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(回答先: 人類の課題としての『βプロトコル』(1) 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 16:33:41)
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http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/solomon.html
民衆はどんなことにせよ表面しか分からないし、非論理や矛盾に誘われ易いが、そんな者を相手に理性的な助言や説得が功を奏するだろうか。
彼らは浅はかな感情、迷信、習慣、伝統、感傷的な説に同調しやすく、党派根性に陥りがちである。
この党派根性と言うものは、どんなに論理的な合意と言えどもぶちこわしてしまうものである。
民衆の決議は全て偶然か、表向きだけの多数決によるものだが、それは政治の裏取引を知らないために、みすみす理にかなわぬ決議をさせられ、政治の中にアナ−キズムの芽がきざすのである。
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http://www.asyura2.com/data001.htm
自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。
ゆえに、実現不可能である。
人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。
与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は
一山の灰燼に帰するであろう。
国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるかでは・・どのみち、その国は回復できず滅亡するほかはない。
* ここでは「自由思想」とあるが、「政治的自由思想」のことであり「民主主義」のことだと思われる。
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(1)政治的判断能力がない国民に民主主義を与えて、多数決で政治を決めさせれば、とんでもない政治になってしまう、ということを愚衆政治という。
(2)政治的判断能力がない国民が直接決めるのは危険だから、(政治的判断能力がない)国民が代表者を選んで、その代表者が多数決で政治を決めればよい、という考え方を間接民主主義という。政治的判断能力がなくても、指導者を選ぶ判断力はある、というわけである。しかし、自ら判断する能力がない国民に、指導者を判断する能力があるはずがない。
(3)問題なのは、(a)国民の政治的判断能力であり、(b)国民が判断するために必要な情報が国民に与えられていることであり、(c)国民が自由に討論するために発言の自由が与えられていることである。つまり、(a)主権者教育と、(b)国民の知る権利と、(c)言論の自由である。その中で最も重要だと思うのは、政治的な判断能力を高める主権者教育だと思うのだが、あまり関心が持たれていないようである。
(4)「自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。」というのは、国民の政治的判断能力と言論の自由を通じて合意を形成していく能力が欠けているということだろう。初めから使い方を知って生まれてくる人はいない。そのような能力を育成する教育がないか、あるか、の問題だ。主権者教育があるかどうかで、この部分への評価は変わってくるだろう。