現在地 HOME > 掲示板 > 戦争60 > 1153.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
イラク米軍の反攻は、ドイツのバルジの戦いか、日本のインパール・特攻作戦か
阿修羅戦争掲示板にはすでに、「イラク米軍基地陥落」が、アラブ情報として報じられているのに、大手メディアの報道には出てこず、米軍の猛攻撃の方が目立つ。
以下は、その一例である。
------------------------------------------------------------
“奇襲作戦”でサマラ奪還 米軍、攻撃通告は10分前 [Yahoo!News-共同]
http://www.asyura2.com/0406/war60/msg/1144.html
投稿者 ひろ 日時 2004 年 10 月 05 日 20:55:20:YfXbGWRKtGRPI
(回答先: サマッラ陥落の真相 合意締結で油断させ急襲 [ML アラブの声] 投稿者 white 日時 2004 年 10 月 05 日 18:07:46)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041005-00000172-kyodo-int
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
“奇襲作戦”でサマラ奪還 米軍、攻撃通告は10分前
【バグダッド5日共同】米軍などがイラク中部サマラを短時間で奪還できたのは、対話の継続を装いつつ、防御の構えができていない武装勢力を大部隊で一気にたたく“奇襲作戦”が成功したためとみられている。
地元関係者によると、治安対策で米軍と協議を続けていた地元サラハディン州のアブドラ・フセイン副知事が、米軍から掃討作戦の通告を受けたのは攻撃開始のわずか10分前。武装勢力にとっても攻撃は予想外だったもようだ。
1日未明に始まった作戦には、米兵3000人のほか、50キロ離れた州都ティクリートから2000人のイラク治安部隊をモスク(イスラム教礼拝所)の戦闘に投入し、住民感情に配慮した。目立った反撃もなく半日で中心部の主要施設を制圧した。
(共同通信) - 10月5日17時13分更新
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
この状況は、いわば、米軍の最後の断末魔とも思える。基礎的な兵力が変わっていない様だから、かなりの無理がある。「奇襲」というよりは「騙し討ち」である。
基本的には、日本の敗戦間近の時期の大本営発表が典型で、銃後の厭戦気分を、嘘の戦果発表で、押さえ込んだのである。
米政権は今、大統領選挙を控えているから、戦果の嘘を付く理由は、十分すぎるほどある。
一時的な反攻の例では、ドイツも敗戦直前にバルジの戦いを挑んだ。日本はインパール作戦、特攻機の自爆攻撃作戦を敢行し、悲劇を拡大した。
以下の米軍を、イラクの抵抗勢力に、ドイツ軍を米軍に入れ替えてみると、大勢が見えてくる。
ただし、西部戦線では米軍が焦り、東部戦線ではソ連が追撃を開始し、その後の勢力圏を拡大した。その局面だけを見ると、ソ連は火事場泥棒のようだが、開戦以来、主としてドイツを戦っていたのは、ソ連であった。
イラク戦争の最終局面で。イスラエルが介入するとしら、イスラエルの言い分は、「これまで一貫してアラブ諸国と戦ってきたのはイスラエルだ」ということになるだろう。
ともかく、予断を許さない局面である。
------------------------------------------------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C%E6%94%BB%E5%8B%A2
バルジの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
(アルデンヌ攻勢 から転送)
バルジの戦いは、第二次世界大戦の西部戦線におけるナチス・ドイツ最後の攻勢作戦である。 バルジとは「出っ張り」を意味し、ドイツ軍の進撃により戦線の一部が突出したことから名付けられた。 またアルデンヌ攻勢やルントシュテット攻勢やクリストローゼ作戦と呼ばれることもあるが、正式な作戦名は「ヴァハト・アム・ライン(ラインの守り)」作戦であり、ドイツの西部方面軍の最高司令官だったフォン・ルントシュテット元帥により立案された。
計画の立案
1944年9月4日、イギリス軍はベルギーのアントワープを解放したのち、 その港湾に物資を運び込みここを補給拠点とした。 しかし、補給線の延びきった連合軍の進撃は休止し、戦線は膠着状態にあった。 この状況を打開するため、9月17日モントゴメリー将軍の計画したマーケット・ガーデン作戦 が開始され、ドイツ本国への侵攻が試みられたが、失敗した。 戦線は再び膠着し、連合軍は一時的に進撃を中止して、重大な問題となっていた補給対策に取り組み始めた。 また東部戦線も同じ時期、ソビエト連邦による1944年の大攻勢がポーランド東部で息切れしていた頃で、小休止状態にあった。
この機会に乗じたヒトラーは乾坤一擲ともいえるような反撃作戦を構想した。 おそらく1940年のフランスに対する電撃戦の勝利を再現しようとしたもので、 ベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を機甲部隊が突破し、 一路アントワープに進撃してこれを奪回し、西部戦線北方の連合国軍を包囲、壊滅させるという案であった。 軍部首脳のルントシュテットやモーデルは、この計画は無謀だとして反対したと言われているが、 さらにヒトラーはこの作戦の成功により西部戦線の停滞、もしくは講和を実現させて、 東部戦線に戦力を集中させようとしていたと推測されている。
もう一つの案として、北部の広大な戦線に分散するコートニー・H・ホッジス将軍麾下のアメリカ第1軍を挟み撃ちにして壊滅させることが提案された。敵軍の包囲、分断は容易であり、自らの損害も最小限に押さえられるとされたが、所詮連合軍の戦力の一部を減らすだけでしかなく、戦争の趨勢を変えられる案ではないとして却下された。
作戦時期はアルデンヌの森に霧が立ち込める冬とされた。すでに制空権は連合軍に移っており、その航空機による激しい空爆から部隊を隠すためであった。またドイツ軍は作戦に参加する戦力として約20個師団を用意し、新鋭のティーガー戦車も含んでいたが、その内情はほとんどの部隊が定員割れしており、弾薬や燃料はかき集められてもなお不足するといった状態であった。この状況を考えると、戦う前から作戦の成否はすでに決まっていたと言うこともできる。
連合軍の上層部は、ドイツ軍集結の情報や攻勢作戦の兆候を報告されていたが、ドイツには攻勢に打って出る余力はもう残っていないという予断から、本気にしなかった。またアルデンヌ地方は深い森林と山岳地帯であったため、機甲部隊がすんなりと通れるとは思われなかった。
戦況
1944年12月16日、ドイツ軍はベルギーのアルデンヌ森を通って進撃を開始した。 折からのひどい悪天候により、連合軍は航空機を飛ばすことができず、大いにドイツ軍の助けとなった。
突然の反撃に不意を討たれた多くのアメリカ軍は、壊滅させれるか、捕虜になるか、包囲されるかした。 しかしながら、その驚きと混乱に乗じたドイツ軍の快進撃は最初の数日間しか続かなかった。 ドイツ軍の主力部隊は特定の地域でアメリカ軍による予期せぬ強力な抵抗に会い、前進は非常に遅くなった。
12月21日、ドイツ軍はアメリカ陸軍第101空挺師団が守備するバストーニュを完全に包囲した。師団の責任者である第101空挺師団長代理アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告に対して、「NUTS(ふざけるな!)」と答え、その副官が同じ言葉を書いた紙を公式の回答としてドイツ軍に送ったことは有名な話である。(当時、師団長は会議で部隊を離れており、師団長代理のマコーリフ准将が指揮を執っていた。)
12月24日までには、補給線の限界を超えたドイツ軍の進撃は、ムーズ川の近くで失速してしまった。燃料と弾薬の枯渇が致命的であった。また、作戦が開始されるとドイツ軍は無線封鎖を解除したため、連合軍の情報局は容易にドイツ軍の位置を割り出して、的確に反撃することができた。
天候が回復してくると、連合軍による大規模な航空支援とバストーニュに対する空輸が再開され、1月13日ドイツ軍はバストーニュから退却した。
1月23日にはドイツ軍司令部により、作戦の停止が決定された。戦闘は公式には1945年1月27日に終了した。
この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて75,522人、イギリス軍の戦死者は1,408人、ドイツ軍の戦死者は67,675人だった。
戦局への影響
この作戦により、連合軍はより多くの戦力を割かねばならなくなり、その進攻計画に数ヶ月の遅れを生じさせたが、ドイツ軍は決定的な敗退と損失を被ったことで、戦争の終結は早まった。また、防御を固めるのではなく攻勢に出てきたドイツ軍の中核を補給が続かなくなった状態の時に壊滅させたことで、進攻による連合軍の被害は最小限に抑えられたと考えることもできる。さらにドイツは東部戦線に回す余力もなくしたため、ソ連の進撃速度を速めるという結果も生んだ。
1 Nutsという言葉は睾丸のスラング(俗語)であるが、この文脈ではおそらく「地獄に落ちろ」という意味である。