現在地 HOME > 議論20 > 656.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/shohyou_essey/owarinaki.html
から、(投稿者の主観における)おすすめの部分を一部引用させていただきますが、
全文をごらんいただくことをおすすめします。
--------------------------------------------引用開始
しかし、この処方箋に疑問を感じるのは私だけではないだろう。将来へ期待することなく、その都度の日常をうまく、楽しく生きること、それで満足できれば苦労はないし、誰もがそのように生きることはできない。それに、渋谷の女子高生が調査の時点で本当に不安がなく楽しんで生きているとしても、十年後、二十年後に同じことが言えるかどうかはあやしい。大人になったとき、自分が生きてきた道に意味を見いだせず、自分の生を全体として考えなおすかもしれない。そのとき、先送りにされてきた不安に直面し、結局は苦しむかもしれない。
(中略)
自分の生きている意味、自己価値を求める欲望、それは自我の不安を乗り越えるためには決定的に重要なものだが、宮台真司の考え方では、この自己価値の欲望がまったく無視されている。人生の意味を求めている人に、そんなことは無意味だと言っているようなものだ。もちろん、過剰に未来や自己価値を意識し、その日その日を楽しむ余裕がなくなるのは、それはそれできつい生き方だ。しかし、彼の言説が日常を無目的に生きている人を肯定するとき、それは一方で自己価値を可能性の中に求める人を否定するような、過酷な宣告になっていないだろうか?
--------------------------------------------引用終了
これが、私が先に申し上げた、大衆社会(リベラル系社会学全般もこれに含まれる)に
おける、価値観喪失によるニヒリズム蔓延とつながってくる問題です。私自身もまた、
宮台氏の論説(といいますかリベラル系社会学全般)の欠落のように思える問題です。
ニートを問題視する見方は、これとは、逆の見方からのものと思われます。(秩序維持、あるいは保守)
・
ポストモダンとは畢竟するに、価値観相対主義のことなのではないか
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/655.html