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(回答先: 日本人女性をドレイとして売り飛ばした切支丹大名の非人間性、これが武士か、日本人か 投稿者 愛久 日時 2005 年 1 月 01 日 02:28:58)
愛久さん:
> 幻の「別府事件」の謎に迫る!!
> 一九四九年六月八日、別府小百合愛児園の礼拝堂の中へと導かれ…天皇はキリストの像の前に立っていた…「危ない!」と脇鉄一市長は叫んだ。
1930(昭和5)年に「カトリック婦女者聖母会」として発足し、1935(昭和10)年に「小百合愛児園」と命名された病院の建物は、第二次大戦後は進駐軍が駐留していたが、上記事件の1年前の1948(昭和23)年に、以下の写真にある現在の建物へと増改築されていた。戦争直後の日本には不似合いな立派すぎる建築に見える。
旧小百合愛児園:別府市浦田4組 (ふるさとガイドより) |
引用:旧小百合愛児園より
毎年世界周遊船が、その白い優美な巨体を別府湾に浮かべていた頃の話である。
その頃別府を訪れたサレジオ修道会【注1】の神父【注2】の計らいで、浜脇小学校の横を通る線路越しの山際傾斜地に、新築したばかりの病院を譲リ受け、カトリック婦女者聖母会が発足したのは、昭和5年のことである。
この一際目立つ一群の建物は、昭和8年孤児収容施設として、小百合愛児園と名付けられ、アメリカ軍が駐留していた頃は180名近くの乳幼児を養育していた。
現在の聖堂をもつ主屋棟は木造2階建寄棟造で、昭和23年に建設されたもので、戦後建材不足のときにこれだけの教会建築をつくった関係者の苦労が偲ばれる。
正面の玄関上部にマリアの像を安置し、さらにその上に鐘塔を設け、窓や出入口の上にアーチを多く用いた愛すべき宗教空間を構成している。
小百合愛児園はその後大分に移り廃園となったが、その施設はマザー・テレサの会【注3】のシスターたちの手により、新しい社会福祉施設として甦ろうとしており、今後の活動を聖母マリアの像とともに暖かく見守ってゆきたいものである。
(H5.1)
【注1】1927年に始まった別府カトリック教会は、日本のサレジオ修道会の出発点として、当時も今も重要な位置を占めている。今の聖堂は、1950年に日米欧の国際協力によって建設されたが、その威容は、この教会の位置づけを表わしている。
旧「小百合愛児園」(1948年)や別府カトリック教会(1950年)の建設資金源には、サレジオ会傘下のドン・ボスコ社【注4】を利用し、救済物資の横流しや闇ドルによって得た莫大な資金を当てていた、と言われている。
別府カトリック教会:別府市末広町1-14 結婚式場として人気のある教会で、 定期的にミサを行っている。 (ふるさとガイドより) |
【注2】1930年11月、サレジオ修道会司祭トルクイスト師により、大分県別府市浜脇の新しい家が志願院として寄贈された。
【注3】マザー・テレサ由来の「神の愛の宣教者会」の別府修道院は、旧「小百合愛児園」の隣接地区(別府市浦田5組)に建設された。大分への移転によって1990年に一旦は廃園となった旧「小百合愛児園」は、現在、この組織に引き継がれている。
【注4】ドン・ボスコ社は、聖者ドン・ボスコの名に因んだサレジオ会の社会事業団体の一つで、布教のための図書の出版・販売を柱としているが、戦後の日本では、布教や教会施設を建設する資金作りのために、数々の事件を起こしている。
スチュワーデス怪死事件_無限回廊より抜粋:
1951(昭和26)年:ララ物資や、サレジオ会本部から運ばれてきた救援物資名義の各種統制物資を横流ししたとされる「闇砂糖事件」容疑。
1952(昭和27)年:闇ドルをレート(360円)を無視して400円程度で日本円に換金し、巨利を得ていたとされる「闇ドル事件」容疑。
1959(昭和34)年:BOACスチュワーデス怪死事件で重要参考人として事情聴取されたベルギー人神父が、事情聴取がまだ終わらないうちにイタリアに帰国した。彼は事件当時、ドン・ボスコ社の副社長として会計を担当していた。
当時のBOAC香港回りの極東空路は、こうしたカトリック日本布教団の資金輸送路になっていた。横流し事件の救援物資も闇ドル事件の闇ドルも、BOAC極東空路によって運び込まれたものだった。
1960(昭和35)年:BOAC極東空路のスチュワーデスやパーサーら関係者127人が、麻薬などの密輸に関係したという理由で解雇された。
怪死したスチュワーデスは、BOACの運び屋になることを拒否して殺害されたのではないか、と推測されている。