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に死去。のどかな田園風景が幼少の記憶という。「家に帰ると、つぼの水に浸した渋柿をおやつに渡され、よく田んぼにスズメを追い払いにいった」。小学校を出た後、伝習所で1年間、綿作りを教えられた。そんな時、大阪の工場が出していた「女工求む」との新聞広告が目に留まった。日給70銭。「当時は1食10銭で食べられた。3食たべても40銭残る。看護学校にでも通えば将来が開ける気がした」。19歳で単身渡日した。
だが、実際の賃金ははるかに低かった。他をあたったが日給50銭でも仕事はない。大阪市内を歩き回り、セメント袋を再生する工場で働いた。「朝6時半から夜6時過ぎまで。破れた袋とまだ使える袋を仕分け、セメント粉をはたいて裏返しにして縫う。寒いし粉がすごく出るから手ぬぐいを3枚被(かぶ)るけど、それでも粉が入る。辞めて2週間たっても鼻からセメントが出てきた。それでも50銭にもならなかった」
将来設計どころではなかった。1年半で京都に移り、21歳で結婚。授かった4人の子どもの1人は死去、61年に夫と、嫁いだ長女を除く息子2人は北朝鮮に「帰国」した。鄭さんは頼母子講(たのもしこう)の借金がかさみ日本に残った。
その後は独居で働き詰めだった。嵐山の畑で野菜を作り、大阪市淀川区の問屋街で衣料品を仕入れ、府北部や福井県にまで売りに行った。「く」の字に大きく曲がった右手中指の第一関節は労働の厳しさを物語る。
職業安定所で出会う労働者たちがよく年金の話をした。「『今日は年金を納める』という。老後が不安で、自分もかけたかった。うらやましくてたまらなかった」
90年代、京都市長にあて、10通を超える抗議の手紙を出した。「年金が欲しい。でなければ仕事を欲しい」。何度か返事は来たが「国に申し入れをしている」「独自給付は困難」ばかり。その後、京都市は独自給付制度を実現(障害者が94年、高齢者が99年)。今年、府も実現に踏み切った。とはいえ額は低く、あくまで代替措置である。
歴史的責任を持つ国が解決すべき問題として、鄭さんは生活保護受給を拒んできた。しかし、一昨年12月、ついに申請した。今年まで自分で車を運転し、畑仕事をこなしていた。だが、同年8月、左肩に激しい痛みを感じ、動けなくなった。動脈瘤(りゅう)だった。静岡で暮らす長女が駆けつけて説得、鄭さんは退院時、やはり拒み続けていた要介護認定を受けた。
玄関には車椅子がある。これまでの無理がたた