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Carry That Weightさん、こんにちは。
これまでは作られた“奇蹟”、言うなれば聖職者や教会関係者によって捏造された“奇蹟”を俎上に乗せてきましたが、もう一つの本源的な“奇蹟”について少し触れてみたいと思います。
おそらく、もう一つの“奇蹟”をキリスト教の歴代の指導者達が意識しなかったことはないでしょう。寧ろ、彼等はキリスト教者であれば必ずやそれを神の恩寵と受け取るはずだと、また信者達への究極的なメッセージ(切り札)になると十分心得ていたと推察しています。すなわちそれは、『あなたが存在すること自体が、神による(主の)“奇蹟”である。』との宣託に外なりません。
しかし、私は自分が存在することを神による“奇蹟”とも、それを恩寵であるとも受け容れてはいません。何故なら私が存在することは、宇宙の、限局的には地球というMatrixが生んだ“奇蹟”の投影であり、そこには何ら神の手らしきものが介在する必要性がないと考えるからです。環境条件の一つをとっても、確率論的にもこの地球上に微細な種子が萌芽し進化の過程を経て人類が誕生して来たこと自体が、紛れもないより原初的な“奇蹟”と言えるのではないでしょうか。そこに神なるものを持ち込もうとするのは浅はかな人間の知恵の仕業であり、宗教システムを死守せんとする愚かな教会関係者達の企みに過ぎません。
地球というMatrixから我々人類にたいし託されているミッションは、単に“奇蹟”を後継していくことではないでしょうか。そのことにおいては、たといキリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、仏教徒であろうが、人類は同じ運命を背負っていると思量しています。それでも、宗教は個人の内なる精神世界を支えるものとして今後も継続・維持されるでしょう。しかしながら、神なるものを措定しあるいはメルクマールにして、人類史を解釈したり進歩・発展の拠り処にする時節は疾うに過ぎ去っていると考えています。
ところで、現実の世界には地政学的な問題が複雑に折り重なっていることは確かでしょう。それは種の保存とそのために個体を維持していこうとする、すなわち生存の優位性を確保していこうとする様々な鍔迫り合いを反映しています。それ自体は生物の基本的な営為の様態を示すものですし、人類もけっして例外たり得ません。しかし、問題解決への一つの可能性があるとしたら、人類は既に生存のための戦いに纏わる不合理性(不経済性)を計算できる能力を獲得していることでしょう。つまり、少なくとも人類は智慧を働かせるための基材を手にしてはいるのです。
かかる人類の叡智は、旧来の資本主義システムや共産主義思想を超えて、無論在来の宗教にも拠らずに、幾千年の月日にも堪え得るような恒久的な秩序を構築するべく、地球というMatrixからの挑戦を受けているのだと思います。人類がこの挑戦にどのように応答していくのか、果たしてそのモメントを今世紀中に見い出すことができるのか、我々が有する時空では眺望することは難しいかも知れません。ただし、人々が僅かばかり先に来れる者達によって己の意識が操作されることを甘受し続け、また宗教や国家に纏わるEthosに拘るあまり思考停止に陥っている限り、やがて個々の基本的な生存条件の確保すらも覚束ない事態になると容易に想像できると思います。
さて、ここ日本の地の片隅を棲み家にして久しいのですが、自身の本心を探ってみれば最早この地に拘るところを見い出せずにいます。日頃のそんな物言いを評して、友人達は私を無国籍人間と揶揄します。もちろん、同じ言語を話す人々に囲まれている安心感といったものがありますし、愛すべき家族や友人達がいます。しかし、私にはここを人生の最期を迎える場所と定めるような特段の拘りはありません。叶うものならば、何かMatrixのようなものに抱かれた感覚を伴なって彼岸に漕ぎ出すことができれば至福この上ないだろうとの想いは、地球上のどこにいても変わりはないでしょう。ただし、どの地にあっても直ちにこういった心象風景を受けとめてくれるとは限らないのが厄介な問題として残るのですが。
また、会いましょう。