現在地 HOME > 掲示板 > 戦争59 > 303.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
マイケル・ムーアの「華氏911」を見てきました 古川利明(04・8・30)
この話は本来、この硬派面ではなく、本サイトのB面にあたる「ヒマダネの部屋」の方でアップすべき話なのですが(笑)、ただ、作品の内容が極めてまっとう、かつ、アクチュアルなテーマを取り扱っているため、急遽、こっちでアップすることにします。
あの夏休みを取りまくっていた小泉純一郎が「政治的に偏った映画は見たくない」とホザいたりする一方、本国アメリカでも、ディズニーが配給を拒否するなどの物議を醸していて、それも含め、現在、話題沸騰の感がありますね(今年のカンヌ映画祭のグランプリ作品でしたし)。
結論から言いますと、この映画は「絶対見るべし」です。日本は映画料金が高くて、現在はオトナ1人1800円もむしり取られますが、それだけ払った価値のある映画です。こういうことに身銭を切ることは、あとあと自分の血肉となって戻ってきます。
私が、ムーアの作品を見るのは、じつは前回の「ボウリング・フォー・コロンバイン」に次いでこれが2回目なのですが、この「ボウリング??」の方は、じつにコミカルかつギャグをかましまくっていて、スクリーンを見ながら何度もゲラゲラ笑える作品だったのです。何というのでしょうが、「お笑い・アメリカ銃社会の病理」というサブタイトルをつけたくなるような仕上がりだったのです。
そのイメージがありましたので、今回の「華氏911」も、そのノリで結構、笑わせてくれるんだろうと思っていましたが、実際、私が見た印象では、あまりにもシリアス、かつクールに仕上がっていました。
もちろん、「映画」という娯楽性の強い媒体であるがゆえの、ある種の演出とか、おもしろおかしく作品を仕上げるための工夫はあったとは思いますが、それを差し引いても、「本格派ドキュメンタリー」という思いを強くします。
ハリウッドをはじめとする本国アメリカの映画界のメインストリームは、この「華氏911」をシカトしていますが、カンヌ映画祭がこれに最高の評価を与えたというのは、よくわかります。このあたりにも、私には本質的な「米仏間の亀裂」の存在を感じさせます。
まず、全体的に思ったのは、やはり、「映像の持つインパクト」ということでしょうか。
私は基本的に文章を使って表現している立場におり、いかに映像の持っている力に、ペンでもって肉薄できるかに心血を注いでいます。しかし、それでも、映像が描きだすディティールというのは、まさに「百聞は一見にしかず」であるという思いを強くします。
例えば、ジョージ・W・ブッシュをはじめとする、アメリカ政府高官が記者会見に臨む前に、ブッシュの場合はスタイリストがついて、髪形を整えたりするのです。
んで、そうやっていわば、TVニュースの映像では映し出されることのない、「ウラの顔」というものも映像で表現しており、ブッシュに次いで、補佐官のライサ、副大統領のチェイニー、さらにはラムズフェルド、パウエルとそういった「髪形を整える」というシーンを映し出していくのですが、私が「ハッ」と思ったのは、国防副長官のウォルフォリッツの「それ」が出てきた時でした。
このウォルフォリッツというのは、今回のイラク戦争を煽動したネオコンの中核に位置し、中でもそのイデオローグの部分で圧倒的に影響力を持っている男です。
んで、これまで私はウォルフォリッツという人物について、新聞の顔写真はもとより、会見でわずかに映し出される映像しか見たことがなかったのです。
で、このウォルフォリッツの顔を見る限り、結構、マトモというのか、かなりインテリチックで品のいいオッサンという印象を抱いていて、「こんなマトモな顔をしたオッサンが、なんで、予防のための先制攻撃もチョーOKという、あんな野蛮極まりないブッシュドクトリンなるものを構築したのか」というギモンを持っていたのです。
しかし、その疑問を一挙に氷解してくれたのが、この「華氏911」でした。
この映画が映し出したウォルフォリッツとは、その会見に臨むにあたって、髪形を整えるために、櫛にツバをべっとりとつけて、それで髪をそそくさと整えるのです。
んで、それでもまだ完璧でないと思ったのか、さらに手にツバをつけて、その手で髪形を整えていくのです。その仕草をやっているときの目つきや表情というのが、何とも「品性下劣」という形容しか付けようがないのです。
このシーンを見たとき、「ああウォルフォリッツというのは、こういうケダモノの皮をかぶった人間なのだ」ということがわかり、それゆえ、「大量破壊兵器を持っている恐れがあるだけで、どの国を軍事攻撃しても構わない」という、あんな「先制攻撃理論」という、トンデモないというより、キチガイそのもののリクツをデッチ上げたかが、よくわかりました。まさに、これなど、凡庸の文章をいくら積み重ねても、その本質をえぐり取ることはできないでしょう。
あとは、いかに米大手マスコミが、いかに真実を伝えていないかが、よくわかりました。
例えば、ブッシュが大統領就任の記念パレードで、例のフロリダ州の票操作というイカサマで大統領の座を強奪したにふさわしく、観衆から生卵を黒塗りのクルマに投げつけられるシーンがあるのですが、私が記憶する限り、このシーンを放映したテレビ局が果してあったでしょうか(映画のキャプションでは、「就任パレードでこんな扱いをされたアメリカ大統領は、ブッシュが初めて」とつけていました)。
それと、9・11からイラク戦争になだれこんでいって、その死者の柩が次々とアメリカに戻ってくるのに、大手メディアはそうした光景を自主規制して伝えないことや、何百人もいるアメリカ連邦議会議員のうち、自分の息子がイラクに派兵されているのは、たった一人しかいないことなど、じつに驚くべき「事実」が、淡々とではありますが、次々と映し出されていきます。
前作の「ボウリング?」と比べて、今回の「華氏911」は、ムーア監督が自らカメラを回して、新しく映像を撮影していったという部分より、既にニュース番組などが撮影した膨大な記録映像をもとに、いま、アメリカで起こっているのは何なのかということを再構成したものといってよいでしょう。
ただ、これは私が本を書き下ろすときの取材とまったく同じで、私の場合も、あるテーマで取材にとりかかるときは、まず、最初に新聞なり、雑誌記事なり、単行本なり、既に公表された資料をトロール漁法のようにかき集めることから始まります。
そうした集めた資料というのは、いわば、ジクソーバズルのピース(一断片)でしかないのですが、それを時間軸に沿って並べなおしていくと、一つの絵がだんだんと浮かび上がってきます。しかし、それでも足りないパーツが出てくるので、それを入手するために、直接、人間に会って取材をかけるのですが、ムーアの今度の「華氏911」も、まさにこの手法で作り上げられています。
私に言わせれば、これは第一義的にはジャーナリズムの分野に属する「ドキュメンタリー作品」ということができると思いますが、さらにもっていえば、これは芸術作品であり、まさに「アート」といっていいと思います。
いかなる芸術作品も宿命のそうでしょうが、結局、「永遠の生命」を持つのは、作品そのものが持っているパワーなのです。造りだされた作品が人間の心を突き動かすだけの生命力を持っているかどうか。それに尽きます。
ですから、その作品を造った人が誰なのか、また、その作品を刊行する(上映する)出版社(配給会社)がどこなのかというのは、「二の次」というより、まったく関係はなくて、歴史の荒波を揉まれて読み継がれ、語り継がれていく、「永遠の相の下に」見て価値を持つ作品とは、そういうものです。それが、芸術の本質です。
もともと、アートの出発点にあったものとは、喜怒哀楽を持った人間が発する、「驚き」であったり、「喜び」や「悲しみ」、そして「感動」、さらには不条理なものに対する「叫び」や「狂い」といった、極めてプリミティブな感情だったのだと思います。
既に紀元前3万年頃に地球上に現れたクロマニョン人が、フランスはラスコーの窟
にものすごい巨大な牛の絵を残しています。その色合いといい、迫力といい、現代人の私が見ても感動することしきりですが、それを書いたクロマニョン人の名前は、今では誰も知りません。しかし、その作品は残り、私たちの心に何かを訴え続けます。
こうした芸術は、人間の文明社会が構築されていくなかで細分化され、文字を使ったものは「文学」、絵で表現したものは「絵画」、楽器と使うものは「音楽」、自らの肉体を使って表現するのもは「演劇」へと枝分かれしていきました。しかし、その本質に存在するものは、まったく同じものだと思います。
とりわけ、19世紀の後半から20世紀に入ると、写真や映画、さらにはテレビといった、俗に「マスメディア」とよばれる、「複製技術時代」における表現手段が開発されたことで、さらに芸術のジャンルは細かく枝分かれしていきます。
私などは、「ジャーナリスト」というレッテルを貼られてしまっていますが、しかし、私に言わせれば、「ジャーナリズム」とは文学における一ジャンルだと思っています。
例えば、琵琶法師によって語り継がれ、鎌倉時代には文章化された「平家物語」などは、私に言わせれば、「ジャーナリズム」そのものです。あの明瞭かつ簡潔なきびきびとした文体、うるさいくらにファクト(=事実関係)を盛り込んだ文章は、いまの私たちジャーナリストがお手本にすべきスタイルだと思っています。その意味では、今度のムーアの「華氏911」は、「現代版・アメリカ平家物語」の映像バージョンといってもよいと思います。
そこで、「華氏911」に話を戻しますと、アメリカでもこれは封切りされるや否や、「大統領選を控えて、民主党に肩入れした政治的なプロパガンダだ」とか、「ブッシュを悪玉に仕立てあげ、茶化しているだけ」といった、低次元極まりない中傷が、特に共和党に近い筋(っていうか、そういうところからカネを貰っている売文業者ら)から流されました。
作品を見れば、それがいかに的外れであるかは(もちろん、見る人間がマトモな感性を持っている場合に限られますが)、すぐにわかりますが、こうした“異論反論”を極東亡国でも、『諸君!』や『正論』、さらには『ヨミウリウィークリー』あたりが、石原慎太郎や福田和也、または小林よりのりや西部某あたりの「極右マッチョ男根的国家主義」の系列にいる人物を使って、「これこそがまさに三流の政治プロパガンダである」とヤルのは、まだ、許せるのです。
ところが、わが目を疑ったのが、最新号の『SPA!』(8月31日号)で、東京都立大助教授の宮台真司、ビデオジャーナリストの神保哲生、ドキュメンタリー作家の森達也の3人が「敢えて徹底批判、『華氏911』の功罪」のタイトルで、このムーアの力作を徹底的にこき下ろしていたのには、びっくりしました。
この3人の発言はいずれも目が腐ってしまいそうなディスクールの羅列なのですが、とりわけひどいのが宮台真司で、鼎談の最後を締めくくる形で、こう述べているのです。
<陰影も含蓄もなく、感情のフックで動員するのが、共和党のやり方。『華氏911』も完全に同じ。本来は、感情のフックで戦う共和党右派に対して、リーズニング(理路)で戦うのが、民主党リベラル。なのに敵の土俵に入っちゃった。戦術としての有効性は別にして、ラルフ・ネーダーの「共和党と民主党のどこが違うんだ」という反駁がリアルになった。ブッシュを噛ませ犬にして、アメリカン・グローバリゼーションを問わせない素朴なプロパガンダを、日本のメディアが礼賛するのなら、国民をナメた小泉=飯島プロパガンダを礼賛するのと、何も変わらない。大統領選も左右できない日本で、この映画を素朴に礼賛する“思考停止の輩”は、ブッシュが倒れればアメリカのケツを心置きなくナメるでしょう。>
そもそもあの映画を見て、「米民主党によりかかった政治的プロパガンダ」と思い込んでしまう感性そのものが、「思考停止」以外の何物でもありませんが、「華氏911」は、「ブッシュ噛ませ犬」どころか、その背後にいる共和党ロビー(=軍産複合体)の存在にまでメスを入れ、オイルダラーで腐りまくっているサウジ王族との癒着まで描きだしているのです。
確かに、いろいろと指摘されているように、細部のところでの誤りというのはあるのかもしれませんが、あの映画はまさに石油利権を強奪するためにイラクに戦争を仕掛けた「アメリカン・グローバリゼーション」の暗部というより、愚行を余すところなく表現しています。
確かに、私も一つだけ、この「華氏911」で納得いかないところがありました。それは、マンハッタンのツインタワーに航空機が激突する瞬間の映像がなかったところです。あれはやっぱり入れてほしかったですが、あの部分だけは「自主規制」をせざるをえない、何かの“圧力”が働いたのか、という勘繰りを私はしてしまいましたが、それを除いたら、膨大な事実を丹念に集めて、そこから浮かび上がった「歴史」をうまく描き出しています。
そして、何より、アメリカ国民をあの不毛な戦争に引きずり込んでいくことで、それはイラクの何の罪もない民衆であったり、軍隊に就職するしか行き場のない貧困層(イラクの地で次々と命を落としている米軍の兵士は、すべからくこういう層です)の人たちが持つ悲しみ、怒りも、ストレートにぶつけています。
さらに言うなら、ムーアの矛先は、カネと謀略の限りを尽くして、「大統領の座」を簒奪した共和党の連中に対して、何の抵抗もせずにすごすごと引き下がったアル・ゴアをはじめとする民主党リベラル派に対する皮肉も十分に出ています(#だいたい、アメリカも日本もリベラル派の政治家は「政局遂行能力」がないんや。だから、ここまで日米両国がダラクしまくっとるわけや)。
まあ、マトモな政治感覚を持っている人であれば、少なくとも、今度の大統領選でブッシュだけは引きずり下ろさなけばならないのはアタリマエで、それを「民主党のプロパガンダ」と言い切るのは、まさに「ブッシュ&軍産複合体」と同じ目線なのです。そういうスタンスから、この国ではいちおう、反体制のスタンス(というよりフリ)をしている、宮台、神保、森の“三バカトリオ”が、「華氏911」を叩くというのは、もう、ほんとに「終わっている」のです。
私が彼らに一言ずつ言うとすれば、宮台真司には「ブルセラ問題で、若者たちに『自己決定能力』を養え」とアジった、あの頃のフレキシビリティーはどこに行ったのか?
都立大教員のリストラ問題で、石原慎太郎に何か弱みを握られて、脅されているんかいな(笑)。
神保哲生については、そんな「華氏911」を叩くヒマがあったら、オマエは「日本版・華氏911」を制作、上映しろっていうことで、それを「今」やることがまさに「ビデオジャーナリスト」なるレッテルを貼られた人間の「本懐」でしょう。
さらに、森達也については、オウムを題材にした「A」「A2」のあとは、当然、今や、日本の最高権力者として君臨している、さるエライお方をテーマにした「S」「S2」を手掛けるのがスジでしょう。まさか、ノンキに『潮』あたりで雑文を書いて、原稿料を貰ってはいないでしょうね。
しかし、「華氏911」という作品は、じつに恐ろしいですね。
こうした『SPA!』あたりのややマイナー系雑誌が持ち上げている、“言論文化人”なる連中の「劣化」ということまでをも、如実に暴き出してしまったのです。本物の生命力を持つ芸術作品とは、そういうものなのでしょう。
それと、本題とは関係ありませんが、9月2日(木)の17時半からの日本テレビ系
列の「ニュース・プラス1」で、金沢大学を舞台にした医療過誤についての放送があります。知り合いの医療関係者の方による、勇気ある「内部告発」によって、医療過誤の全容解明が進んだ珍しいケースです。残念ながら、関東エリアのみの放送のようですが、ぜひ、、ご都合のつく方はご覧になってください
# by toshiaki399 | 2004-08-31 09:29 |
『古川利明の同時代ウォッチング』( http://furukawatoshiaki.at.infoseek.co.jp/ )本サイトの開設にあたって
(02・11・18)
http://furukawatoshiaki.at.infoseek.co.jp/kanto.html
なぜ、人間はコトバを発し、文字を発明したのだろうか?
コトバの根源にあるものとは、おそらく、身を振り絞って出さんばかりの叫び声ではなかったかと思う。
そして、その叫び声とは、人間が人間であるがゆえに持つ、喜怒哀楽の感情だったのではないだろうか。
他者に対して、何かを伝えたいという必死の思いが、コトバを産み、そして文字を編み出した。そうしたメッセージを伝えるため、人間は紙を作り、印刷術を発明した。
21世紀を迎えたいま、コトバは「0、1」というデジタルの信号に変換され、インターネットを通じて、瞬時のうちに国境を越え、世界を駆けめぐっている。
私が、いま、敢えてこのサイトを開設し、コトバを発しようと決意したのは、自らがメディアたらんと欲したからである。
9・11をきっかけに、全世界的な規模で、いま、あらゆる形の「自由」が抑圧されようとしている。その中にはもちろん、自由を形づくる大本となる「表現の自由」も含まれている。
そして、これまでは「表現の自由」の象徴であったインターネットも、いまや統治権力の側によって、単なる監視ツールへとねじ曲げられようとしている。
「サイバー全体主義」は、いまや、すぐ私たちの目の前に来ている。デモクラシーの危機は、実は日本一国だけの問題ではないのだ。
だからこそ、われわれはインターネットの自由を守りらなければならないのだ。
それには、このインターネットを通じて、メッセージを発する以外にない。
自由も権利も、天からの贈り物のように、自然と降ってくるものではないのだ。
生まれながらに自由であり、平等であるという、人間としての権利、すなわち「人権」とは、近代社会が形づくられていく過程で、民衆一人ひとりが統治権力との絶えざる闘いによって勝ち取ってきたものだ。
そして、それは闘うことをやめてしまえば、跡形もなく、消えてなくなってしまう運命にある。
それゆえ、人間としての自由も権利も、いまこうやって書き続け、闘い続けることの中にこそある。
ここで私がこれから書き連ねていくであろうコトバは、おそらく、マスメディアからは無視され、黙殺され、また、切り捨てられるものもあるだろう。
しかし、私の発するコトバは「大河の一滴」でいいと思っている。
その一滴は源流を育み、地下水となって、深い地層の下をくぐり抜けて小川へと流れ込み、やがて、大海原へと開けていく大河とならんことを欲する。
なぜならば、歴史とは常に少数から、いや、たった一人の決起から始まるからだ。であるならば、私の一滴は岩をも切り裂く一滴でありたい。
また、「私」という「メディア」である本サイトは、言うなれば、大海原を漂流する、手づくりの帆を掲げて進む小舟のようなものでもある。
こうした手づくりの小舟は、風の吹くまま、自由気ままにメッセージを発するなかで、時には怒り、時には笑い、また落涙することもあるだろう。
穏やかななぎの中を進む順風満帆のときもあれば、荒れ狂う嵐に見舞われ、船体がひっくり返ることもあるに違いない。
しかし、それはそれでいい。そうした航海こそが人生そのものだからだ。
そして、旅の終わりに「自分の人生はほんとうに生きるに値した」と、そんな満足感に浸れれば、それでいいではないか。
コトバは命である。
人間はコトバによってものを考え、その考えを他者に伝えることによって、コミュニケーションが成立する。そこからお互いの理解や信頼、そして愛情が生まれてくるのだ。
私にとって、コトバをしゃべり、文字を使って書くということは、「生きる」と同義
である。
いま、自ら「メディア」となった私は、ここに新たなメッセージを発信していこうと思う。
私は、ここでコトバを幾重にも発信していくことによって、お互いが多様な価値観を認め合いながら、一人ひとりが自由であり、自立しつづけようとする社会であることを目指したい。
そして、社会の中から差別と偏見を排し、異端やマイノリティーに対しても寛容であるとともに、「人の道」に反する行為を許さない社会を目指す。
ここで言う「人道に反する罪」とは、具体的には、ありとあらゆる権力犯罪を指すが、なかでも最も罪が重いのは、「戦争」、すなわち、国家権力による殺戮行為である。
そして、私が放つコトバとは、このように統治権力が根源的に抱え持つ「悪」を抉り出していく一方で、人間が人間であるがゆえに、他者を心から愛し、慈しんでいく思いを大切にしたい。
「愛する」とは、日常的な狭い意味では、男と女が、また人間同士が、お互いを大事に思い、その存在を認め合い、そして、リスペクトすることである。
が、もっと普遍的な意味における深い「愛」とは、罪を認めて跪いた相手を許すことであり、また、本人自身もいつかそうした罪を犯すかもしれない、矛盾に満ちた、不完全な存在であることを受け入れたうえで、人間同士がお互いの心を開いていくことだと思うからである。