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(回答先: チェチェン諜報・破壊工作学校(対外情報調査部) 投稿者 愚民党 日時 2004 年 9 月 04 日 04:26:39)
対外情報調査部
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/index.htm
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/russia/chechen/toi.htm
チェチェン人及び独立したその敵味方間の大きな相違にも拘らず、彼らには、1つの統合原理が存在する。彼ら全員は、ある程度、秘密共同体「イチケリア」の組織に関与しており、その存在への彼らの「貢献」は、疑う余地がない。
彼らは、イチケリア国家機構の長に立ち、その指導者により企図された奇妙なゲームに巻き込まれた。閣僚会議(KM)と人民経済作戦統制内閣(KOUNKh)の2つの政府がチェチェンに同時に存在した時期があった。この2つの「閣議」の官僚は、互いに競い合い、各人は、互いに立場を変え、物質的富に食い付こうと試み、独立構想への貢献は、彼らにとって幼稚な隔壁でしかなかった。閣僚は、大統領によっても、議会によっても任命され、同時に、同一の椅子を複数名が要求し、その各々は、大統領令か、議会決定か、ムフチヤート(回教僧)又はメフケッル(会議又は裁判所)型の何らかの重みのある社会組織の決定すらも振り回した。大きな内閣及び高いポストの各要求者は、しばしば、あらゆる決定、命令その他の紋章入り用紙よりも重みのある何らかの戦力機構の支持を取り付けようと試みた。
官僚の規律紊乱は、法保護機関でも生まれ、そこでは、大統領により任命され、議会により承認された公務員ですら、自分の義務の執行を許されないことがあった。
副大統領ヤンダルビエフは、次のように、政府システムと法保護機関で支配的だった状況を描写している。「閣僚と副首相は、互いに内緒で、首相の職務を奪おうと試みた。その各々のバックには、部隊が立っていた。マガダエフのバックには回教連隊が、ドシュカエフのバックにはバプサシュル・ベノエフスキー名称支隊がいた。アルバコフとムルダロフは、バサエフ、ハンカロフ、ゲラエフの支持を当てにしていた。タメルラン・オシャエフは、イリヤスとアブ・アルスヌカエフを当てにして過激な活動を展開した・・・。法保護機関では、戦力機構による積極的活動の模擬、全面的な適法性の違反、その活動に対する監督の不在、若干の公務員の犯罪界との関係等、奇妙な状況が形成された。その外、MVD、DGB、スペツナズ、OMON、特別任務大隊、回教戦車連隊等、全ての戦力機構は、その警備を口実に、石油製品の横領に関与した。ほぼ全ての部隊が、石油製品パイプラインの略奪に関与していることが分かっている」。
通常、秘密共同体において無条件で遵守され、彼らにとって普通であった従属の原則は、現地条件が数世紀に渡り形成されたこの社会制度の古典的なパラメータに一致していなかった以上、秘密共同体「イチケリア」(TOI)に応じて、強く変形したものとなった。
同様に、イスラム法典、シャミール法典及びソビエトの法律も又、チェチェンでは、テイプ及びヴィルドの命令的決定に近い特別な解釈を見出した。強大なKGBですら、チェチェン・イングーシの条件下でのその適用に対して、「鉄の」命令の実践における修正を許した。
秘密共同体のかなり解釈の余地がある規則は、チェチェン当局により導入されたソビエト法令の痕跡及び寄せ集めの法律規定と共に、先祖伝来の伝統及び宗教観と混合され、これは勿論、社会生活にバベルの塔をもたらさない訳がなかった。これらの条件下において、イチケリア国家機構は、TOIの全システムにおいて、二義的、支援的役割しか演じなかった。
秘密共同体「イチケリア」の構成部分に集中された一定の戦力及び手段の存在にも拘らず、それは、不作為が堕落と崩壊を孕んだ多数の非正規武装支隊の強化を裏付けることを可能にする一定の思想基盤なしでは機能できなかった。
■「愛国者」のためのごった煮
独立チェチェン国家創設の構想は、実を結ばず、不明確かつ時間的に長びいたが、チェチェンで広まったスーフィ教を信仰する古典的なイスラム教徒は、現世の幸福の獲得手段として暴力を使用することを許さなかった。先祖伝来の慣習は、空間的及び社会的制限を有し、秘密共同体の誕生のための培養基としてのみ適していたが、事後の過激な活動のための象徴とは決してならなかった。これらの原因により、ドゥダーエフが約束した「金の蛇口からラクダのミルク」とは異なり、即時配当を約束する最も奔放な冒険の展開のための理論基盤となる思想基盤の必要性が生まれた。
受け入れ難い教義のため古典的なイスラム教徒に拒否された暗殺教団と同様、我がイチケリア人は、彼らの思想を戦術的に回避することを選んだにも拘らず、その担い手達が共通の問題に関して盟友となる以上、バーブ教で武装することを考えた。
バーブ教徒が、各種ルートと様々な目的でイチケリアに到着した。ある者は、ハッタブのように、他のホット・ポイントから直接やって来て、ある者は、国外のバーブ教教育施設での教育実施後に帰国し、ある者は、具体的な任務を持って外国特務機関により特別に派遣され、ある者は、隣接するダゲスタンから、タリカチス騎士団の古きルートにより、不穏なチェチェンの同志の元へ。
要するに、その使用の実践がアフガニスタン、タジキスタンその他の諸国で既に行われていたものから思想が汲み取られた。
バーブ教の擁護者は、イスラム原理主義への回帰を口々に要求しており、そのため、彼らは、原理主義者と呼ばれ、宗教での新しい試みに公式に反対している。自分の教義を実現するため、彼らは、極端になり、イスラム教に存在しない独自の過激な新教義の虜となっている。カフカーズの信奉者の解釈において、匪賊行為に増幅されたこの教義は、奔放なテロリストの手で、混合物の特徴を獲得した。
1999年夏のダゲスタンへの匪賊支隊の侵入及び現地バーブ教徒により支配されるカダール飛び地での戦闘は、過激派の教義により予めプログラムされたものだった。当時、侵入が起こらなかったとしても、似たようなことが他の場所、別の時間に起こったはずである。
法的にロシア領土と考えられるチェチェン領土では、戦闘員のキャンプが創設され、そこでは、ダゲスタンも含む様々な地域からの数百人の外国人及びロシア市民の爆破作業の教育が行われ、その領土において、彼らは、ロシア軍軍部隊に対してテロ行為を実行しつつ、再三攻撃を繰り返した。
チェチェンのムスリム教徒は、定期的に、隣接国領土で自動車及び家畜を盗みつつ、ロシア軍人及びダゲスタン民警を人質に取っていた。
1998年4月26日、グローズヌイにおいて、「イチケリア・ダゲスタン民族会議」が創設され、これについては、発送された委任状及び招待状で通知された。
1ヵ月後、バーブ教徒が優勢を占め、ハチラエフ兄弟により誘導された群集は、ダゲスタンの国家会議、議会及び政府の建物を奪取及び破壊し、国旗を投げ捨て、その屋根に自分達の旗を掲げた。
ダゲスタン、ブイナクス地区カダール地帯において、「良識に反し、自然に逆らい」、爪先まで武装した髭面により統制されるバーブ教徒の飛び地が生まれ、そこには、ロシア及び外国の特務機関職員並びにステパーシン首相を含む共和国及び国の高官が訪れた。
ダゲスタンのバーブ教徒、アリエフ、ジャルロ、タガエフ、マホメドフ等は、チェチェンの自分の「兄弟」であるハッタブ、バサエフ、ウドゥゴフ等を定期的に訪問し、それについては、公式及び非公式ルートにより、しかるべき情報が流布された。
1999年6〜7月、チェチェン・ダゲスタン国境で、匪賊の大戦力が集結し、国境横断を準備しているとの報道が定期的になった。
同時に、ツマジンスク及びボトリフスク地区の制高点に、イチケリアの特殊部隊が、作戦通信のための中継局を設置した。
チェチェンと隣接するダゲスタンの村の住民は、ハッタブ・キャンプで教育を受けたダゲスタンのバーブ教徒が、その「同級生」と共に、故郷の村に立ち寄り始め、同郷人との会見において、「真剣かつ長期間」武器を持ってここに来る意図について表明したとき、警鐘を鳴らし始めた。これらの村及び地区の地域権力機関は、迫りくる戦争について、共和国指導部及び法保護機関に警報を送り、共和国安全保障会議書記マグジガジエフと内務相マホメトタギロフも、自分の公式表明において、武装紛争の可能性を認めた。
ダゲスタンの指導者で初めて、戦争の迫りくる脅威について表明したのは、マハチカラ市長サイド・アミロフであり、彼は、共和国の安全保障に関する実際的措置を採ったほとんど唯一の者だった。
それと共に、モスクワの最高レベルでは、事件が少し違った風に見られており、これについては、バーブ教徒のダゲスタン侵入の数日前、マハチカラでの記者会見において、チェチェン・ダゲスタン国境に集結した戦闘員の侵略的意図に関する報道を記者の作り話と呼んだロシア内務第1次官コレスニコフの表明が証明している。
コレスニコフのボス、内務相ルシャイロは、次官の更に先を行き、匪賊の攻撃4日前の8月3日、エリツィンの書斎から出て、「我々は、北カフカーズでの戦争の瀬戸際にない。情勢の先鋭化は、戦力機構の行動の枠外にある」と記者達に表明した。
当事実は、2つの可能性について証明し得る。特務機関が事件に関するいかなる作戦情報も有していなかったか、あるいは、彼らとその他の官庁が開戦水準まで熟する機会を状況に与える命令を受けていたかである。第1の場合は、特務機関を馬鹿が切り回し、第2の場合は、タカ派が政治を操っていることになるため、これらの説を信じるのは難しい。しかし、何れにせよ、奇妙なことが更に継続した。
■捕え難いイチケリア人
隣接するダゲスタンへの宗教的過激主義者の侵略と共に始まったチェチェンにおける2回目の大規模戦争も又、1回目と同様、説明し難い現象が付随した。
何よりも、これは、イチケリアのリーダーの捕え難さである。ダゲスタンでの軍事行動時、マスハドフ政府の閣僚の1人は、バサエフを賞賛し、定期的にヴェジェノの自宅に泊まり、毎朝、仕事のようにジープでダゲスタンでの戦闘に出掛けている。主要テロリストの味方のこの誇張を無視するとしても、我々は、隣接共和国に侵入した匪賊の戦闘序列への後者の再三に渡る存在の事実を無視することはできない。その後、彼は、自分の義兄弟ハッタブと共に、イチケリア自体で自分の手下の指揮を継続するため、ダゲスタンから去り、地雷原で足を失いすらしたが、この後、目立たなくなることはなかった。
ダゲスタンで結婚した彼の同僚ハッタブは、カダール地帯その他の共和国の居住区に妻の親戚を再三訪ねており、チェチェンに位置した戦闘教育センターを指揮しつつ、彼が定期的に近東に出国し、そこで、「世界のテロリストNo.1」オサマ・ビン・ラディンを含む自分の同志及びパトロンと会見していたのは言うまでもない。これは、市場のある婆さんの情報ではなく、特務機関も含む完全に権威ある情報源から入ってきた情報である。後者は、恐らく、リャザン演習又は「メディア・モスト」の奪取型の超大規模行事において行動していたため、国境と回廊を通って彼らの鼻先を揺さぶったテロリストには行き渡らなかったのだろう。
誰も捕らえようともしないおかげで、捕え難くなったジョーに関するアネクドートが生じている。
イチケリアの「ジョー」は、会戦後「濃密な包囲環」から、芸術家の言葉で言えば、終幕後部隊から立ち去り、その「捕え難さ」は、全くもって記事のネタとなった。
ここに、第2次チェチェン戦争の数週間だけで起こったこの経緯の若干の事実がある。
2000年2月、包囲されたグローズヌイから、マスハドフ、ハッタブ、バサエフ、ゲラエフ、ウドゥゴフ、イスラモフ、アリホジャエフ、ラドゥーエフその他多くの小物が姿を消した。
3月1日、プスコフ空挺中隊の悲劇的な壊滅後、ウルス・ケルトから、匪賊リーダーのほぼ全員が去った。
3月2日、グローズヌイ、スタロプロムイスロフスキー地区のペルヴォマイスカヤ駅周辺でモスクワ郊外のOMONを待ち伏せした後、未確認の指揮官を長とする大規模な匪賊部隊が大手を振るって戦場を離脱した。
3月10日、隙間なく包囲されたコムソモリスクから、ゲラエフが去り、増援をつれて戻り、その後、再び村を放棄した。3月11日、封鎖されたセリメンタウゼンから、多数の警護が随行したマスハドフ、バサエフ、ハッタブが未詳の方向に抜け出し、後に、自分の支隊と共に、チェチェン各地に出現した。
他の者の捕え難さの代償として、同日遂に、1996年のキズリャル襲撃後「英雄」となり、チェチェンだけではなく、国外も動き回ったチェチェン人テロリストNo.2、サルマン・ラドゥーエフが、ノヴォグローズヌイにおいて、FSBにより逮捕された。
主要活動家の難攻不落は、常に秘密共同体の特徴の1つであり、歴史上の各時代及び今日の生活において少なくない証拠が発見される。
秘密共同体「イチケリア」の基本活動地帯で形成された情勢は、近い将来におけるここでの状況の発展に関して、一定の予測を行うことを可能にする。
連邦当局と対峙側間の交渉成功案を検討してみる。これは、チェチェンの権力機関の創設が仮定され、その参加者は、イチケリア主義の擁護者となるはずである。この場合、TOIの活動は、新しい条件下で継続され、結局のところ、2年後には、元のさやに収まり、新たなチェチェン戦争の現実的脅威となるだろう。それへの中途半端な作用又はその活動の部分的縮小が、贔屓目に見ても、そのような組織の変貌を促進こそすれ、その放棄をもたらさないのが秘密共同体の本質である。その歴史的事例は、サラディンが説諭によりその残った擁護者を手なずけて、一部だけ廃止した秘密暗殺教団である。暗殺教団は、数世紀に渡り、独自のイデオロギーと機構を維持し、中東では、今も変形したその後継組織が存在している。
そして逆に、当局の調整された攻勢行動の結果、社会からその構成要素が排除され、この教団の戦闘支隊は、チェルチ将軍の軍が撃破した結果、ゼウスのロッジは、永遠に忘れ去られるだろう。
独自の経験と歴史の実例がTOIの支配下の領域に秩序をもたらす権限を有する者にとって教訓とならなければ、将来、恐らく、より綿密な形態で、その活動の復活と係わらざるを得ない。
秘密共同体の解体の断念及び何らかの形態でのその機構の存在の黙認案の際、その上、合法権力機関の地域システムへの移植の際、我々は、遅かれ早かれ、何れにせよ、当初の案をもたらし、全ては新たに始めなければならない。
イチケリアの全機構の全面排除案が採用されれば、無私で秘密共同体の活動に参加した若干の連邦官僚、将軍、ビジネスマン、銀行家、法保護職員も、「邪魔」されなければならない。実際、我々の中には、自分のへその緒が当局者と関係している者もおり、このことは、この案の実施を非常に問題のあるものとする。
提案される案が国際的要素の影響を考慮すれば、既存の条件下では実現が容易ではない構成要素を含んでいる以上、恐らく、チェチェンにおいてモスクワにより採択される一歩には、余り過激ではない紛争調停要素が見られるだろう。
そのような場合、近い将来、我々は、戦火を被ったチェチェンの地で次のような光景を観察せざるを得ない。
森林、峡谷、洞窟、放棄された農場及び部落には、戦闘員及びその小グループが隠れ、時折、居住区の個々の施設及び路上の自動車に対して襲撃を実行している。攻撃に曝されているのは、連邦軍の検問所及び巡察班、小守備隊及び内務課、並びに鉄道列車、医療及び金融施設、畜産業及び倉庫である。匪賊の主な獲得対象は、金及び貴重品、麻薬及び医薬品、武器及び食料であろう。
ムスリム教徒は、高級官僚及び将校、ビジネスマン及び銀行家、並びにその近親者を狙うだろう。連邦軍及びそれに協力した地域住民に対する報復行為を実施し得る。
人質及び通過貨物の奪取、自動車及び家畜の泥棒目的による隣接共和国及び地方領土に対する襲撃は止まないだろう。
地域当局及び法秩序機関の一部代表は、匪賊と判明し、若干の戦闘員は、自分の裏家業と公式機構での仕事を兼業するだろう。
チェチェン復興に割り当てられた連邦資金の一部は、消え失せ、一部は、明らかに「空の」プロジェクトの実現に支出されるだろう。
石油採掘と石油精製は、著しく回復され、その製品の大部分は、盗み去られるだろう。
共和国のマスコミでは、イチケリア指導者の政治的及び法的復権並びに国外にいる者達の祖国への名誉ある帰還の必要性に関する問題が定期的に提起されるだろう。
同時に、ロシアとの相互関係におけるチェチェンの特別な地位及び若干の国際法上の権限の共和国への委譲に関する問題が誇張されるだろう。
中央から任命されたある指導者の更迭、及び以前にイチケリア機構で働いていた者のこの職務への推薦の要求を伴うミーティングが行われ始めるだろう。
チェチェン経済へのモスクワの大資本家の関心が強まり、架空機関の口座で共和国に送金された資金の一部の吸い上げの試みが認められるだろう。
手製の偽札及び本物の外貨、武器、麻薬、貴重品、イクラ、放射線物質、様々な「闇」商品、並びに人質及び戦死者、行方不明者及び逃亡者に関する情報が売買される非合法専門市場が生まれるだろう。
これは、過去十年間にイチケリア人により創設されたシステムの解体過程の障害への衝突の条件の下、近い将来、チェチェンで観察され得る光景の一部である。
しかし、この光景は、最高レベルにおいて、大統領の許可により、実現を見る他のシナリオが立案されれば、別の形態も有することが排除できない。
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/russia/chechen/toi.htm