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(回答先: 共産党と吹田事件(さざ波通信より) 投稿者 長壁満子 日時 2004 年 8 月 01 日 09:28:15)
http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/sho_soto/suita.htm
50年目の証言・吹田事件とわたし 〜戦争と平和を考える〜
2002年6月22日 吹田市民会館にて
【金時鐘氏の公演】(メモからおこしたものなので不正確ですが、気分は伝わるのではないかと思います。)
私は勇ましいことをやった記憶がなく、この場で話をするのはおこがましい。吹田事件の時、私は日本に来て3年目で、捕まったら強制送還。それは李承晩政権による処刑、つまり死を意味していた。だから勇ましいことをやったという記憶がない。
私は49年6月に渡日し、故国がもっとも苦難の時に逃げてきたという後ろめたさ、心の責めもあって、すぐに日本共産党に入党した。(時鐘氏は済州島四・三事件の受難者である。)南労党(南朝鮮労働党、つまり南朝鮮の共産党)の実績を買われてすぐに指導する立場となり、51年から一年間、民対の指令で民族学校の再開に取り組んだ。48年の阪神教育闘争で、軍艦と核以外のすべての兵器が動員されたといわれるほど民族学校に対する激しい弾圧があり、私の仕事は中西地区(巽付近)を一軒一軒回って民族学校を再開することだった。
吹田事件と中西地区は格別な因縁がある。「山越え部隊」のしんがりは先頭とならんでもっとも強い部隊受け持たねばならず、先頭に立ったのが指導者の夫徳秀(プ・トクス)で、私たち中西地区がしんがりを受け持った。夫徳秀ほど同志という言葉のに合う人間はいない。
当時私たちにとって、朝鮮民主主義人民共和国は正義以外の何者でもなかった。私は韓国の白色テロを身をもって知っているだけにそうだった。四・三事件では6万人を下らない死者が出た。人口24万の島でだ。家屋の3分の2が焼かれ、舌しがたいほどの無惨な殺され方だった。このような残虐行為を行ったのは日帝時代に甘い汁を吸ってきた親日派で、李承晩政権は親日派を基盤とした政権だった。私たちにとって北朝鮮こそが正義で、それに対して侵略行為を行い、人々を殺しているのが国連軍という名のアメリカ軍で、そのアメリカ軍は日本を基地としていた。
アメリカ軍が一番落としたのがナパーム弾で、親子爆弾というクラスター爆弾の前身となる爆弾もあった。まさに人を殺すための爆弾だ。軍需列車を1時間遅らせると1000人の命が助かる\x{2014}\x{2014}みんなそんな純粋な気持ちで参加した。決死隊といって線路の上に寝て列車を阻止する部隊を募った。「6月25日のルポと激励の詩を書け」と命ぜられて私はいろんな人と話をした。列車がこなくて幸いだったが、私はその時の……(声を詰まらせる)。
私が今ここに詩人としての地位を認められたのは『新潟』という詩を書いたからです。これは越えられない38度線を日本の地図上で越えるという意味の詩ですが、これを書けたのも吹田事件の仲間たちがいたからです。少し朗読したいと思います。
朗読する金時鐘氏。
オモニたちが握ってくれた握り飯がうまくって、調子に乗って二つも食ったのがいけなかったのか、吹田事件といえば下痢の思い出だ。
大阪駅はすごい騒ぎだった。構内でピストルを水平に撃つのを見たし、火炎ビンで火だるまになっている警官も見た。本当に怖ろしかった。私は環状線に乗るのをやめ、地下鉄で天王寺に向かって逃げた。私を含む男性二人と女性一人で地下鉄に乗ったのだが、脱糞していたのは私だけではなく、地下鉄の中で女性を庇うようにして私たちがたち、本当に恥ずかしかった。
当時「三反闘争」といっていたが、反米・反吉田・反李承晩がスローガンだった。吹田事件のように運動は盛り上がったが、在日朝鮮人の間の亀裂を決定的にしたのも朝鮮戦争だった。
当時猫間川(現在の平野川)は真っ黒であぶくが浮いていたのだが、川底をさらって鉄屑で生活する人がたくさんいた。この鉄屑が朝鮮戦争の爆弾に化けるのだ。当時小松製作所は信管のネジなど、親子爆弾の部品を作っていたが、小松製作所は東成・生野の町工場(長屋工場?)に下請けを出していた。祖防(祖国防衛隊)は「同胞を殺す武器になるのだから止めろ」と説得し、工場を実力で潰すこともあった。今でも覚えているが熱で汚れた眼鏡をかけた人でね、「ヤメや、朝鮮人ヤメや!」と叫んでね、今でもあの声は忘れることが出来ない。
いいこともあった。忘れもしない、金日成将軍が、6月28日の正午に吹田事件を讃えて前線の兵士達とともに黙祷することを呼びかけた。私は嬉しかった。工場に潜り込んで「聞いて欲しいことがある」と労働者に呼びかけた。日本人ばかりの大きな工場だったが、そして口下手な私だったが、みんなちゃんと聞いてくれた。
その正義の北朝鮮がどうしてあのような国になってしまったのか。53年の7月に休戦協定となるわけだが、その後粛正が始まった。朴憲永も粛正されたが、私には神様のような人だった。日帝下の活動家が国外に逃げる中、朴憲永はずっと国内にいてね。あと人民抗争歌の作者の林和も粛正された。越北した文化人の多くが、戦後2年の内に消息が知れなくなった。そんな人間を私はいくらでも挙げられる。思えばあのときに、北朝鮮は人民のためではなく特定の人物のための権力になったのだろうか。
1957年にヂンダレ批判というのがあって、その時の仲間で今も文学をやっているのは東京に行った梁石日だが、そのとき私は激しい非難にさらされ、組織から遠ざかった。日本共産党は六全協で方針転換し、在日朝鮮人は総聯へと路線転換するなか、吹田事件は極左冒険主義の批判の下に切り捨てられたが、あのとき参加した私たちには極左とかではなく、自然な感情の高まりとしてそれがあった。
最期にクロポトキンの日記の引用で私の公演を締めくくりたいと思います。クロポトキンはロシアの貴族でありながら無政府主義を掲げ、後半生は外国を転々としながら、ロシア革命後も祖国に受け容れられなかった人物です。
「いいじゃないか。そこには私の至純な歳月があったのだから」
金時鐘氏の公演の後、集会はシンポジウムとなり、そこでも興味深い話し合いが行われたが、ここではスペースの関係で言及しないことにする。ただ印象深かったのは、時鐘氏に「彼ほど同志という言葉の似合う人間はいない」と言わしめた夫徳秀氏だが、シャイな性格で舞台の上に立つのも嫌がる性格なのには驚いた。またその氏が放った数少ない言葉が印象的だった。夫徳秀氏は最近まで吹田事件のことを話すのを拒んできた人物だ。吹田事件の「首魁」として拘束され、完全黙秘を貫いた人物で、そのためになかなか保釈もされなかったほどだ。
「私は口下手で、しゃべるよりもデモばかりしてきたが、デモの先頭に立つのは民族を愛し、国を愛する一心」「火炎ビンなんて関係ない。作ったこともない。吹田事件といえば火炎ビン・竹ヤリなどといわれるが、私はそれで50年間悩んできた」
現在焼鳥屋を営んでおられるという夫徳秀氏の人間像は、純朴そのものだった。
何が彼を朝鮮戦争反対に駆り立てたのか。それが党や組織の論理ではないのだと、夫徳秀氏や金時鐘氏をみて実感した。党や組織は50年の間、吹田事件を闇のなかに葬り去ってきた。日本共産党にしてみれば「徳田球一の極左冒険主義が招いたことで、六全協で誤りは糺された」と言うし、朝鮮総聯にしてみれば「日本人の共産党組織に騙され、日本革命につきあわされた」と言うだろう。しかしそれらはあくまで組織の論理であって、事件に参加した何千人の個々の「朝鮮戦争反対」の情熱を消し去ることが出来るわけではない。実際金時鐘氏・夫徳秀氏や当時この事件に関わったジャーナリストのお話を聞くと、一部では過激な行動があったとはいえ、「極左冒険主義」とレッテルを貼り、歴史から消し去りたい事件だったとも思えない。消し去りたい都合は吹田事件そのものにあるのではなく、党・組織の方にあったとしか思えない。(ただしそれも「表の吹田事件」のことのみを考えればで、「裏の枚方事件」のことなどを思えば、やはり事情は複雑かも知れない。それでもやはり「誤りの糺し方」には疑問を感じざるを得ない。)
そして吹田事件を甦らさねばならない今日的意義は別にある。私は有事法制が対北朝鮮戦争を準備するものだと、多少の主観的な思い入れも含めながら主張している。そして実際、50年回帰して、アメリカと北朝鮮との間で戦争が起こったらどうするのか。仮に明日戦争が起こったとして、今日の日本で、阪大石橋キャンパスに3000人集まることが出来るのか。軍需列車を止めるために何千人規模のデモをすることが出来るのか。
金時鐘氏は言「今まさに、吹田事件が必要だ」と。それは「50年前に還って同じ行動を」と言っているわけではないのだろう。
石橋から吹田まで徒歩で行進する熱意。深夜、列車を運行させるだけの熱意。軍需列車を止めるために線路の上に横になるだけの熱意。3000人個々の抱いていた熱意の集積が吹田事件であるのならば、今必要なのは爆弾の下に眠る人間への想像力であり、それを熱意に転化できるだけの力ではないだろうか。
「軍需列車を1時間遅らせると、1000人の生命が救われる」
この言葉に表される焦燥と希望が吹田事件であり、3000人個々の抱いていた熱意の集積だ。
私たちはこの焦燥と希望を私のものとしなければならない。先人たちの50年前に想いを寄せながら思う。
参考URL
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_nittyoseizishi_50nenbunretuzidai.htm
「50年分裂」時の武装闘争
http://www.jrcl.net/web/framek560.html
五十万人もの脱党者たち
http://www1.ocn.ne.jp/~ryokurin/h-k-2.htm
「夜を賭けて」と金時鐘