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(回答先: 民主主義は理想の制度ではない 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 26 日 23:11:08)
>民主主義を実現する為の軍事支配という倒錯した論理が一体どこから生まれてきたのかが問題です。
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http://www.asyura2.com/data001.htm
プロトコール 八
われわれは、常軌を逸していると思われるほど大胆かつ不正な裁定を下さなければならない場合のために、言葉の微妙な綾を探し出し、こんぐらがった法律用語を駆使して事態を正当化しなけれはならない。
そして、この裁定が最も高潔で道徳にかなったことを法律用語で言っているのだと思わせるように、はっきり述べることが肝要である。
われわれの幹部団は、周囲に全分野の知的人士を従え、その中心にあって仕事をするようにしなければならない。幹部団は、政界人、老練な法曹人、行政官、外交官、そして決定的に重要なことは、われわれの特別な教育機関で特別教育を受けた人士で構成されるだろう。
これらの人士は、社会構造のすべての機微を知っていて、政治の初歩から要諦までのすべての用語に通じている。これらの人士は、人間の裏側すべてに通じ、かれらが操作しなければならない人間機微の体系を熟知してい
る。それらの体系とはゴイムの素質、欠陥、悪習、本質、階級、身分の特徴など、考え方・感じ方の類型を意味する。
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これは要するに、支配者にとって都合の悪い制度は骨抜きししてやろうとする、悪い人たちが、支配的地位にある人々の中にたくさんいるということ。
彼らは、民衆を騙して、制度を骨抜きにしようとしている。
これに対抗するためには、民衆自身が「騙されない智恵」を持つことが必要。具体的には、「制度趣旨」すなわち(1)その制度が生まれるにいたった歴史的事実、(2)その制度を必要とすることになった問題点、(3)制度を理解するための考え方、を民衆自身が理解しておくことが必要だろう。権威者の換骨奪胎の発言に対しては「制度趣旨に戻って」自ら考え、その誤りを判断できるような力を持つことだろう。
それが出来ずに騙されてしまうというのは、要するに、主権者として必要な知識と判断力の教育をうけていない、ということにつきるだろう。主権者教育の欠如が原因だ。
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民主主義に関しては、国家という権力組織の最終決定権(国民主権で言う所の「主権」)を誰が持つべきなのか、という視点が根本的だろう。
民主政は国民が決定権を持つ。
貴族政は世襲の特定の階級の一群が決定権を持つ。
君主政は世襲の特定の一人が決定権を持つ。
君主政は、愚かか狂暴な君主に支配される危険がある。
貴族政は、特定階級のためだけの政治になる危険がある。
民主政は、愚衆政治になる危険がある。
どの制度を取るにしても、民衆が判断力を持たなければ、愚かな政治になるだろう。
民衆が判断力を持つのであれば、民衆の自律が望ましいだろう。
民衆が判断を忌避して、家畜としてよき飼い主を望むのであれば、君主政か貴族政になるが、民衆が家畜であることに安住するかぎりは、よき飼い主など得られないだろう。
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近代の民主主義は、たけ(tk)思うには、「ヒトがヒトであるかぎり法的に保護されるべき利益(人権)」の思考があると思う。
ヒトはヒトの集団のなかで、ある程度の権利を集団的決定にゆだねることになる。しかし、「ヒトがヒトであるかぎり法的に保護されるべき利益」には自分で自分のことを律する権利が含まれている。この自律権は集団に譲り渡したわけではない。人権である以上譲り渡すことはできない。集団の指導者を通じて自律の権利を行使するようにしただけだ、という思考なのではないかと思う。
つまり、人権としての自律権の集団的行使の形態が、民主主義だというわけだ。
* 人権に関する骨抜き理論の最近のはやりは、「人権の存在は実証できない」というものだ。当たり前だ。人権は存在(在るモノ)ではない。当為(在るべきモノ)なのだ。「在るべきモノ」というのは無い場合もあるから在るべきモノなのである。無い場合もあるから実証できない、というのは意味がない。そんな、似非法実証主義に、騙されちゃうのよね。というより、人権嫌いの支配者は「言葉の微妙な綾を探し出し、こんぐらがった法律用語を駆使して事態を正当化」しようとして声高に叫ぶヒトを雇うわけだ。