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(回答先: 同型F15飛行再開/住宅地上空も通過 事故究明なく県反発【沖縄タイムス】 投稿者 木田貴常 日時 2004 年 10 月 06 日 09:12:19)
実際に消火活動を行なった宜野湾消防署の方は語る
沖国大学生対策委員会(8月31日インタビュー)
http://www1.odn.ne.jp/okikokuiinkai/
事故は「航空機火災」として対応しました。墜落したのは軍用ヘリでも、航空機なので「航空機火災」に分類されます。
通報は14時19分、沖国大近くに住む女性の方からでした。興奮した口調で「旋回がおかしい!音が変だ!沖国大方面に向かっている!黒煙が昇っている!やっぱり落ちたみたい!」というような事を言っていたと思います。話の断片を聞いて『ヘリが落ちたらしい』と判断しました。消防署2階から沖国大方面を見てみると、黒煙が昇っているのがはっきり見えました。「本当にヘリが落ちたんだ!大災害になる!!」と感じました。
実は、我々が通報を受けた時は、米軍や防衛施設局から市への通報はされていませんでした。ちょうど事故があった時刻、中央公民館で伊波市長が訪米報告を行なっていました。そこに消防職員が参加していたので、その人に事故があったことを伝え、彼が市の職員に伝えました。その後、市長は現場に向かったわけです。
墜落ヘリの発火は、14時17分頃と推測されます。
3署所(宜野湾消防署・我如古出張所・真志喜出張所)に勤務していた隊員27人全員が出動しました。これは非番の隊員の増員を除いた数です。ポンプ車4台、タンク車1台、救急車3台、指揮車1台、その他の車両2台の計11台体制でした。
現場近くに着いた時には、既に警察が長田交差点で交通規制をしており、一般車両がUターンもできない程渋滞していました。それを掻き分けてポンプ車が現場に到着したのが14時27分。普段は5分で行ける距離ですが…。
鎮圧した(延焼を抑えた)のが14時40分、鎮火した(消した)のが15時08分。つまり、鎮火までに要した時間は41分。これは極めて早い方です。例えば一般的な住宅火災だった場合、2時間近くも掛かります。ではなぜこのような早さで鎮火できたか、それは2点からだと思われます。第一に、現場が消防車の入れるような広さの道のすぐそばだったという事。第二に、燃焼している面積が狭く、三方から泡で窒そくさせるという効果的な手段がとれたという事です。
14時35分頃、軍の消防隊と救急車が現場に到着。一緒に消火活動にあたりました。鎮火後の15時30分、大学のフェンス側に作った指揮本部に集まって、調査と再び燃えた時の対応について打ち合わせを行なっていた時に、現場の周囲を消防の部隊ではない米兵が包囲しました。そして民間人やマスコミ関係者、そして我々消防隊員すら中に入れないように“KEEP OUT”と書かれた黄色いテープを張ったのです。この頃から米軍の様々な部隊が入ってきました。当然この状態では調査もできません。現場を包囲した米兵に「調査をさせてくれ!」と交渉しても、「民間人は入れない。」の一点張り。「ではなぜ入れないのか?」と説明を求めてみると、対応した米兵は上から命令を受けただけのようで、「理由は分からない。」としか答えませんでした。このままでは埒が明かないので、現場の責任者にコンタクトをとりました。責任者に対し、“入れない理由を示す事”と“入れないつもりなら、せめて調査で得た情報をこちらにも提供する事”の2点を要請した。
ここでいう『調査』というのは、火災原因を特定するだけではありません。まだ救助されていない人の有無を確かめることも『調査』のひとつなのです。私達が現場に着いてまず心配したのは、学生さんが機体の下敷きになっていないだろうか、ということでした。機体は黒こげで原形をとどめていない。そんな状況の中で、はたして遺体を発見できるのか、私は不安でした。『調査』と言えばそういった意味も含まれるのは、消防の世界では“常識”です。これは日本もアメリカも共通のはず。その調査ができないんです。私はあせりを抑えて何度も何度も「調査させてくれ。」と交渉しました。それなのに調査は拒否されました。「米軍は、いったい沖縄人の命を何だと思ってるんだ!」と、すごく憤りました。
責任者は16 時40分に回答。「現場は危険であるから。我々も調査中なので情報はまだない、ちょっと待ってくれ」とのこと。我々は「情報があればすぐに知らせて欲しい。情報がなくても30分後にまた来い!」そう言ったが、再び来たのは50分後の17時30分。しかも「情報はない。」だけでした。更に1時間15分後の 18時45分には、「明日は調査できるかもしれない。」と言われたので、その日の活動は終了しました。
翌14日、G5に調査の為の立ち入りの許可を要望したが、17日に「要請に応じることはできない。」と回答が来ました。結局実際に調査できたのは、ヘリが持ち去られた4日後の8月20日でした。
米軍の対応は早すぎでしたね。おそらく、墜落する前から異変に気づき、追跡していたのではないでしょうか。それならあの対応の早さも納得がいきます。我々が現場に到着する前には、既に米兵が負傷者3 名を救出し、正門付近に一人、職員駐車場出入り口に二人寝かせていました。そうやって現場から避難していた負傷者を、その後到着したこちらの救急隊が応急手当をし、救急車で海軍病院に搬送しました。どの負傷者が重傷者かは分かりません。応急手当をした時には大した外傷もないと思われていた方が、実は墜落時に腹部を強く打っていて、病院に搬送されてから内臓破裂と診断され、“重傷者”扱いになったかもしれないからです。そもそも、米軍がそういう情報を公開しないので、我々も分からないのです。負傷者を助けた米兵は、墜落したヘリから上がる黒煙を見て、「爆発する!」と察したのでしょう。米兵は現場から走って逃げ出していたのです。その時の証拠写真がこれです。この米兵は、安全だと思える所まで逃げ、そこから交通規制を始めたのだと思われます。そのような中で、我々は現場に向かったわけです。
通常の住宅火災の場合、その建物の構造や、建物内に危険物保管の有無、住人の数などの情報を収集し、対策を講じます。しかし、今回、そういった情報を持つ相手は米兵。言葉が通じず、しかも米軍は地位協定をタテに中へ入れない。情報が得られない。地位協定と言葉の壁の高さを感じました。
事故当時は地位協定の事は頭になく、とにかく「行くべし!!」だけでした。封鎖された現場に突っ込んでも良かったかもしれないが、これは政府間の問題であるから、一消防隊員が突入していたらどうなっていただろうか…。消火はできるが、米軍の同意がなければ調査はできない。我々の業務は消火だけではない、現場に立ち入り、調査することも大切な業務のひとつ。だからこの対応に納得はできません。
仕方なく情報なしに自分の判断で消火にあたりました。炎を上げていたのは主エンジン下。県内の上空を旋回するだけの訓練なので、補助タンクにまで燃料は積んでいないだろうと考えていました。炎は1 号館の屋上まで勢いよく上っていた。もちろん恐怖はあったが、「早めに消せば大丈夫だ。」と思いました。燃料が燃えているとするならば、これは油脂火災、炎は上にどれだけ上がっても延焼はしない。この点から、炎を窒塞させる方法をとることにしました。(実際には補助タンクにも燃料を積んでいたらしいですが、それは米兵が補助タンクから燃料を抜き取っている姿を見て、初めて気づきました)結果はさっき述べた通り、鎮火まで41分という早さで消火することができました。今まで経験を積んできたからこそ、状況を見抜き、行動できたと思っています。