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(回答先: 補足の意味も含めて 投稿者 如往 日時 2005 年 1 月 04 日 17:22:02)
如往さん、レスありがとうございます。
> 恫喝が個人の身に降り掛かることとして対応すべき喫緊の問題と意識するようになっ>たのは、以前に阿修羅でもまた最近のTV番組でも取り上げられましたが、象徴的にはロ>ッキード事件によって故田中角栄首相は米国の策動に嵌められたという言説を想起した>ためです。
日本の最高権力者がいとも簡単に降ろされたという印象を持ちましたね。
>恫喝は外交上では警告になろうかと思いますが、大抵の場合、警告を発する時点では既>に様々なオプションが立案され実行されるだけになっているでしょう。
そうですね。政治的目的を達成する為の恫喝の仕方は熱心に研究され実行されている
だろうと思います。
「弱みを握る」これが手段ですね。
ワイロを与えておいて後から「ワイロを与えた事を暴露するゾ!」と脅すわけですな。
>アングロサクソン・アメリカンの思潮には日本人の想像を超える、恫喝の歴史(伝統)>が脈動していると思い知らされたものです。
なるほど。
> 国内に目を転じると、その他に恫喝に絡む中核的問題としては抵抗権があります。日>本国憲法では抵抗権については実にさらりと触れられているだけです。日本国憲法が民>定憲法であるとするならば、抵抗権はその立憲主義を担保する最後の砦と言うことがで>きるでしょう。憲法では個人の抵抗権は保障されていますが、集団での抵抗権の行使は>内乱罪として一定の制限(頚木)を設けています。ただし、国民の総意が内乱を望んで>いないことが前提になります。
法は権力の暴走を抑制するものでなければなりませんね。
恫喝を法によって裁くようにならなければならないでしょう。
> 日本の論者の中では極々少数ですが、軍事評論家のガブリエル中森氏のように米国を>見習って日本国民も武装すべしという論を展開している人もいます。そもそも国民自ら>武器を所有していないことが、個人と国家(権力)や国家と国家の関係性が具体的に見>えて来ない原因であるという主旨です。
国家権力にとっては国民は非武装においておいて国家だけが武装していたいでしょうね。
暴力を国家が独占するようにしているでしょう。
国民の暴力行使は犯罪だが、国家の暴力行使は治安維持と言いますね。
>私は日本への適用や無論その実施に直截には賛同できかねますが、米国で銃砲の規制が>遅々として進まないのは、武器の存在が建国の歴史と不即不離であることに起因してい>ると見ています。つまり、新大陸への侵攻に際してはもとより、武力で独立を勝ち取っ>て来た経緯を考えても、それが国家(大英帝国)にたいする抵抗の標であったことは、>アングロサクソン・アメリカン(エスタブリッシュメント)の心に刻印されて今日でも>生き続けているのではないでしょうか。もちろん、移民が繰り返され来た人種の坩堝の>国で、絶えず人々が人種間の軋轢に曝されていることも少なからず関係していると思っ>ています。
いざとなったら国民が武器を取って政府を倒すという事があるでしょうね。
ヤクザが蔓延るのも何故か拳銃を所持できるからですね。
暴力の独占です。
> ところで、米国と日本国とが政治的に親密な関係にあるとは少なくとも日本では衆目>の一致するところでしょう。その中には、方やメンバーの自由な行動を許そうとはせず>パートナーの自立など全く望まぬ頑強なコアの層があり、方やパートナー内部には自立>を諦めて追随するを完全に習い性にしてしまっている一群と自立の道を模索し苦心惨憺>している一群が存在します。特に後者の意識レベルや知的レベルは様々で一括りにでき>ません。けれども、そのようなファクターで構成される日米関係が確定しつつあると見>ています。
> 我々日本人にとってそのような手枷足枷に加えて民主主義の枠組みを堅持しつつ、権>力による恫喝に抵抗していくための方策を模索するのには当然の如く限界性や困難さを>伴ないます。しかしながら、徒に臆する必要はないと思いますし、先ずは基本的な手続>きとしてかかる認識の上に立つことが肝要であると思量しています。
同感です。
私の発想としては権力に対しては対抗的権力をもって対応するしか無いと思っております。
企業権力に対して労働基準監督署が対抗的権力であるように
恫喝についてもしかるべき対抗的権力が抑制するような法や制度を作るべきだと思います。
> お問い合わせのHNについてですが、「ジョオウ」と読みます。その意味は、“如来”>がかく(行を修めて)の如く来れる者ならば、我々人間はかくの如く往く者、すなわち>“覚有情”(俗にあって覚ろうとしている存在)と謂えるのではないかという個人的で>勝手な解釈に基づいています。尚、“阿修羅”には仏法を護る軍神の意味もあることか>ら、たとい匹夫の身であっても少しでも知の護持に与することができればとの願いを込>めています。
> そして、何かと賛否両論はあれど、また、あっしらさんにそうした意図があるかどう>かはともかく、ここ阿修羅における氏の行動それ自体が抵抗の証であり、“覚有情”へ>のメルクマールであると捉える人達は、私と同様、けっして少なくないと想っていま>>す。
なるほど、そういう事ですよね。
あっしらさんの投稿をもっと読みたいと思いました。
でも、あっしらさんどうされたのでしょうかね?
12月26日以来投稿が無いとなるともう12日間も投稿なしって事になりますね。
旅行か長期出張でもなければこうならないと思うのですが。
心配ですね。
また、会いましょう。