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【ペシャワールから沖縄へ】 (15)中村哲
米軍ヘリの喧騒と錯覚の中で思う
寄稿記事
〔沖縄タイムス 2004年8月29日(日)〕
チームワークに難儀するのはどこも同じである。
あるとき、日本人ワーカーの1人が用水路作業現場でけがをした。金づちで左指をしたたかに打ち、挫滅創でひどい痛みを患った。昼食時にみんなが心配して、あれやこれや治療法を述べた。「患部を洗って水で冷やせ」と私が示唆したのに、現地の者がそれぞれに異なる意見を言う。議論百出。「アルコールをかけよ」「温めるべきだ」、くらいならまだいいが、「煮えたぎったやかんに指をつける」に至っては、さすがに医師である私は黙っておれない。
しかし、さもありなん。工事現場では汚い作業服を着て、ガツガツと食事をしている私が医師であることを、現地人もワーカーも忘れているのである。血流をよくするため手を高くし、小骨折や腱の断裂が疑われれば、ギプスで固定するのが常道だ。このときばかりは「わしは医者だぞ」と強調せざるを得なかった。
ところが、このワーカーも一徹者。「作業中はせめてでも腕をつれ」と指示すれば、答えていわく「作業しにくいし、たかがこれくらいでおおげさに思われる」。「男の見えをとるか、治療をとるか」と問えば、「見えをとります」ときっぱりと述べた。立派である。日本の病院では対照的で、放置すれば治るようなけがでも、心配して来院するのが普通になってしまい、診察中、「これくらいで病院にくるな」と内心思うことが一度ならずある。そんなせりふをはけば、患者も傷つくし、病院の評判も悪くなるので黙っている。
さて、考えればアフガニスタンの至る所が「無医地区」である。小さなけがや軽い病気なら医者にこない(行くカネがない)。民間療法や祈祷、自己流の治療法で対処する。腸チフスや悪性マラリアなどの重症例は別として、軽い病気なら、安静にさえすれば、何をやっても治るのである。もちろん、長い間に「こうすれば治りやすい、ああすればかえって悪くなる」という経験が蓄積して、医学治療が進歩し、民間治療がいきわたる。
しかし、えてして人間は自分の行為で治ったと信じがちである。これは世界中、変わらない。告白すれば、実は医者の世界でもそうで、はたして薬が効いたのか、放置しても治ったのか分からないことが案外少なくない。技術的には、基本をきちんと守り、多少のさじ加減をその人に応じて加えれば、治るものは治り、治らないものは治らない。ただ、正しい診断さえあれば見通しが予測でき、患者の不安を鎮めることができるのみである。臨床経験が豊富な医師なら、分かるはずである。
だが、医師の少ない現地では、これまた極端。1人ひとりが自分の経験に自信をもつ。その自信が日本人の一般常識からみて尋常ではないのだ。一匹狼の集合だと考えて差し支えない。私は神経が専門だが、赴任の初期、部下の看護師が神経の解剖と機能をたっぷりと講義してくれた。「釈迦に説法、それくらいは知っている」と言いたかったが、診療意欲をそがぬよう黙って聞いた。これにはかなりの忍耐が要る。
この一匹狼の群れを束ねるのは容易ではない。一番の解決法は、ことを起こすときに指導者たる本人が先頭に立ち、実績で語ることである。いわば遊牧民的な気風で、マニュアル式の組織的な集団は現地向きではない。
話がそれたが、私がいつも思うのは、人は本当は備えられた自然に守られている事実に気付かず、自分の意図でことが成ると錯覚しがちである。その極致が「バベルの塔」の物語として旧約聖書に描かれている。神を忘れて思い上がった人間が天に届かんと巨大な塔を築き上げようとしたとき、神はこれを破壊して滅ぼされた。今、作業現場の上空を舞う米軍ヘリを見、「民主主義=近代化」ですべて幸せがくるかのごとき、喧騒と錯覚を眺めるにつけ、なぜかこの物語を思い出す。
グローバリゼーションという名の、世界を支配する人為と欲望の巨大な組織化に比べれば、現地の人間の「過剰な自信」と「チームワークのなさ」が、何やらかわいらしく思えて仕方なかった。
取水口に集結した作業員や重機の運転手、水路関係のPMS職員たち(2004年3月7日)
(医師・ペシャワール会現地代表)
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/pew_oka15.html
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/