な秩序を構築するべく、地球というMatrixからの挑戦を受けているのだと思います。
>人類がこの挑戦にどのように応答していくのか、果たしてそのモメントを今世紀中に見い出すことができるのか、
>我々が有する時空では眺望することは難しいかも知れません。
力によるパクス・アメリカーナはもう限界に来ていると思っています。それは自由主義・近代資本主義システムの終焉を意味しており、前述したように地球環境の劣悪化の修復と共に、新たな秩序体系が求められていると私も思います。この10〜20年はその過渡期としての様々な対立が予想されますが、それ以上に地球からのしっぺ返しが顕著になり、自滅を回避するために自然と秩序立てられていくのかも知れません。
>ただし、人々が僅かばかり先に来れる者達によって己の意識が操作されることを甘受し続け、
>また宗教や国家に纏わるEthosに拘るあまり思考停止に陥っている限り、やがて個々の
>基本的な生存条件の確保すらも覚束ない事態になると容易に想像できると思います。
必要なのは確固たる政治・経済・信条的見解を有する「独立した個人」として、他者との繋がりを築いていくことだと思っています。その意味で宗教システムも「情報」「糧」として冷静且つ客観的に捉えることが肝要だと思います。宗教で一番問題なのは、宗教そのものではなくそれを悪用する輩の存在です。良くも悪くも、心理学がそれに加担していることもまた皮肉なことです。
>さて、ここ日本の地の片隅を棲み家にして久しいのですが、自身の本心を探ってみれば
>最早この地に拘るところを見い出せずにいます。日頃のそんな物言いを評して、友人達は私を無国籍人間と揶揄します。
私も諸外国を回り、「喜怒哀楽の観点が同一である」ということを体感し、姿形や話す言語・文化といった表層的な差異は無に等しいという認識に至りました。皆等しく人間なのです。その意味で、「日本人」としてのアイデンティティがないわけではありませんが、日本へのこだわりは全くありません。私も無国籍人間ですね(笑)
>もちろん、同じ言語を話す人々に囲まれている安心感といったものがありますし、
>愛すべき家族や友人達がいます。しかし、私にはここを人生の最期を迎える場所と
>定めるような特段の拘りはありません。叶うものならば、何かMatrixのようなものに
>抱かれた感覚を伴なって彼岸に漕ぎ出すことができれば至福この上ないだろうとの想いは、
>地球上のどこにいても変わりはないでしょう。ただし、どの地にあっても直ちに
>こういった心象風景を受けとめてくれるとは限らないのが厄介な問題として残るのですが。
私が思い出した「至福この上ないであろうMatrixのようなものに抱かれる心情風景」はタヒチです。そこに存在するだけでトロケそうな「あり得ない風景」と「おおらかで心の豊かな人々」と共に暮らせたら、他に何も要りません(笑)。地球の懐の大きさを実感しました。