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(回答先: 「至純」を踏みにじった「日本共産党よ、まず死者の数を数えよ、彼らを弔え」井上光晴 (本文なし) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 02 日 03:30:07)
これは、昔の教訓ではない。今現在の日本共産党の、「道理と理性」などと言って、あらゆる大衆運動を、あたらずさわらず、無視して叩き潰す、「奴隷装置の礼儀・節度・道徳」「テロも戦争も反対」「権力の横暴の暴力と、武装闘争・抵抗自衛・直接行動を一面的にしか捉えられない」「体制内反体制運動のアリバイ作りのきれいごとのおとなしい平和運動」などの、“今”の“ふぬけ”の共産党の体質の元が、ここにあったとは! 1972年の新日和見主義事件などの比ではないし、1960年安保闘争の腰砕けの元などもこれでわかるし、現在の部落差別問題や障害者問題などの無気力性もすべてここいら辺にあるらしい。詳しくは下記を。特にその中の「伊藤晃 解説―抵抗権と武装権の今日的意味」を一部抜き出します。もちろん、明石書店『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を全部読むのが一番良い。長文で、すみませんが、むずかしく考えることはないと思う。キーワードは、「虐げられた者たちの、権力に向かって思わず拳を握りしめる敵意と憎悪、情熱、「本気」、内なる声、単純素朴な反抗心、の側に徹底して立つ」ということだと思う。
「宮地健一さんのホームページ―共産党問題、社会主義問題を考える」http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm より。
「朝鮮戦争と吹田・枚方事件 戦後史の空白を埋める」 脇田憲一 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/wakitasuita.htm#m0
〔目次〕まえがき
1、朝鮮戦争と日本共産党 第一部吹田・枚方事件、二章吹田事件より
5、吹田争乱
脇田憲一略歴
明石書店『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』内容構成で全目次紹介、購読注文
伊藤晃解説―抵抗権と武装権の今日的意味 (別ファイル)――→★【下記に一部抜粋】
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談
由井誓 『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他
増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』
★『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』抵抗権と武装権の今日的意味 伊藤晃http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/itoakira.htm
(注)これは、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』の巻末にある千葉工業大学教授伊藤晃「解説」↑全文(P.773〜792)です。
★【一部抜粋】↓
(一)
大衆的な運動で戦争に反対し、介入しようとしたのは、近代日本において始めてのことである。なかでも在日朝鮮人活動家の場合、祖国での戦争を食い止めようという目的は明確であった。日本人と朝鮮人との運動の場での共闘、これもこのような規模ではかつてなく、またその後も経験されていない。彼らは党の命令で受動的に行動しただけではない。これをなすべしという内なる声に促されて彼らは運動に加わった。指導方針なるものは彼らによって具体化され、歴史を構成する一要素になる。
(二)
大衆的実力による抵抗闘争・自衛闘争は現実に必要であり、それは広く感じとられていた。自分たちの運動を守るために活動家が武器を握りさえする(それは竹槍であれ石であれ)のはごく自然な感情であった。コミンフォルム批判に対してうなずかせたのは、そうした感情もあろう。こんにちでも多くの当事者が、こうした闘争の当然性を確信をもって語る。問題は、ここに根拠をもつ情熱「本気」、敵に向かって思わず拳を握りしめる敵意と憎悪を、その大衆的な厚みと幅いっぱいに抱擁し、発展させる形態を見出すことだったであろう。このとき共産党の提起した観念の武力革命と矮小な武力闘争の諸形態は適格であったか。むしろ活動家の「本気」は多くがそれらからはみ出したのではないか。
(三)
在日朝鮮人活動家のばあい、武力闘争への呼応はより広く存在した。彼らの「本気」と日本人の「本気」との質の違いがそうさせたのである。しかしその「本気」は共産党との矛盾をもより拡大させることになった。
四八年民族学校弾圧、四九年朝鮮人連盟解散、そして五〇年ころ生活保護・職安手帖取り上げ、不当課税、融資打切りに及ぶ生活圧迫は甚だしいものがある。五一年出入国管理令、五二年外国人登録法は、朝鮮戦争下日本の主権回復を期に日本国籍を一方的に奪った朝鮮人への取締りを主たる目的とする。朝鮮人の大衆的自衛抵抗闘争は文字どおりのものであった。
朝鮮人の戦闘的であるが「単純素朴」な反抗心(この特徴づけは戦前の共産党が暗に持っていたものを引きついでいる)に発する闘争は、一面利用価値は高いが、他面強く警戒すべきものであった。朝鮮人の「本気」(そこには急進主義もたしかにあるが)と、これを共産党が統御しうる統一戦線で枠づけようとする方針とは、その後もしばしば不協和音を生じさせたのであった。
六全協後、共産党も朝鮮人側の朝鮮総も軍事方針下の日本人・朝鮮人共闘を否定的に見て、いわば歴史から抹殺した。朝鮮総連の背後には北の共和国がある。朝鮮人活動家が祖国防衛を叫ぶとき、彼らの心には南北を問わぬ統一朝鮮があったとしても、現実に彼らは北の共和国と一体化して戦争を戦ったのである。彼らのこの情熱は祖国からも否定されたのである。彼らが祖国の現実をどう見るようになったかはさまざまであろうが、いずれにしてもその後、日朝共産党の関係はあっても、民衆運動どうしの提携は微弱になった。
(四)
日本人・朝鮮人活動家の実力的抵抗への自然の発意に、共産党は、党内派閥抗争上の必要から観念の武力革命と矮小な武力闘争を与えて、彼らの行方を失わせた。この共産党に著者が対置するのが、人民が本来持つ抵抗権・武装権の思想である。抵抗権は、枚方・吹田事件などでの裁判闘争で被告・弁護団が主張した憲法上の人民の権利の範囲内にある。それは無罪をかちとるための論証に使われたのである。それはそれで正しいのであるが、著者の言う武装権はさらに積極的な主張である。
著者が主張したいのは、まず大衆的情熱のある局面での表現としての武装の正当性であろう。武装の段階、形態はさまざまであり、もたらされる結果にも幅がある。つまり武装はきわめて豊潤な概念なのだが、問題は現実化した武装せる闘争がそのときの人びとの情熱の表現形態としていかに評価しうるかである。人びとが当然のこととしてあれこれの武器を手にとる、この人民の武装を前衛党なるものあるいは官憲による概念化に閉じこめるのではなく、人民が選択の権利を有する、政治運動上の一般的概念として再生させなければならない。著者がとっている(と私は思うのだが)この立場が当時の運動に現れ、議論されていたら、七〇年前後の一部左翼における軍事の聖化(これに対して権力側は、観念でなく多くの選択肢をもつ現実の暴力に立っていた)という事態は少し違ったものになていたかもしれない。この事件で人びとに武器を握らせたのは実在した情熱である。その武器を軍事行動でなく大衆的示威行動として生かすことで政治的成功を見たのだ、と著者は言う。
さらに、著者はこの立場から、全然無意味であるとされて葬られ、忘れられていた諸運動を再検討し、そこに込められていた人びとの多くの経験、考えを発掘し、分析した。これによって、無意味だったはずの運動は、私たちの運動の将来にとって意味をもつ、深い研究を要するものになった。ここにもう一つ、共産党との対決点がある。
自分の提起した運動のなかで人びとの情熱を分散させ、貶めた共産党は、これらの運動を「なかったこと」にし、顧みる意味もないものとして葬ったとき、人びとの情熱を、その存在そのものを否定することでもう一度貶めたのである。この、いわば「戦後責任」の拒否によって、共産党は、権力によって捕捉されながら黙秘によって党を守った党員たちを実際上見放した。訴追された人びとは「誤謬とされた方針に生命がけで挑み、起訴されたが、権力に対しては今後もみずからの人生をかけて非妥協的に闘わなければならない」(『運動史研究』第四号七二頁、吉野亨)ことになり、多くが共産党の冷淡な視線の下でその闘いを全うした。本書の著者もその一人である。
それは結局、自分をまた権力の正面に押しだしてしまうかもしれない民衆の情熱から遠ざかりたい、ということである。このとき、その情熱を自分のこととしてふり返るにちがいない当事者の活動家たちを武力闘争批判の主体にしてはならなかった。むしろ彼らが自己批判(党批判)の意欲をも失うほど、その内面を打ちのめさなければならなかった。
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…なお、これとあわせて、下記サイトも参考になる。
非暴力をめぐる論争を闇から光りへ 向井孝『暴力論ノート 非暴力直接行動とは何か』読書メモ 津村洋 http://csx.jp/~antiwar/NonviolentDirectAction.html
(『テロにも戦争にも反対』というスローガンが意味する、私たちの主張とはまったく逆さまの『非暴力』がまん延する時代に出すことになった」。非暴力直接行動と大衆的実力闘争)
「autonomous anti-war ―警察権力と社会運動は相容れないと固執する諸個人のためのウェッブサイト―」 http://csx.jp/~antiwar/
向井孝「暴力論ノート 非暴力直接行動とは何か」
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/topics/perforto1.htm
「暴力の哲学」シリーズ・道徳の系譜 酒井 隆史(著) 河出書房新社(2004/05/21)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309243088/qid=1091594583/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7216740-9482637
カスタマーレビュー
〜「暴力はいけません」と言いながら「だから暴力には暴力を」と、より大きな暴力の配備を正当化している(序文より)。ここには私達が社会や日常に対して日々漠然と感じている違和感が集約されている。グローバリズムに踊らされ、慢性的不感症に陥っている知識人が多い中で、この違和感に対して真剣に取り組む酒井氏の姿勢は非常に素晴らしいと思う。
服従は不可能である──戦争に反対するために〜「WPN集会パレード参加者有志、反戦青年救援会有志」noiz http://csx.jp/~antiwar/ObedienceIsImpossible.html
(事なかれピース路線。「市民政府への抵抗」ヘンリー・デイヴィッド・ソロー。このソローの理念はのちに、トルストイ、ガンジー、マーティン・ルーサー・キング、ノーマン・メイラー、クエーカー教徒農園の一団などに強い影響を与えた。)『アナキズム』誌三号(2003年8月)http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/sitemap.htm