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(回答先: 興味深いテーマです 投稿者 オリハル 日時 2004 年 12 月 30 日 19:13:37)
オリハルさん、こんにちは、はじめまして。
レスをありがとうございます。
ご紹介のサイトにもアクセスしてみました。
>私の認識としては、人(=私)の人生を妨害する行為は、その妨害者の魂を汚す行為であると捉えております。これは、受身の捉え方ですが、能動的には次のリンクのような方法があると思います。どちらにしても、物理的には単独個人という点で弱いというのがありますから、情報的・霊的な側面から攻めるしかないと思っています。
オリハルさんの精神世界(悟りの境地)を垣間見ることができたような気がしました。総じて恫喝のみに偏る統制や支配(恐怖政治)がそう長続きするはずもないとの見通しは頷けますが、現実には恫喝が個別的に苛酷な示威となって迫り来ることが由々しき問題として現出すると思っています。
衆を頼りに呪いをかけたり、例えば闇夜に人形に五寸釘を打ちつけるといった行為が、果たして個人の抵抗の手段として有効かどうか疑問があります。ただし、恫喝する相手を呪うのにもそれ相応の覚悟と心構えが必要だというのも十分諒解できるものです。しかし、その一方で、兎角善なる心が悪の求心力に絡め取られ易いのも世の常といった現実を看過することができないでしょう。
勿論、私も単なる脅しの繰り返しならば何ら恐れるに及ばずと考えています。けれども、恫喝に直面し震撼させられてから後に対抗策を講じるのでは既に遅すぎると思います。そして、具体的な材料なき脅しならば理念や信念もしくは個人の資質によって跳ね返すことが可能かも知れません。しかし、脅しの材料を捏造してまでなされる恫喝に抗しようとするとき、しかも孤立したままでの闘いを余儀なくされるとき、恫喝される側に実質的な災禍が甚大に及ぶのは想像に難しくないと思われます。特に権力による恫喝が陰湿で重層的なことは多言を要さないでしょうし、おそらく恫喝者自身の魂を汚すといった認識の範囲を超えていると想われる、その実態の把捉はかなり難しいかも知れません。
何れにしても恫喝を受けて驚愕し徒に萎縮してしまうのは愚かなことです。しかし、精神修養等によって超然としていられる状態を待たずして、現時点からも、恫喝に抗うべく対抗策やできるものならば一切の宗教色を排した心構えを構築していく必要があると思っています。
また、会いましょう。