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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu76.htm
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日中戦争は日本軍と国民党軍の戦争であり
中国共産党は漁夫の利を受けただけの存在
2004年8月5日 木曜日
◆反日アミューズメント 中国人民抗日戦争記念館
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa02/tushu3.htm
中共では盧溝橋事件を「七・七事変」と呼称し抗日戦の八年抗戦の重要な起点となっている。(しかし、台湾では、抗日より内戦である掃共戦を重視しているのだが)日本人には、アメリカには負けたが支那に破れた、という意識はない。しかも、本当は、中共党軍は抗日戦をやってはいない。日本と戦ったのは国民党軍である。中共党は高見の見物のあと漁夫の利を得ただけだったのだ。誰も知らない間に抗日戦に勝利した中共党が捏造した抗日の歴史と物品が集まっている。
日本は大東亜戦争を通じ、アジアを支配していた白人勢力と戦った。破れはしたもののアジアの植民地は相次いで独立することができた。この歴史的転換期に支那はアジアの敵である白人勢力と手を組み、日本と戦っていたのだった。日本は降伏したとはいえ「聖戦」には勝利したと言える。カッコいいところを日本にさらわれた支那としては、日本の戦争を貶めたい気持ちでいっぱいなのだ。
ほぼ無抵抗で満州を手放した国民党政府は、その後も「安内壤外」を標榜し共産軍の掃討戦に熱中していた。中国紅軍は南昌蜂起(昭9.1934)に失敗、蒋介石軍に追撃され一年後には、一万にも満たない敗残のゲリラ集団になっていた。この逃避行を「長征」と呼ぶ。盧溝橋事件当時、南京政府はようやく国内統一政権を達成して、英・米・仏・独等の支援で対日強硬方針を打ち出していた。
日独の挟撃を恐れるソ連・国際コミンテルンも支那においては当面の武力革命は無理と見て「抗日中国統一戦線」を呼びかけた。満州建国で支配地を追われた張学良らが呼応して西安事件を起こしたのは盧溝橋事件の前年(1936)12月であった。コミンテルンの指示どおり、中共党は抗日路線のために次々と譲歩し、指揮権まで渡して蒋介石を持ち上げた。
抗日・排日の民族的意識の高まりに、蒋介石は「反共」や「掃共」のスローガンを降ろさざるを得なくなり、抗日救国路線の最高指導者に祭り上げられ、日本と戦う以外の選択を許されない立場に立たされた。盧溝橋事件とその拡大は中共党にとって窮地を脱し、大きく飛躍する起死回生のチャンスだった。国民党軍と日本軍を戦わせ、放っておいても双方は消耗し、支那人の不満が高まれば革命の好機である。日本敗北の結果、大量の日本軍兵器が流出し、それを手に入れた中共党軍は国共内戦に勝利した。
昭和63年(1988)、奥野国土庁長官が「蘆溝橋事件は偶発的」と発言したところ、辞任に追い込まれた事があった。この異常な反応は何なのだろう?中共は「蘆溝橋事件は日本軍の謀略」と言い張るが、いくらポコペンとはいえ10万の支那軍に何の準備もなく5千ぽっちで戦争をしかけるほど帝国陸軍も無謀ではないだろう。中共にとって「偶発的」では絶対に困る事情とは何だろう?それは「日本軍の謀略」にして「自分たちの謀略」を隠蔽しようとしている様に見える。「蘆溝橋事件は中共党の謀略」を白状しているようなものだ。
「日本軍の計画的な謀略」を裏付ける物的証拠とされている。「田中上奏文」とも「田中奏摺」とも呼ばれる。内容で最も有名な部分が「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征せざるべからず……これ乃ち明治大帝の遺策にして…」のくだりである。
日本は世界征服の野望のためのプログラムを用意し、その手始めに満州、支那に侵略した、というのだ。明らかに偽造文書なのだが、1930年代に米国や中国で出回り、日本に対する強い反発を呼んだ。これを作ったのはソ連・KGBの前身であるGPUで、英語版は米国共産党によって大量に配付された。(産経新聞・平成11.9.7)肝心の「田中メモリアル・日本語版」は存在しない。
東京裁判では「共同謀議」による陰謀史観を前提にスタートした。田中メモリアルを日本の計画的侵略の証拠として使おうとしたが本物と立証できず、検察側は共同謀議説を放棄してしまった。ところが、中共ではまだこれを本物であると頑張っていて、出版し続けている。ギネスブックによれば、史上最高のベストセラーは「聖書」(25億冊)で、次が「毛沢東語録」(8億冊)だそうだ。そして何と「田中メモリアル」がそれに続くらしい。
日中戦争においては、戦争らしい戦争と言えるものは、盧溝橋事件から武漢陥落までの約一年余りの期間だけであった。戦闘パターンもまず反日・抗日集団が日本軍を挑発して逃げ、日本軍が反撃すると中央軍が逃げ、便衣隊になり、市民が日の丸を振って日本軍の入城を歓迎し、その後は支那人が作った新しい治安維持政府により匪賊やゲリラの襲撃を防ぐ、というもの。支那軍は日本軍と百戦百敗しながら、略奪しながら逃げ回り、しかも蓄財に余念がなかった。
支那での内戦は1910年代に入ってから人民中国の発生まで、激しく続いていた。日本軍が中国大陸に入らなかったら、軍閥達は永遠に闘い続け日中戦争以上の死者を出したであろう。国共内戦の結果、消滅した国民党軍だけで800万人であると、毛沢東は誇らしげに語っている。
中共成立後も支那人の殺し合いは続き、三反五反運動での粛正、大躍進運動での餓死、文革での闘争などでの被害者は日中戦争よりずっと多い。
支那事変当時、南京には中央政府として蒋介石の国民党政府があった。しかし蒋介石の威光が及ぶのは揚子江下流のデルタ地帯のみで、地方各省には地方軍閥がいて各省内を牛耳り手兵を養っていた。中央では地方軍のことを雑軍といった。表面上は地方と中央が合わさって、一応の全国的な行政体制があったように見えるが、実は蒋介石と地方軍閥との関係は敵でもない味方でもない微妙なものであった。地方軍閥が連合合作すれば蒋介石を圧することもできたが、お互いに牽制しあって同盟には至らなかった。蒋介石さえ地方軍閥の一人であった、とも言える。
蒋介石は全国統一のため雑軍の処置が絶対必要であった。具体的な方法として、地方雑軍の少壮将校を廬山に集め再教育した。思想・兵術の再訓練で民族意識に燃えた良質の将校を増やすことができた。蘆溝橋事件での第29軍も軍長の宋哲元と若い将校とは違う思想を持つに至っていた。
蒋介石の雑軍整理のもう一つの方法は、日本軍にやらせることである。正面の日本軍と後ろからの督戦隊で挟み撃ちして始末しようというものである。地方軍閥のほうもそれを知っていて、日本軍とまともに戦おうとはしなかった。うかつに戦って兵力が減れば身の破滅である。関東軍や紅軍の矢面に立たされて、頭に来た張学良が蒋介石を拉致監禁したのが西安事件だった。
雑軍はもともと自存自立が目的であり、そのための手段を選ばなかった。日本側から金をもらったり、庇護を受けたりしつつ、必要な場合は南京に忠誠を誓う電報を打った。北支で日本軍に協力した雑軍を「保安隊」とか「皇協軍」と呼んだが、いつ支那側に寝返るか判らない連中だった。
支那の兵隊は全て傭兵であり、烏合の衆の私兵であった。古くから「好人不当兵」と言われる通り、支那兵の組織や質は最低であった。(中略)
さすが抗日の記念館である、国共内戦には全くもって触れていない。
昭和12年9月、第二次国共合作が成立し紅軍は「八路軍」「新四軍」として蒋介石の指揮下に入った。しかし共産軍が中原に出ることは、地主階級である地方軍閥が許さなかった。共産軍は戦力の温存を図るため日本軍とは無理に戦わなかった。ゲリラとして出没していただけである。日本軍も共産軍との戦いは作戦とまではいかず、討伐扱いであった。
日本は昭和20年8月10日、ポツダム宣言受諾を伝え、降伏が確定した。支那人にとっては朗報ではあったが、共通の敵である日本の存在によって辛うじて手を結んできた国民党と共産党には新たな内戦の始まりだった。
8月10日、八路軍総司令の朱徳は日本軍の武装を解除し、共産側に渡させるよう(大反攻)命令を出した。それに対して蒋介石は「怨を以て怨に報いてはならない」との有名な声明を出した。日本軍の力を温存し中共党軍の跳梁に歯止めをかけたい意図であった。とくに北支は国民党軍が進出するまでに時間がかかり、それまでの治安維持を日本軍に代行させる必要があった。
敗戦国日本に対する対応の違いが両党の対立の一要因となった。国府軍への投降・武器引き渡しを約束した日本軍将兵は、国共内戦にまで巻き込まれ、終戦後も戦闘を続けた。なかには日本兵力を増加したところまであった。
昭和21年7月、国府軍優勢で本格的な国共内戦が始まった。山西省では日本への復員を嫌った多くの日本軍将兵が閻錫山軍に参加、四年間も共産軍と戦った。結局、昭和24年10月1日全土を傘下に収めた中共党は中華人民共和国の建国を宣言した。
同年12月10日、蒋介石は台湾に脱出。
◆アジア杯観衆の反日行動、政府が中国に平静な対応を要請
8月4日、日本政府は、サッカー・アジア杯での観衆らの反日行動を受けて、中国に冷静な対応を求めた。写真は、日本対ヨルダン戦で、「歴史を直視し、アジア人民に謝罪せよ。魚釣島を返せ」などと書いた紙を掲げる重慶の観客 (2004年 ロイター/Issei Kato )(ロイター)14時49分更新
(私のコメント)
スポーツの実況中継は放送局などの編集が効かないから、その場の雰囲気が直接視聴者に伝わってくる。普通のニュース記事は記者の意図が含まれているから、記事を真に受けていると真実がわからなくなりますが、スポーツなどの実況中継ではじめて現場の様子がわかる事がある。911テロの後の大リーグ中継やソルトレークのオリンピック中継などはアメリカの愛国心の度を過ぎた様子がよくわかった。
今回の中国からのアジアカップのサッカー中継は、中国における反日感情の激しさを生で知る事が出来た。親中国的な新聞やテレビ局の報道を真に受けているとえらい目にあうだろう。もちろん普段の中国人は反日感情は表には出しませんが、サッカー競技場などでは過激な行動をするものが出てくる。
これらは中国政府の反日教育を受けた中国の若者達が、愛国運動の名の下にスポーツなどの試合で感情が暴走してしまうのだ。それに対して日本の若者達は日本の近代史をほとんど学んでいない。歴史教育といっても大体明治維新あたりで終わってしまい、
日中戦争のことなどほとんど知らない。
日本の歴史教科書についても左翼的な出版社が、反日的な内容の歴史観によって書かれたものがあり、今日の日中間の摩擦の元になっている。中国政府が日本の歴史教科書に激しく抗議してくるのも、自分達が国民に教え込んでいる歴史が出鱈目である事がばれるのがまずいから抗議してくるのだ。韓国にしても同じ事が言える。
日中戦争は国民党軍と共産党軍との国共内戦に、ソ連共産党が日本軍を中国に引きずり込んでソ連への脅威を向けさせないためにソ連共産党が中国共産党に命じて仕掛けさせたものだ。日本軍はその罠にまんまと嵌り中国奥地へ引きずり込まれて国力をいたずらに消耗していった。戦略のわかる日本軍ならば罠だと気付くはずですが、当時の青年将校に分かるはずもなかった。
日本軍が中国へ引きずり込まれたのは軍部の暴走もありますが、近衛文麿などのように共産党のシンパに囲まれた政治家がいて、深みに嵌ってしまった事が日中戦争の原因だ。同時にアメリカとしても蒋介石を援助して日本を日中戦争で国力を消耗させるアメリカの防衛戦略上の理由もあった。場合によっては深みに嵌った日本に対して中国からの撤退を突きつけて開戦する理由付けの意味もあった。
だから日中戦争の実態はソ連と中国とアメリカの仕掛けた罠に日本がはまり込んだのが実態であり、野心的な日本軍が一方的に中国へ攻め込んだのではない。しかし中国の抗日戦争記念館における展示は、日本軍による計画的な侵略行為と宣伝している。しかし日中戦争においては東京裁判でも日本軍の謀略とは証明できなかった。
中国共産党としては日本軍と戦ったのは蒋介石の国民党軍であることを隠すために、抗日戦争記念館を作って誤魔化しているのだ。その証拠に国共内戦のことは全く触れていないらしく、もっぱらありもしない南京大虐殺だのとデマを作り上げてプロパガンダしているのだ。共産党軍はもっぱらゲリラ的な戦争しか出来ず日中戦争では脇役だった。
中国のアジアカップの観客の反日的行動も当時と変わらない挑発行為なのだろう。これに対しては日本も感情的にならずに静観しているのがいいのだ。中国国民が騒げば騒ぐほど恥を世界に晒すだけであり自ら墓穴を掘る行為だ。日本は中国や韓国朝鮮に対しては出来るだけ関わりにならないほうがいい。中国へ進出した企業もいずれ酷い目にあって退散するときが来るだろう。中国・韓国朝鮮はまさに暗黒大陸なのだ。
反日は中国共産党への不満の表れだ