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(回答先: 構造改革と宗教 投稿者 健奘 日時 2005 年 1 月 31 日 18:01:59)
仲が良いこと自体は、それはそれで良いことですね。ただ、それが「仲良し教」という組織となると、宗教の様相を帯びてきます。「仲良し教」の最大の欠点は「悪を皆で共有して守りながら、外側の社会一般に対しても、その悪意(我良し)を実現しようとする」点ではないでしょうか。
この問題への対応は、個々人の自覚しかないかも知れません。誰かが悪意1(大量破壊兵器は無いみたいだがイラクを叩くぞ)を表明した時に、それを他のメンバーが面白がるまでは良いとしても、同調したり行動に移すようなことにならないように、悪意1を持つ者を切り離したり、周囲が同調しないように気をつけたりして、悪意1の拡大を防ぐべきではないでしょうか。
いくら仲良し教徒同士だからと言って他のメンバーが悪意2(そうなったら兵力を提供しよう)や実現計画1(イラクが核兵器を他の国に輸出していたという捏造報告書)を提出してくるようでは最早、スカル&ボーンズではないでしょうか。
現代では仲良し教1(特定の建設会社群と役所)に所属しなければ「人間ではない扱いを受ける」ようなことはほぼ無くなっていますが、入札談合などは現代でも行われています。仲良し教徒でなくても悪人ではないのだから、人間として扱われ同じ機会が提供されるべきでしょう。
「談合がなぜ悪いのか分からない」人は確かに多いのかも知れません。しかし、「その人の所属する仲良し教の人だけが善人ではない」あるいは「あなたの宗教以外に善人がいない訳が無い」と一言言えばその人も分かると思います。