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「複合差別をどう捉えるか〜構造の分有ということ」 岡真理さんにきく[IMADR]
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/411.html
投稿者 なるほど 日時 2005 年 1 月 04 日 08:42:03:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟 [毎日新聞]1〜6 投稿者 なるほど 日時 2004 年 12 月 22 日 22:47:44)

「複合差別をどう捉えるか〜構造の分有ということ」 岡 真理(大阪女子大学教員)さんにきく



T部 「同じ女」?――「マイノリティ」女性と「マジョリティ」女性がどう向き合うか、差別構造を共有するということ〜ジェンダ ーと植民地主義、マジョリティがマジョリティの問題として考えていく、アイデンティティと経験の「共有」

* 昨年、『彼女の「正しい」名前とは何か〜第三世界フェミニズムの思想』(青土社)を出された、現代アラブ文学および第三世界フェミニズム思想の研究者である岡真理さん(大阪女子大学専任講師)は、一貫して植民地主義の問題を「女」の問題として考え、発言し続けている。その岡さんに、ジェンダーと人種主義の交差をどう考えるかについてお話を伺った。。.。。

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「同じ女」?――「マイノリティ」女性と「マジョリティ」女性がどう向き合うか

HP 岡さんは、「フェミニズム」が「普遍的人権」アプローチ、または「グローバルフェミニズム」というアプローチで「第三世界」の女性の抱える問題を考えていくときに、「文化帝国主義的」側面をもってしまうことに気をつけなければならないということをおっしゃっています。

 実は運動の領域でもこれまで何度もいろいろなところでこのことが指摘されてきました。もちろん、「同じ女だから」という幻想がもはや通用しないということが、少なくとも言葉の上では大分語られるようになってきたと思います。ただ、そのことが何を意味するのかということが、フェミニズムの理論や運動において、掘り下げられていないという気がします。

 問題なのは、ではそこから先どうしたらよいのか、ということではないかと私は思ってきました。それについて考えていらっしゃることをお聞きしたいのですが。

岡 私自身は「在日」の人やアイヌの人とは違う立場にいるし、またいわゆる障害をもっているわけでもない。また「第三世界」の女性たちとの関係で言えば、グローバルな経済システムの中で明らかに加害者の側にいるわけです。そういう自分が女性として被差別者であり、同時に抑圧する側にいるということを考えると、女性だからといって即、「第三世界」の女性たちと連帯できるとは思わないわけです。

 思わないけれども、自分が「第三世界」の女性たちの問題をどうやって自分の問題とできるか、そのときにどういう言葉を発することができるのか、ということをどうしても考えてしまいます。私自身が被差別の側と差別する側に同時にいるということを問題にしたいのですが、これを他の立場にある女性に話しをするのは実際はすごく難しい。そのときに唯一の話しの糸口は、それこそ「同じ女性」であるのに、ということなんです。「同じ女性」だから、と言われたくないと思いつつも、他の女性たちの問題を考えようとすると、「同じ女性」ということを持ち出してこざるを得ないというのがあります。

HP いわゆるマイノリティの女性たちの中にもそういうことを悩ましく思っている人はたくさんいると思います。そういう意味で岡さんが怒ったり、くやしがったりしていることと通底しているかもしれないと思います。

 で、同じ女という言い方が欺瞞であって、世界の女性に共通の課題なんてどうしてそんなに簡単に言えるの?という、岡さんの問いかけはその通りだと思うのですが、ではそこから先どうするのかというと、岡さんがおっしゃっているのは、やはりマジョリティの側が自分の問題として考えていくプロセスがないといけないし、いつまでもマイノリティの側が自分たちが抱えている問題を教えてあげないといけないような状態なら、もう仕様がないのかもしれない、ということなのでしょう。

 でも、善意でマイノリティの問題を知ろうとしながらも、もしも糾弾的な態度を示されたときにどうするのかというと、もしかするとマジョリティの中でどうするのかということがもっと話されなければならないのかもしれないと思うのですが。

岡 「同じ女」じゃないというときに、何に対して「同じじゃない」といっているのかということが大切だと思う。水と氷は違うのか、同じなのかというように、表面だけ見て違う、いや同じだ、と言っているに過ぎないのではないかと思います。「同じ女じゃない」というのは普遍的に共通の課題がないという意味ではないんです。普遍的人権という形で女の問題が存在しないと言っているのではないんです。こういう議論をするとポスト・モダニストだと言われてしまうんですが、私は近代主義者なんです。普遍は大好きなんです(笑)。

 問題は、本当に普遍的な問題が扱われていないということなんです。複合差別の問題というのは、実は植民地主義の歴史や南北間経済格差の問題やグローバルシステムの問題です。その中で二重、三重の差別を受けているアジア、ラテンアメリカ、アフリカの女性たちの状況は「特殊な」状況であると言われる。何か「女の問題」なるものがあって、それに加えて民族差別や経済差別を受けているという捉え方がされていますが、そうではなくて、まずみんなその構造を共有しているんだということだと思います。

 単純にいってしまうと、北側の女はジェンダー差別を抱え、南の女はそれに加えて民族差別やレイシズム、グローバル経済システムの問題を抱えていてそれが第三世界の特殊な状況だという理解がされているのではないかと思いますが、それは間違いです。端的にいって世界の人口からすれば南の女性の方が圧倒的に多いわけで、彼女たちの問題の方がマジョリティだということになる。数から言えば。ジェンダーの問題だけを差別としうるような方が数から言えばマイノリティです。

 いくつか違う差別の問題を抱えているのが第三世界の女たちだ、という認識自体が誤りだと思う。先進国の、北側の女たちだって同じ構造を抱えていて、ただ抑圧を被る部分にいるか、抑圧を与える側にいるか、という違いはあっても、構造自体は共通してもっている。

 そうすると、差別が解消されるとか、平等になるということはどういうことかということが問題になってくる。つまり、構造自体の解消の問題なのか、それとも、自分がいる場において、既得権益において例えば男と平等になることなのか。私はそれは差別的構造システム全部の解体であり、全く新しい関係性を作っていくことだと思うのです。だとすればそれは抑圧する側にいてもやはり自分の問題になると思う。

 だって、女性差別の問題だって女性だけの問題ではないとすれば、75年のメキシコ会議以来、資本主義経済システムによる「南」の人民の搾取・抑圧の問題を、世界の女たちが抱える問題として共有しようとするボリビアのドミティーラ・バリオス(注1)と、彼女を「男に操られている」として非難するベティ・フリーダンの対立というものがあって、95年の北京会議ではとくにNGOフォーラムで、世界のいろんな女性たちがいろんな形で自分たちの問題を発言するようになった。

 それは一見そういう形で世界中で共有されるようになったともいえるけれど、同時にそれが「そういう問題はすでに共有されている」という言い方で、アリバイ証明になってしまっているのではないか。実はそれが北と南の女性たちが共通してとりくむべき課題としては共有されていないということですよね?それって、絶対間違っていると思う。

 私はグローバル経済システムの問題であるとか、清算されていない植民地主義の問題は、例えば「慰安婦」問題については、加害国の人間としての責任を果たす必要があると思います。たんに女の問題だからというのではなく。最近、「グローバルシスターフッド」がまちがいだというということはすでに証明されたとか、女が多様だということは当たり前のことなんだ、何をそんなに「同じ女」なんていうことを言っているんだ、というような、言葉の上では共有されているかのような感じ、あるいは自分はそんなことは分かっているんだということを証明するためにだけそうしたことが言われているような感じを受けます。

 でも私はそのことはそんなに広く一般に共有されていないと思うんです。まず、「女の問題」という前提を共有していない人たちもいるし、まだまだ根深く「同じ女だから」という考えを抱いている人たちもいる。

(注1) ドミティーラ・バリオス/M.ヴィーゼル『私にも話させて』(現代企画室)参照。


差別構造を共有するということ〜ジェンダーと植民地主義

HP その辺りのことについて、岡さんの『彼女の「正しい」名前とは何か』の中で一番印象に残っているのは、この徐京植さんと上野千鶴子さんのやりとりと、それをめぐる考察の件のあたりで、ここにいまおっしゃったことが凝縮されていると思います(注2)。フェミニストとして、フェミニズムの問題として、植民地主義の問題を位置づけるべきだとおっしゃっているわけですね。

 それには賛同するのですが、でもやはり上野さん自身がここでおっしゃっていますが、何かにつけて後回しにされがちなジェンダーという視点の優先順位を下げるのは断固拒否するというポリティックスは非常に強固にあると思うんです。それは誰がどういう文脈で言うかによって違うのかもしれませんが。例えば私たちの複合差別研究会で、沖縄の方が沖縄の反戦運動の中での性差別の側面を話されました。

 沖縄の女性が沖縄の反戦運動の性差別的側面を問題にするのは正当ですが、沖縄の女性でない者が指摘しようとするときの問題なのかもしれない。例えば上野さんの言葉を借りれば、沖縄の平和運動の性差別的側面をジェンダーの側面が常に後回しになってきたではないか、と指摘することが不可能なのか、という問題はどうでしょうか?

(注2)
 1997年に行われた「ナショナリズムと「従軍慰安婦」問題」をめぐるシンポジウムの中で、パネリストの一人の徐京植さんが「慰安婦」連行の強制性が問題にされるが、それは植民地支配の中で行われたものであり、植民地支配それ自体の不法性と強制性が問われなければならないと問いかけた。

 それに対し、同じくパネリストの上野千鶴子さんが、もしも「慰安婦」制度を植民地主義支配の枠で捉えるなら、日本人「慰安婦」の問題を問題化できなくなってしまう、国境を越えた女性の性暴力被害について問いを組み立てていくことができなくなってしまうと発言した。

 この発言をめぐってその後いくつかの批判が展開された。岡さんはこれについて、日本のフェミニストが植民地支配を問題にするのも徐さんと同じくらいかそれ以上に当然のことであり、植民地主義の問題の中で考える限り日本人「慰安婦」の問題を問題化できないとするのは、植民地主義の問題をいわゆる「植民地」の問題としてしか捉えていないからではないか、と問いかけている(『彼女の「正しい」名前とは何』p.288〜298参照)。

岡 徐さんは「民族」の問題と「ジェンダー」の問題を対置して「民族」の問題の方を優先しろと言っているのではありません。私もそうです。というのは、植民地主義の下では男と女の関係が植民地主義といったものと独立して別個に超歴史的に存在しているわけではなく、植民地主義の歴史の中で生まれてくるのです。また、植民地主義の問題は「植民地」の問題ではない。それはまさに帝国のイデオロギーです。

 そうすると沖縄の女に対する位置付けと、朝鮮の女の位置付けと、日本の女の位置付けは全部違うわけです。帝国の中のジェンダーというものが植民地主義のイデオロギーの中で沖縄をどう位置付け、朝鮮をどう位置付けるかという問題です。植民地主義支配全体の枠の中で強制性を考えるというのは、ナショナリズムの問題がジェンダーの問題に優先されるということでは全然ないんです。

 むしろ、ジェンダーの問題自体が当時の植民地主義的イデオロギーといった全体的文脈なしに語れないということです。沖縄におけるジェンダーの問題も基地の問題や、アメリカによる軍事占領、そして日本国歌による沖縄の位置付けといったものと無縁にあるわけではないでしょう。

 だから、男女差別の問題よりアメリカ/日本の関係の方が先なんだというのに対して、ジェンダーの視点を後回しにさせないと言うのは分かる。その文脈で上野さんがそう言うとしたらそれも分かります。ただ、この植民地主義の問題で上野さんが言っていることはそれとは全然違う。

 例えば「内鮮一体」というのがあります。これは日本の女が朝鮮の男と結婚するのを進めるものです。朝鮮の女が日本の男と結婚するのではだめなんです。朝鮮の女が日本の男と結婚すると日本に入っちゃうからです。兵力増強を目的としたものだから、朝鮮の出自で日本人になる男が増えなきゃいけない。朝鮮の女がいくら日本のイエに入って子どもが生まれてもそれはあくまでも日本の内部で日本人が増えるだけです。問題は朝鮮の中で日本人が増えなきゃいけない。

 だから、日本の女が朝鮮の男と結婚する、ということになるのです。すると女がイエに入るシステムは共通しているのですが、一方で朝鮮の女が日本の男と結婚しても朝鮮性は子どもには引き継がれない。生まれた子どもは日本人です。でも日本人の女が朝鮮の男と結婚すると、その子どもは朝鮮人になるのかというと、それは日本人になる。

 だから、朝鮮性、つまりエスニシティということを見た場合、日本の女と朝鮮の女は決して同じとはいえない。また「慰安婦」についても朝鮮の女で供給することが不可能になった時点で、では日本の女の中からとなったときに、any Japanese womanだったかというとそうではなく、沖縄の女だった、というようにやはり女の間にも違いがある。「慰安婦」への強制性を植民地主義全体の強制性の中で考えるというのはそういうことです。男、女の関係軸だけで抽出することはできない、植民地主義の全体性の中で位置づけて考えるということです。
 
HP でもああいう言説は受け入れられやすいと思いませんか?良い悪いではなく、何か非常に強力なものがある。


マジョリティがマジョリティの問題として考えていく

HP これはいろんな人が言ってますけど、在日の女性であれ、アイヌの女性であれ、自分たちが主張していることをあたかも自分が考えてきたかのように言われるのはもうこりごりと言う人たちがいます。以前「女性学年報」(第15号、1994年)でマイノリティ女性特集号が組まれました。その後それがマイノリティ女性との対話につながっていったかどうか分かりませんが・・・。

岡 その「女性学年報」はいま絶版になっていて私は読んでいないのですが、鄭暎恵(チョン・ヨンヘ)さんが「私は『在日』の女性に向かって語っている」と書いているそうですね。それを字義通りに受け取る日本人の女性たちがいるわけです。「そうか、『在日』の人が『在日』に向かって語っているのね、じゃあこれは『在日』の問題なのね」と。

HP だから「私の問題ではない」、「私には関係ないのね」という受け取り方ですね。

岡 そう。ある特定のコミュニティの問題でしかない、と。鄭さんがそう書いているのは、最初からそういう場が与えられてしまっていることへの抗議ですよね。ジュディス・バトラー(注3)がレズビアン女性について書いてくれと頼まれて、引き受けるか断るか、非常に悩んだという経験をバトラー自身が書いているそうです。それを引き受けるとすれば他者からレズビアンと規定されるということを自分で受け入れることになってしまうわけでしょう。

 逆に、断ればそこで存在がないものにされて、訴えたい問題が主張できない、というアポリアに陥る。マジョリティの女性って、女として答えろ、というのはあるかもしれないけれど、それ以外にはないですよね。チョンさんが書いている状況はそのアポリアで、「在日」性を他から規定されてもそれを引き受けるのか、でもそこで語らなかったら「在日」のことが問題化されない、という。

 そこで出てきた「日本人に語るのではない」というのは、そういう構造自体を批判的に提起しているのに、その提起は、女性学会ではどういうふうに受け止められているんでしょうか。私が提起している問題もそういうことなのですが、そんなことは分かっているというような反応しか返ってこない・・・。

  それから先どうするかという問題について、これ、という答えはないけれど、これはマジョリティの問題だと思うんです。75年のドミティーラ・バリオスから95年の北京会議まで一貫して同じことが主張されていますが、そうか、「第三世界」の女性たちはそういう問題を抱えているのね、とか、世界の女性がいろんな問題を抱えています、というような理解がされていますよね。でも「彼女たち」の問題ではなくて、「私たち」の問題としてその解決を考えるべきじゃないかと思います。

 フェミニズムの中ではまだそのような形で広く、「私たちの」問題として共有されていないのではないでしょうか。つまり、「私たちの」問題として私たちが解決を探っていくために、だから「彼女たち」の話しを聞きましょうという形にはなかなかなっていないですよね。そういう形で問題にしていきたいと私は思っているんです。微力ですが、授業でもそういう形で学生に提起しています。
 
(注3)
ジュディス・バトラー
米国・カリフォルニア大学バークレー校教授(比較文学)。著書にフェミニズム理論に影響を与えた『ジェンダー・トラブル』など。

HP 私たちが複合差別研究会でも悩むのは、マイノリティ女性の間で討議するといったことは考えやすい、でも、マジョリティの女性に対して何を言うのか、言わないのか、どうするのか、ということになると、はたと困ってしまうところがある。

 自分たちはこういう問題を抱えているということを言い続ける以外に術がないような気がしてしまうのです。もう言わなくてもいいんじゃないか、とも考えられるのかもしれませんが、誰かが「でもそれでいいの?」と問いかけると歯切れ良く答えられないところがある。

岡 マイノリティの側がマジョリティに向かって、こういう問題がある、と語りかける、そしてマイノリティがインフォーマント(情報提供者)になってしまう、ということですよね。もちろん、マジョリティが自分たちの問題として考えていくためには、まず状況を知らなければいけないわけです。

 でも、それはたんに「あなたたちの」話しを「聞く」というのではなくて、「学ぶ」という姿勢で耳を傾けなきゃいけないですよね。そのときに、差別の問題は差別を受けている当事者が一番よく知っているとしても、あるいは当事者以外の人が代弁はできないとしても、やはりまずマジョリティがマジョリティの間で勉強すべきだと思う。そのとき分からないことがあったら、マジョリティがマイノリティの研究グループの中に入って行って、その場で自分がマイノリティとなって話しを聞く、ということが必要なんじゃないでしょうか。

 そこで学んだことをマジョリティの方に持ち帰って共有して、ある程度分かってきたところで初めて、もっと話しを聞くためにマイノリティの人を呼んで、といった形にすべきではないでしょうか。何か「ご拝聴」みたいなことは・・・。

HP よく出てくるのは「とても勉強させていただきました」という表現です。それはそうなのですが、で、それでどうするのか、というのが抜け落ちているという・・・。

岡 これは自分たちの問題なんだということを徹底的に理解するという作業が必要ですよね。マジョリティが自分たち自身の問題としてとりくまなければいけないんだという理解。

HP そこが多分一番難しいところでしょうね。

岡 そういう認識ができたら、いろんなグループ間の交流ができると思うんですよ。今あるこの構造を解体しなければならない、それぞれの側の人間として。私が「分有」という言葉を使うのはそういう意味なんだけれども。


アイデンティティと経験の「共有」

HP 政治的課題を分有して実践において差別的構造を解体していくことを目指す、というのはその通りだと思います。ただ、実際には言説において、運動の場においてもいわゆる属性によるアイデンティティの政治というのは非常に強力だと常日頃感じます。

 徐さんと上野さんのやりとりもそういうことに関係すると思います。では個々人が、女だからとか在日だからとかというアイデンティティにどう抵抗していけるかがカギではないか、と思うのですが、これについてはどう思われますか?

岡 その属性というのはどういうことですか?

HP 言い換えると例えば女だから、部落民だから、被差別部落のことが語れるとか、部落以外の者には部落差別は分からないんだということから出発して他者との関係を考えていくということです。一般に「アイデンティティに基づく政治」と言われるもののことです。

HP なんというのでしょう。それはかなり運動の現場などで現れているのが見える訳ですが、一番端的なのが、差別された者にしか差別は分からない、あるいはもっと極端に言えば差別について語る資格はない、というような考え方があります。これは現実には非常に強力に存在していると思う。

 これに対して「違う」と思うのですが、ではどうやったら自分を「被差別部落の女性だから」というところで立てるのではなく、それに引きずられるのではなく、でも、被差別部落の女性に対する抑圧や差別を生んでいる構造を変えていくことに自分が参画していくことができるのか。それは新たなアイデンティティを打ち立てるということなのかもしれませんが、結構難しい、と思うのです。

岡 そのとき、属性を同じくする二人がいた場合、Aさんの経験というのはBさんに本質的に分かることなんですか?

HP いえ、違うと思います。

岡 そうですよね。

HP でも分かるはずだ、共有可能だと思いこまされていますよね。

岡 そう思いこまされている状況というのは、外のマジョリティ集団との関係ですよね。以前、『彼女の「正しい」名前とは何か』の中にも収められている「共感するということ」という文章を書いたとき、それがきっかけで関西のある大学に呼んでいただいたことがあります。日韓関係のことをやっている、「在日」の人も参加しているグループでした。

 で、私のその文章を読んだある「在日」の女性が感想として、「慰安婦」問題を日本人の学生に言っても理解しない、あんたたちには分からないんだ、朝鮮人のことは朝鮮人にしか分からないんだ、というふうに思っていたけれども、「慰安婦」にされた女性と、戦後の日本社会に生まれた「在日」とはエスニシティは同じでも、やはり違う。自分が「同じ朝鮮人」だからという理由で「慰安婦」の人が受けた苦しみを分かるんだろうかと考えさせられた、と言うのです。

 そう考えてくれたということが私にはすごく嬉しかった。そこにおいて、日本人には分からないだろうが、私は同じ朝鮮人だから分かるんだ、と彼女が本質主義的に語らざるを得ないのは、戦後の日本社会のありようの結果ですよね。被差別者の訴えがなぜ糾弾的な語りになるのかということも結局はこの問題になってくる。なぜ、「私たち」のことは「私たち」にしか分からないんだという、属性やアイデンティティの問題に本質主義的に還元してしまうような語りが出てくるのかというと、そういうように語らせる構造がある。

 それを「そうか、じゃあ、私たちには分からないのね」という受け取ってしまうのではなく、そこでマジョリティが自分の問題として考えるということが必要なのだと思う。だって、それはむしろ彼女たちにそのように語らせている日本社会の方の問題なのだから。日本人だから朝鮮人の経験が分からないというよりも、そう語らせるような日本社会の状況があり、それはひいては、「在日」同士の間で日本人には分からないんだと言わせる状況なんだということ。それを考えることが必要だと思うんです。

 一人一人が経験していることって特異な経験であって、どんな属性を共有していようが他者には基本的には分からない。人間であるとはそういうことだと思うんです。反対にそうだからこそ、コミュニケーションの可能性が生まれてくる。他者だから、私があなたじゃないから語るということに意味がある。

 ビョン・ヨンジュさん(映画「ナヌムの家」の監督)が今回日本に来られてお話された中で強調しておられたのが、分かることが大切なのではない、むしろ、分からないかもしれないということ、距離を大切にしたいということです。距離というのは私とあなたが違うっていうことでしょう?

 彼女は韓国人だけれども、他者として元「慰安婦」を撮ってきた。大切なのは分かることではなく、分かろうとすることだ、と言っています。だとすれば、集団やアイデンティティの境界を越えて「分かろう」とすることは誰でも成しえることだと思うんですよね。「あなたに私たちの苦しみは理解できないんだ」と語る、そこに込められている苦しみも含めて分かろうとすることです。最終的にはそれは分からないかもしれないけれども。また、最終的に分かるということはどういうことか、とも思います。

HP そうですね。同じ在日の女性だとしても、同じ時代を生きていたとしても、それぞれみな経験が違うわけで、究極的には全く経験を共有し合うということはできないとするならば、例えばあくまでも、個として個の経験を語る、ということを貫き通すという方法はあるかな、と思います。

 しかし、そのときに「同じ女」とか「同じ部落民」というのが非常に強力な磁場を形成していて、ある個人があくまで一個の人間として、<個>として発言しようとして、その集団の全体の経験を代表するものではまったくない、という姿勢を貫き通そうとすると、逆にその集団からはじき出されてしまうようなところがあるわけですよね。そういう意味では、個として語ったりすることがなかなかできないような仕組みがあるんじゃないかということをすごく感じます。

岡 もう一つ、個として生きていこうとすること自体が非常に難しいと思いますが、それができるとすれば、それはとても強い人だと思います。そこで、自分が生き延びるために、「私たち」といったり、あるいは「私たち」というものがあるんだと信じることによって日々を生き延びることもあるわけだし。だからそれ自体がいけないことじゃないと思うのですが。

HP その通りだと思います。いまIMADRではグァテマラの先住民族の人たちと小さな識字教室プロジェクトをしているのですが、その中で考えるのが、自分たちのアイデンティティを、もしかするとそれ以前から強く存在していたわけではないのかもしれないけれど、それを逆に構築することで内戦を生き延びることができたとも言えるのではないかということです。

岡 だから、例えば個として生きるべきだという言い方は私としてはできない。私自身だって弱いし、やっぱり落ち込んだときなど「私たち」といえる関係に救われる面もあるし。

HP 個として生きられるのは、ある特権性を備えた人ですよね。

岡 中国語では「私たち」というのは二種類あるそうですね。目の前にいる人を包含する「私たち」と排除する「私たち」です。例えば日本語だと「手前ども」というと相手を排除するけれども、「私たちで一緒にやりましょう」というときの「私たち」は相手を含んでいます。そういう違いですね。

 そうすると「私たち」といったときに、同じアイデンティティを持つ者同士を指して使うこともあるけれども、そうではない、まさに他者であるからこそ「私たち」の関係があり得る気もする。だって「私たち」って決して「私」の複数形ではなくて、「私」と「私でない者」の複数形なわけだから。

 そういう意味では私自身が他者の経験を理解できるかということにこだわるのは、そこに何か希望や可能性がある、いや、そこにしかないんじゃないかと思うからです。他者が他者であることを見極めるということに。他者の経験を100%共有するのは不可能なんだ、私の理解は私の理解でしかないんだということを。他者と私はあくまでも他者なんだという部分でこそ、逆に人間のコミュニケーションや「私たち」というものに可能性があるような気がするのです。

http://www.imadr.org/japan/interview/oka1.html



U部 異質な文化に対してどう対応できるか、「文化」をどう捉えるか、「文化」を主張させるものは何か

異質な文化に対してどう対応できるか

HP もう一つ今日お伺いしたいのは、いわゆるリベラルな社会で、その社会の価値観とは違う文化的慣習なりをもつグループが存在するときに、そのグループ内で起こっていることに対してどう対応したらいいのか、という問題についてです。

 例えばフランスでは公教育の場では世俗主義をとっていますが、イスラム教徒の女子学生がスカーフを学校で着用するのを認めるかどうかが問題になりました。同じような問題は米国やカナダでも起こっています。

岡 米国だとどういう事例があるのですか?

HP 例えばまさしく女性性器手術(注4)が問題になっています。これはカナダでもそうですが。非常に目立つのはイスラム社会から来ている人たちに関わることです。そういうことに対してどうするかについて、リベラリズムの枠内でいろいろな考えがありますが、大きく分けて二つあります。

 一つは当該のグループ内で起こっていることには基本的に不介入の立場です。ところがそのグループの個々の成員がそのグループから何らかの理由で抜け出したい場合には、抜けられる道筋がちゃんとなければならない、という考え方です。

(注4)
女性性器手術(FGS)
日本では現在一般に女性性器切除(Female Genital Mutilation=FGM)と呼ばれているが、岡さんはmutilationにはからだの一部を切断することで身体を不完全なものにするというニュアンスがあり、この語に内在するアフリカに対する人種差別への批判を込めて女性性器手術(Female Genital Surgery=FGS)と表している。詳しくは『彼女の「正しい」名前とは何か』p.53―55を参照。

岡 抜け出せないわけですか?

HP 抜け出せるようにするというときに、そこにそもそも私の疑問があるんです。抜け出せないというのはどういう状況を想定しているのか、と。抜け出せるというのは、恐らく、その国全体の憲法なりで基本的人権を規定していてそれはその国の住民すべてに適用される、という場合に、それと対立するような状況が生まれたとき、個人の権利の方が優先されるのだということが想定されているのだと思います。

だから、理念的だけではなくて、政策的にも、例えばそういう個人の権利が裁判システムを通して保障されるようにする、というようなことを言いたいのだと思います。 一方でそういうふうに考えない、つまり、「不寛容」なグループに対しては介入すべきだという主張もあります。

岡 そこで、個人の権利とは何を含むのか、ということになりますよね。

HP アメリカのような社会は伝統的に個々のグループ内で行われることを私的空間と規定して、そこに国家が介入しないという考え方です。でも一歩私的空間を出てしまったら同じ法律のもとですべての個々人の行動が規定される。ただ、多様な文化集団が存在し、同時になおかつ西洋文化、イデオロギーが支配的なものとして存在しているときに、多様な文化集団が私的空間にだけ押しとどめられていたらだめなんだという意見がある。

 つまりその集団が一定の資力をもっていて、自分たちだけで文化を維持、発展させていくことができればいいけれど、そうでない場合には完全に同化の圧力にさらされていくわけです。だから例えば国家がいろいろな形で支援を与えて、そうした小さな集団が自分たちの文化を維持できるようにすべきだ、という考え方があります。

 それとは少し違いますが、例えば女性性器手術のような行為がアメリカやカナダで行われたらどう対応するかということは、それなりにリベラルな人たちの中で問題になっている。それに対してあくまでも非介入という立場を貫くのか、あるいは問題にするのか、だとしたらどういう形で問題にするのか、ということが問われてきます。日本ではまだ具体的にそういう問題が表面化していませんが、いずれそういうことが出てくるでしょう。そういうときに日本人がどういう反応をするか、ちょっと不安感もあるのですが、その辺りのことについて周囲の方たちと討議することはありませんか?

岡 まず討議そのものが成り立ちません。日本や北側先進工業国における性器手術批判のあり方の問題性に提起すると、性器手術を擁護していると思われてしまって。仮にあの習慣に、私はそうではありませんが、賛成だったとしても、その習慣を人種差別的で、アフリカやイスラーム社会の文化全般に対する偏見をあおるような語り口で批判していいのかという問題は残ると思うんです。

 やはりそこで絶えず「私は実は反対なんです。でも反対の私が、そういう批判の語り口は問題だと思っているんです」と常に言わせられる、そういう圧力がある。また私がそう言っても「やはりこいつは擁護のために書いている」としか思われなかったり。本当はおっしゃるような議論につながらなければならないのですが、そこまでなかなかいかない。

 具体的にどういう問題が出てくるだろうかと考えてみると、いろんな問題があるだろうと思います。女性性器手術の問題のみで考えることはできません。

HP 具体的に問題になったのは、例えば親による子どもへの体罰があります。アメリカだったと思いますが。子どもをしつけるときに叩くということがかなり一般的に行われている社会からやってきてそれをアメリカでやると、児童虐待ということになってしまう。で、裁判になった例もあるとききます。確か親の側が負けたはずです。


「文化」をどう捉えるか

岡 FGSの問題に関しては、例えば裁判になって負けて、娘に手術を受けさせた母親や手術者の女性が刑務所に入れられたとします。でも、当の母親や女性がアメリカの価値観やシステムを分かっていなかったら、刑務所に入れられるということも分かっていなかったら、法的・社会的罰則の効果をもたないことになります。ではそういう状況でそうした罰則にどういう意味があるのか、という議論はすでにあります。

 文化って常に交流しているし、常に変化しているし、閉じた文化なんてないわけですよね。そういう意味では同化という現象は常に起きている。とすれば、異質な文化への介入は同化につながる、という議論は、つまり「同化していない我々の文化」みたいなものが言説的に問題になってくるという状況とは何なのか、というところから考えていかなければならないんじゃないかと思います。

 実際にFGSにしても、それはいろんな交流でなくなったりもする。例えばある世代が教育を受けることによって、自分の子どもにはしなくなる、というように、別に西洋の価値観に触れるとかではなくてもありえます。つまり、近代的教育制度によってそうなったりもするし、そもそもサウジアラビアはFGSを行っていない、ということを知ることによっても変化が出てくるわけで、何か西洋的な価値観に触れないとそれに気が付かないとか、西洋的な価値観に常に対立するとかという見方に私は反対なんです。

 例えばアメリカとか、ある特定の社会の法的介入がなくても、コミュニティは閉鎖的に存在しているのではないから、いくらでもいろんな介入の仕方はある。ですから、アメリカの法的システムは理解していなくても、例えばサウジアラビアやイランの宗教者が言うことは理解できる、ということはあるわけです。で、やっている本人たちは虐待だとか思っていなくて、子どものためと思ってやっている訳ですよね。

 そういうことは私たちの社会にだってゴマンとあるわけでしょう?良い大学に入るために受験勉強させて、というようにね。そんなのは虐待とは思われていない。そのことを対象化して見られるようになるというのは、アメリカ社会からそういう視点を強要されなければできないというわけではないし、そんな変化は歴史的に常に起きてきたと思います。だから、にもかかわらず、その文化を閉じたものとみなして、それに対してアメリカ社会がどうするかという設定自体がおかしいと思うんです。

 一つの文化の中でも、例えばFGSをしない人もいるし、反対している人もいるし、その文化も本国と切り離されている訳でもないんです。本国の中でもいろんな価値観があるものとつながっているとすれば、いろいろ変わり得るわけだし。ある人たちが「これが文化だ」と言えば、もう一枚岩的に文化を扱ってしまう、それが私はもう、嫌いです(笑)。

 ウルドゥ語をやっている友達が言っていたんだけど、パキスタンからやってくる人たちが増えて、パキスタン男性と結婚する日本人女性が増えた。友人は彼女たちにウルドゥ語を教えていたんですが、銀座で教室をやっているんだけど、日本人の女性たちがスカーフをしてくるんだそうです。パキスタンの女性たちも、海外に出ればみなスカーフはしないし、上流の人たちはしない。

 で、なぜスカーフをするんですか?と聞くと、これがイスラムの習慣だから、と答える。でも、パキスタンのことを研究している友人からすれば、それはイスラムの習慣ではなくて、パキスタンの農村部のある階層の人たちの価値観なわけです。だから「これが我々の文化だ」と言われても、その文化の内部でそれを自分の習慣として持たない人もいるわけです。

 これはウマ・ナラヤーンという人が挙げている例なんですが、インド人の男性によって妻が殺された事件が裁判になったときに、夫の弁護人が、インドにはサティの習慣があるから、この女性は自殺したのであって、実はそれはインドの文化なんだということを言った。すると検察側はインドにはダウリー殺人という夫が妻の持参金目当てに妻を殺す文化があって、この夫が犯したのはそれなんだという主張をした、というものです。弁護側も検察側もこれが「インドの文化」だと主張しています。

 実際に当事者もそう主張するかもしれないけど、本当はそんなものじゃないのではと思うんです。でも、それを自分たちにも、また他者にも文化として主張するような状況を生み出しているのは何か、ということを考えないと。問題はもっと、そっちにあると思うのです。


「文化」を主張させるものは何か

HP おっしゃる通りだと思いますね。多分、文化として主張している本人たちもそれでいいと思っているわけではない、というのはよく感じます。グァテマラの先住民族の女性たちも、自分たちがマヤの民族の出身であることを非常に誇りに思っている一方で、「伝統」の中で朝から晩までずっと働き通しで、男は育児、家事を何もしないという状況。

 その中で暴力もあり、村の中の意志決定にもなかなか参加できなかったり。やはりその自分たちが考える「これが私たちの暮らし方だ」というものが100パーセントいいとは思っていませんよね。でもやはり外からの侵害や攻撃に対して、自分たちはマヤの文化の担い手なんだと言うわけです。

 で、男性がほとんど民族衣装を着なくなっている中で女性はほとんとが民族衣装を着ています。自分はこれを着ることによってマヤの女なんだ、というところに自分のアイデンティティを立てていて、厳しい差別の歴史の中をそれで生き延びてきた、ということを非常に強く感じさせられます。それをそのまま受け入れるしかない、と思います。

岡 法的な問題を抱えていることに対して、私は答えることはできませんが、なぜそれを文化だと主張するのか、ということを考えなくちゃいけない。伝統だって良いものも、悪いものもある。伝統がすべて抑圧的とは限りません。問題は良い伝統、悪い伝統を誰が決めるのかということで、それは権力を持つ者が決めてきたのです。だから力のない女たちが良いと思っている文化も、必ずしも良い伝統とはされない。良い伝統が消滅していくかもしれないし。

 でもその中で自分を支えるために、自分にとって抑圧的なものを精神的な拠り所とするというのはいくらでもあり得ると思う。大切なのはそれを理解することじゃないか、と思うのです。それをたんに「抑圧的な制度と知らずやっている。これを文化として尊重すべきか、それとも抑圧だと知っている我々が介入すべきか」と考えてしまうのは、「我々にはこれが抑圧的だと分かるが彼らにはそれが分からない」という非常に差別的な考え方でレイシズムだと思います。

HP おっしゃるような論調というのは実際アメリカなんかでは聞かれませんね。あるのかもしれない、私が知らないだけかもしれませんが。

岡 2000年の2月に大学でFGSの問題について研究会をやりました。私がそこで報告したのは、ジャニス・ボッディというカナダの女性人類学者がスーダンで行ったフィールド調査の結果をまとめた本についてです。その中に彼女がフィールド調査した村でのFGSについて分析の記述があるんです。その語りはFGSがいいとか悪いとかというのではなくて、それがこの村の女たちの意味世界の中でどういうものかということを、丁寧に丁寧に解きほぐしていくような形で語っているんです。

 従来のフェミニストの議論って、FGSをされる女性は男の欲望の被害者、というものです。でも調査してみると、男たちはサウジアラビアに出稼ぎに行って、イスラムの本場のサウジではFGSをしていないのを知る。そこで帰ってきて妻に従来的なFGSをするなと言うんだけども、妻は相変わらずしているという状況があるのが分かる。ですから、従来の犠牲者という見方に対抗する見方を提示しています。

 もう一つは女性がFGSを主体的にやっているんだと語る場合でさえ、これまでの語りでは彼女たちがその意味を分からずに、家父長制を支えるようなことを内面化し、自分たちの体に有害なことを進んでやっている、という言い方になってしまっています。でもそれは言外に「何て無知な」、「私たちにはそれが抑圧だと分かっているが、彼女たちは分かっていない。何て馬鹿な」と言っているに等しい。

 相手に同情しているようでいて、実は相手のことを「無知だ」と言っている訳ですよね。それに対して、彼女たちにはある合理性があって、女性が社会の中で自立的な権力をもつために自らそれをやっていること、村の女性たちはそのようなものとしてFGSを生きているということをボッディはつまびらかにしています。
 そのことを研究会で報告したら、そのあと議論が成り立たなかったのです。

HP 成り立たなかった?

岡 つまり、それはボッディの主観的な解釈に過ぎない、という意見が出た。確かに主観なんだけど、だったら「男性の欲望の犠牲者だ」というのも主観じゃない?いままで誰がそれを言っても、それは「主観的解釈に過ぎない」とは批判されないのに、なぜボッディがそれを言うと主観だ、と批判されるのか。だからすごくそういう抵抗があるんです。でもボッディは何も評価は加えていないんです。

 いいとか悪いとかの評価は。ただひたすら理解しようとするんです。理解するという姿勢自体がいままでこの習慣をフェミニズム的視点から批判してきた語りにはないものだと思います。私はフェミニズムがこんなのでいいのか、と思ってしまう。本当に、女たちがやっていることを理解しようとするような関係のもちかた、それがフェミニズムじゃないのかと私は思うんですけど。だからボッディは私にとって新鮮だったのです。紹介する意味があると思った。でも、それは理解されなかった。

HP こういうことを議論するときには常に、自分たちはこういうことは抑圧であると知っている、という地点から出発する。で、そこからどうするかというときに、文化相対主義をとるのか、いや文化相対主義はだめなんだというか議論は分かれます。

 でも結局はみな、大きくは同じ枠組みの中にある。それはまず文化や伝統を非常に静的なものと捉えているし、当の問題にしている行為や行動を遂行している主体に関する視点というものがない、ということですね?

岡 そう。だから、別に家父長制の操り人形としてそれをやっているわけではなくて、「主体性」を見なきゃいけないと主張するときでも、その「主体性」は家父長制の中の主体性でそれを評価することはできるのかどうかという議論になる。でもそんなこと言ったら、この私たちの「主体性」はどうなるの(笑)。こんな階級社会の、この経済システムの中の主体性でしかないわけで。

 それを超越した主体性なんかあるんだろうか。それって『ナショナリズムとジェンダー』の中で上野千鶴子さんが行っている批判にも関係するんだけど、山川菊江ともう一人、日本の植民地主義侵略に批判的立場をとり得た二人がいたというのだけど、でも社会主義とキリスト教という別のイデオロギーをもっていたから批判したというのではだめだ、みたいな言い方を上野さんがしています。

 私はむしろそういったイデオロギーが植民地主義を批判する視点をもちえたということを評価すべきだし、社会主義だってその後結局分裂していき、宗教者だって雪崩をうって翼賛体制に加わっていくわけだから、社会主義者として、あるいはキリスト者として批判し得たのはなぜだったか、ということをもっと分析すべきです。あんなに簡単に切り捨てるなんておかしい。何かに従属している主体性だからだめ、というのはおかしい。超越的な主体性なんて設定できないと思う。

HP 最後にお伺いしたいのですが、いま現在岡さんが大学での研究や教えること以外にとくに追求していることは何ですか?

岡 最近は忙しくてやらなきゃいけない仕事がたまっていて言いにくいのですが・・・。

 SURE(シュアー=「国旗・国歌に反対する持続的抵抗」。sustainable resistanceの頭をとってSURE)という関西圏の大学院生と若手研究者のグループをやっています。これは1999年、国旗・国歌法が成立したときからこれは何かしなくちゃいけないということで始めました。小中高の現場はずっとこの国旗・国歌の問題を抱えてきたのに、大学ってこの問題に関しては特権的でした。理論的な面で批判していればよくて、自分の身に降りかかるということはなかった。

 だから、これは大学教員としてやっていかなければいけない、遅蒔きながら小中高の現場ともつながっていかなくてはということで始めました。また研究者の立場で、とくにナショナリズムを批判している者であれば理論的なものを運動に提供することもできるだろうしということで、1999年の8月ぐらいから準備会を初めて、2000年の4月から、公開講座で「非国民論」というのを隔月ぐらいで京大で始めました。

 市民に開いたものというのが前提なんですが、来るのは学生主体で。まだ試行錯誤で、意見を交換するというよりも教師がレクチャーするという格好にどうもなってしまって、ちょっと行き詰まっているんですが。ただ、私は何らかの形で続けていきたいと思っています。

 もう一つは、学生の頃からパレスチナとの連帯運動にかかわっています。大阪では私が1999年にこちらに来たのと相前後する形で、大阪在住の人たちを中心として「パレスチナの平和を考える会」というのができたんですね。そこの催しに呼ばれたのがきっかけでこのグループとかかわるようになりました。そこでとりくんでいるのが、京都の綾部市がエルサレム市と友好都市宣言に調印したことなんです。

 エルサレムと友好都市になるのは世界で初めてです。イスラエルの首都としてのエルサレムと友好都市になるということが問題だということで、抗議に行ったり「エルサレムの平和を考える市民集会」も開いたんです。でも、小さい市だと市長がやっていることに表だって市民が反対するなんてできない、というような雰囲気があるんです。主催者側8人で行って来てくれた市民が5人というような状況です。

 また、もっと全般的なとりくみとしては、去年の6月からは連続講演会を企画して、鵜飼哲さん、徐京植さんと私の対談とか、パレスチナの映画の上映会および講演会などをやっています。

 それから、2000年の6月、エルサレムで開かれたエルサレムの人権問題を考える国際会議に行ってきました。世界20数か国から主催者発表で700人の参加がありました。それには地元のイスラエルやパレスチナの人たちも多数入っているんですが、会場には世界中からいろんな国籍の人たちがいっぱい集まっていて感動でした!

HP ありがとうございました。

http://www.imadr.org/japan/interview/oka2.html



週刊アラブマガジン
http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200411030800000000114390000
★★4.読者の声 ★★★★★★★★

         【パレスチナ難民の生と死を見つめて】
 
先日、『パレスチナパレスチナの子供の里親運動20周年記念講演』が外苑前に
ある寺で行われた。結成されて20年。1984年9月に発足したこの会の趣旨
は、パレスチナの地にイスラエルが建国されて以来、離散生活を余儀なくされて
いるパレスチナ人、特にレバノン国内の難民キャンプで厳しい生活を強いられて
いるパレスチナ人の子供たちを自立するまで物心両面から支えていくことだと言
う。

この会の発足者であり、顧問を務める広河隆一氏の講演は単なる会員を募る為の
勧誘ではなく、今のパレスチナ難民が置かれている問題をリアル且つ淡々と語っ
た。フォトジャーナリストとして世界各国の現場を歩き、パレスチナにも何度も
足を運び、彼らの言葉を聴き、戦争の現場を目の当たりにし、それを写真のみな
らず多数の著書でも訴えてきた彼の言葉は、一言一言、重く胸にのしかかる。

パレスチナ難民キャンプに入った時に、ある父親に言われた言葉があるという。
「何故もっと早く来てくれなかったんだ!もう一ヶ月早く来てくれれば、息子は
殺されずに済んだのに…」。ジャーナリストが入れない場所では必ず見られては
困ることが行われていると言うのが彼の持論だ。未だ、イスラエル軍が包囲し連
日のように人が殺されている。パレスチナ人が殺されない日はない。しかし、悲
しいかな、日本の新聞の一面がそれを飾ることはない。9.11以降、被害者の
姿は徹底的に報道されなくなった。自分達が加害者でない錯覚さえ覚える今の報
道のあり方を、広河氏は問う。

『パレスチナ問題は、日本人にとって、決して遠い問題ではないんです』と語っ
たのは、京都大学の教授でもあり、アラビア文学にも深い、岡 真理氏だ。彼女
自身3人の子供の里親でもある。日本という国が日本の抱える問題に向き合わず
濁してばかりいるからいけないのだと批判する。レバノンの難民キャンプでの虐
殺事件を例えば、それは日本の関東大震災での朝鮮人虐殺事件であり、従軍慰安
婦の問題であり、沖縄の米軍が起こした少女の暴行事件を指す。実際、ニュース
にあがって成る程と思う事はあっても私自身、それをどうしたらいいのか、掘り
下げて考える事はなかった。

『大きくなったら、自爆します』。里子から届く手紙に時々、こんなのがあると
言う。将来、何になりたいとか、そんな可愛いものではない。こんな言葉を吐か
せてしまう環境とは何だろう。冗談とも本気とも思えないそのセリフに、私は胸
ぐらを捕まれた気がした。他人事にしてはイケナイ、これは、私たちの問題なの
だ。

会場の脇に設けられたテーブルには、里子から届いた手紙や写真、クレヨンで書
かれた絵も展示され、広河氏の講演の中ではスライドも上映された。この会が経
済的支援だけでなく、距離こそ離れているけれども確かにちゃんと繋がっている
事を示していた。

パレスチナ問題と呼ばれる問題の根源は、何処にあるのか。一体、誰の誰に対す
るどのような不正があるのか。私達はこの問題をどのような問題として認識して
いるのか。誰の側に立つのか。世界中で起きている出来事はすべて自分と無関係
な処で起きている訳ではない。日本が補給した燃料を積んだ爆撃機が何を崩壊
し、何を破壊しているのか。他人事ではない。改めて、これらの問題とどう向き
あうべきか。どういうスタンスで、これらの問題を考えるのか。新聞やテレビの
報道がすべて正しいと言い切れない。報道されない事実の裏があると言うことを
我々は知らなくてはいけない。それには、まず今、何が起きているのかを知る事
から始まる。                  
       
                             執筆:進藤 葵

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