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(回答先: Re: 縄文ビトさんの論理 ジャンさんに返信いたします 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 4 月 12 日 11:17:11)
縄文ビトさん、返信ありがとうございます。
私は、マルクス主義者ではありませんが、マルクス主義という理論については、それはそれで純粋に・・教条的といわれるかもしれませんが・・とっておけばよい代物と考えています。マルクス主義が現実にそぐわないのであれば、憲法9条のように解釈を捻じ曲げるのではなく、マルクス主義ごとなげだしてしまえばいい。ただし、理論としてのマルクス主義はもしかしたら、いつか役に立つ可能性を残している限りは、決してねじまげることなく、そのまま宝箱にしまっておけばいいという感じです。
したがって、マルクスがためなら、空想的社会主義にでももどって考え直したとしてもいいだろうと思ったりした次第です。
で、感想なんですが、縄文ビトさんにしても、ワヤクチャさんにしても、社会主義の経済的側面と政治的な意味での独裁か民主主義かという点をごっちゃにしすぎているように思います。
資本主義イコール民主主義ではない(ファシズムは経済上は資本主義ではなかったのか)と思いますし、また、民主主義も人権同様、アジア的な民主主義の段階というのもあるように思います。
要するに、仮にソ連が社会主義であったとして(もともと、ソ連は国家資本主義以上のものではないという見解もありますが)、その政治形態がスターリンの独裁にいきついたということと、労働者階級による独裁ということとは、かならずしも必然性はなく、何らかの手法上の問題なのではないかという気もします。
ソビエト評議会の形式が、迅速な意思決定のもと行動する組織体であるためには、三権分立なとという形式はじゃまだったのかもしれませんが、仮にそのことが原因で独裁にいきついたのだとすれば、協同組合の組織のあり方によっては、当然、協同組合型の社会主義においても同様な独裁が起こらない保障はないと思います。
とにかく、マルクス主義のように、哲学をその一部に内包した運動は、意見を異にすると、すぐに批判し、分裂するか、もしくは、ことなるものを排斥してしまうのは、キリスト教の歴史にも似たものがあり、より強力な運動体がカリスマや厳しい党の規約を必要とするということと、できあがった国家における人権が、三権分立を中心とした民主主義の手法によって一定の保障を得られるということについては、経済上の問題とは別に考えたほうがいいと思います。
そういう方向から、私としては、縄文ビトさんのいっていることは、それほどヤバイこととは思いません。単なる理論上の興味を追求しているのみと思います。
すみません。もしかしたら、とてつもなくまとはずれなこと書いているような気がしますが今は、こんなことぐらいしか書けません。