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日本のイスラーム世界外交の諸問題 2004年5月29日に東京のアラブ・イスラーム学院で行われた公開シンポジウム「日本とイスラーム(サウジアラビア)の文化対話プログラムでの発表原稿です。
序.
「イスラーム世界とは『イスラーム暦』が通用するところである。」
これはある研究会の席上で、インドネシアを研究領域とする人類学者中村光男先生が小杉泰先生の定義として、発言された定義ですが、後日小杉先生に確認したところ、そのままの形では記した記憶が無い、とのことでした。この定義の「発明」の功は、小杉、中村両先生にあります。この定義の素晴らしさは、イスラーム世界を静的な地理的空間に閉じ込めず、動的な人間の意志の空間に解き放つところにあります。今日はヒジュラ暦1425年ラビーウ・アーヒルの10日です。イスラーム世界は、ここにも広がっているわけです。
今日は、このイスラーム世界と関わる日本外交の歴史を概観した後に、現状の問題点を指摘したいと思います。
1. イスラームの拡大と日本
大乗仏教を北伝仏教、上座部仏教を南伝仏教とも呼びますが、イスラームの東漸を、大陸経由を北伝、海洋経由を南伝と呼ぶなら、イスラームの北伝は朝鮮半島、南伝はフィリピンで止まります。イスラームの武力征服は中央アジアで止まり、中華世界の本土にはイスラームはムスリム商人によって平和的にゆっくりと広まっていきましたが、儒教を国教とした李氏朝鮮(1392-1897)はイスラームを受け入れず、イスラームの北伝は朝鮮半島の手前で阻止されます。またイスラームの南伝も平和裡に伝わり、一時はフィリピンの大半がイスラーム化されるに至っていましたが、東南アジア島嶼部のイスラーム宣教は大航海時代のヨーロッパのキリスト教宣教との競合に破れ、フィリピンではムスリムは少数派に転落しイスラームの南伝はインドネシアで止まりました。種子島に姿を現したのはムスリム商人ではなく、キリスト教の宣教師シャビエルだったのです。
南伝、北伝、両ルートによるイスラームの東漸の停止と時代を同じくし、日本が徳川幕府の鎖国政策を取ることにより、日本とイスラームの出会いは大きく遅れることになりました。それ以前の例外的な出会いの一つが元寇でしたが、1275年に元朝のフビライが日本に派遣した5人の使節の中に2人のムスリムがおり、この2人は時の執権北条時宗の命により、他の3人の使者と共に滝の口で斬首刑され、これが第二次元寇、弘安の益の発端となりました。日本とイスラームとの最初の遭遇は、幸せな出会いと呼べるものではありませんでした。そしてその後の日本とイスラームの本格的な出会いは明治維新を待つことになります。
2. 明治維新から第二次世界大戦敗戦までの日本外交
江戸幕府が最終的に攘夷論を退け開国した背景には、ヨーロッパによるアジアの植民地化の知見に基づく日本の植民地化の危機感がありました。明治政府の至上命題は、いかにして日本のアイデンティティーを護りつつ近代化を果たし独立を維持するかでした。
当時のイスラーム世界は大半がヨーロッパによって植民地化されており、近代化と植民地支配からの解放の問題との取り組みにおいて先んじていました。そこで明治の初期には、政府は不平等条約を改正するために法を西欧化しつつ日本に適合する法制度を作り上げるため、当時イスラーム法とヨーロッパ法の二重法制を採用していたエジプトの混合裁判所の制度を学ぶため、1872年、1886年の2回にわたりエジプトに調査団を送っています。エジプトの独立運動「オラービー革命」とそのイギリスによる弾圧(1982年)に日本は同情的で、農商務大臣谷干城(たてき)はオラービーを流刑地にセイロン島に訪ねています。
また1887年の小松宮彰仁がオスマン・カリフ国に、カリフ・アブドゥル・ハミト2世を表敬訪問し、90年にはその答礼として、カリフから明治帝に対してオスマン・カリフ国最高の勲章贈呈のため海軍少将オスマン・パシャが派遣されました。不幸にして彼の乗船エルトゥールル号は串本沖で遭難しますが、その時の地元住民の献身的な救難活動は後のトルコの親日感情の基礎となりました。
しかし日本はその後の富国強兵政策の成功、急速な近代化により、植民地化されたアジア、イスラーム世界と連体し共に歩む道を採らず、ヨーロッパに倣って植民地獲得競争に参加し帝国主義化する道を選択しました。植民地主義獲得のための帝国主義戦争に他ならなかった日露戦争における日本の勝利が、イスラーム世界各地で、ヨーロッパ帝国主義に対するアジア人の勝利として熱狂的に受け止められたのは歴史の皮肉ですが、日本と直接の外交関係の薄い中東イスラーム世界での近年に至るまでの日本に対する好意的イメージは、この日露戦争の勝利に対する「幻想」、「誤解」によるところが極めて大きかったのも事実です。
日本の帝国主義のイデオロギーは、大東亜共栄圏、アジア主義でしたが、当時のアジア主義者の一部は、ヨーロッパの宗教キリスト教とは異なりイスラームはアジアの宗教であり、連帯のパートナーとなりうる、と考えていました。こうした発想の下に、日本は宣撫工作、回教政策を行いましたが、そこで視野に入っていたのは、主に遠い中東ではなく、中国、東南アジアのムスリムでした。中東との関わりは、日本人最初のムスリムの一人であった山田虎次郎が外務省、日本人最初のマッカ巡礼者山岡光太郎が軍部の配下で諜報活動に従事し、37年に小林哲夫が参謀本部の奨学生日本人として初めて世界最古のイスラーム大学であるエジプトのアズハル大学に留学したことなど極めて限られていた。
中国における回教政策は、回族と漢族を離反させ、回族と連帯して中国を支配しようとのものでしたが、この宣撫工作は完全な失敗に終わりました。
一方で南洋での回教政策・宣撫工作は、中国での失敗に対する反省に基づいて構想されたためか、一定の成功を収めたと評価することができます。日本は蘭領東印度(後のインドネシア)、英領マラヤを征服しますが、インドネシアで皇居に向かって最敬礼させる「宮城遙拝」を強要するような愚行も行いましたが、インドネシアではオランダ統治下で重用されていたヒンドゥー的貴族層に代えてイスラーム勢力、キアイ(イスラーム教師)を重用し、マラヤでもマレー人ムスリムを優遇したからです。
インドネシアのイスラーム勢力は日本統治下でMASYUMI(Majlis Syuro Muslimin Indonesia:インドネシア・ムスリム協議会)に組織化されますが、MASYUMIは新生インドネシア共和国のイスラーム勢力の拠点となります。日本の回教政策・宣撫工作は第二次世界大戦の敗戦により雲散霧消しますが、インドネシアの工作員の中には、ムスリムの独立を真摯に企図していた者もあり、たとえば「皇兵あらたに皇民皇土をつくる」と題したジャワ島のムスリム対策のパンフレットの作成者の一人であったアブドル・ラフマン市来竜夫などは、敗戦後もインドネシアに残り、独立戦争に参加し、1949年1月9日オランダ軍との戦闘で戦死を遂げています。
戦前の日本のイスラーム活動もまた、この回教政策・宣撫工作と密接に関係していました。1931年には日本初のモスクが名古屋に、1935年には神戸、1937年には東京にもモスクが建設されるが、これらのモスク建設にも軍部の肝煎りがあり、東京モスクの建設は黒竜会や玄洋社などの右翼団体の暗躍によるものでした。1938年戦前戦後を通じて日本最大のイスラーム関連団体であるには「大日本回教協会」が創立されたが、非ムスリムの前内閣総理大臣林銑十郎陸軍大将を初代会長に迎えて九段の軍人会館で開会式を行ったことからも明らかなように、戦前の日本とイスラームの関わりの軍国主義的性格を象徴する団体でした。
3. 戦後のイスラーム世界外交の問題
イラク戦争終了後、ブッシュ大統領は、イラクの占領のモデルは敗戦後の日本であると公言しました。そこで我々は、アメリカのイラクを現状を見ることによって逆に現代の日本という国の成り立ちを知ることができます。現在のイラクがCPA(連合軍暫定当局)の名の下に実質的にアメリカの支配下にあるように、敗戦後の日本はGHQ(連合軍総司令部)の名の下に実質的にアメリカの支配下におかれました。そしてイラクでCPAの監視下にアメリカによって作られた傀儡政権によって統治基本法が作られたように、日本でもGHQの監督下でアメリカの押し付けの新しい憲法が発布されました。現在のイラクでアメリカの占領軍が逆らう者を武力で殺害する恐怖政治によってイラク国民の名を騙ってアメリカの意志をイラクに押し付けており、イラクには自由な選択の余地が無いのと同じように、アメリカ軍の占領化にある戦後の日本にも自由な選択の余地はありませんでした。そしてアメリカの占領軍は駐留軍と名を変えて今も日本の行動を監視しています。日本が独立国としてアメリカの意志に逆らう行動が取れるかどうか、イラクの現状が何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。現在の小泉政権のイラク戦争に対する対応もこうした大きな歴史的文脈の中で見ていく必要があるでしょう。
戦前の日本のイスラーム世界外交が、帝国主義的野心と綯交ぜであり独善的自文化中心主義という限界を有していたとは言え、イスラーム世界をアジアの解放のパートナーと位置づける文明論的視座を紛りなりにも有していたのと比較すると、アメリカの支配下にあった敗戦後の日本外交は、経済偏重と文明論の欠如によって特徴付けることができるでしょう。その最も分かり易い例がインドネシアで、世界最大のムスリム国家であるインドネシアは、日本にとっては輸入額で米国、中国、韓国、台湾に次ぐ第5位の貿易相手国、インドネシアにとって日本は輸出入両面で最大の貿易相手国であり、官民共に太いパイプがありますが、そこにイスラームはすっぽりと抜け落ちています。前章で述べた戦前の対インドネシア外交と好対照となっています。
戦後の日本のイスラーム世界外交の中心となったアラブ世界外交も事情はそう変りません。1973年アラブ石油価格機構(OAPEC)加盟10ヵ国が、アメリカなどイスラエルを支援する国々への原油を削減し、パーレル当り価格を大幅に引き上げる石油戦略を発動し、世に言う石油ショックが起きると、日本政府は三木副総理を中東8ヵ国に派遣して原油供給を頼み込みましたが、文明論を欠く外交姿勢は、アラブ外交ならぬアブラ外交とか物乞い外交と揶揄されました。 また1957年に自主開発油田第1号としてサウジアラビアとクウェイトに利権を獲得したアラビア石油(株)が、2000年に日本の拙劣な外交によりサウジアラビアでの利権延長に失敗しましたが、利権延長の終了に当たって、友好国を批判することの少ないサウジアラビアのマスコミが日本政府に対して稀に見る厳しい論評を加えたことは記憶に新しいところです。
とは言え、アメリカの支配下にある日本外交には対米追随以外にそもそも選択の余地がないことを考えれば、石油戦略に基づいた日本のイスラーム世界外交にも一定の評価を与えることは出来るでしょう。石油ショック以降の日本のパレスチナ問題、中東和平に関する取り組みは、1977年以来PLO(パレスチナ解放機構)に駐日事務所の開設を認め、イスラエルの占領政策、パレスチナ人に対する様々な人権蹂躪を非難しており、アメリカとは一線を画して不十分ながらもアラブの大義に一定の理解を示すものとなっています。またイスラーム革命によってアメリカはイランと断行しますが、日本はイランとの良好な関係を維持してきました。今年になって日本政府がアメリカの反対を押し切ってイラン政府との間で中東最大級とも言われるアーザーデガーン油田の開発契約を結んだことも日本のイスラーム世界外交の成果に数えることが出来るでしょう。
河野洋平現衆議院議長が外務大臣当時の2000年に外務省内に「イスラム研究会」を発足させたことは、文明論を欠く戦後のイスラーム世界外交の転機となるかと思われました。しかし極めて遺憾ながら公認の川口外務大臣にはイスラーム世界への理解が欠けており、新しいイスラーム世界外交の誕生の芽は摘まれてしまいました。残念ながらそのことは対イラク戦争に対する対米追随外交として顕れることになりました。
結び.
大義を欠くイラク戦争によって、アメリカこそが世界の平和に対する脅威であることが世界的合意となりつつある現在、イスラーム世界外交こそが、日本が対米追随外交を脱却し世界の真の平和と安定に貢献しうるか否かを問われる試金石となっています。
しかし残念なことに、日本はイスラーム世界とのパートナーシップの建設とは逆の方向に進みつつあるように思えます。日本には板垣先生を初めとし、世界に誇りうる優秀な多くの中東地域研究者がおりますが、対イラク戦争における情報分析で小泉首相が頼ったのは、校内で泥酔し学生を日本刀で指し大学を懲戒免職になった某氏であったことだけでも、識者の眉を顰めさせるに十分でしょう。また日本の外務省には、専門調査員という、研究者に在外公館での実務の中で調査研究を委嘱する他国にない優れた制度があり、臼杵陽(ヨルダン)、酒井啓子(イラク、エジプト)、大野元裕(イラク)、福田安志(オマーン)、保坂修司(サウジアラビア、クウェイト)、松永泰行(イラン)、田中浩一郎(イラン)、飯塚正人(エジプト)などの優秀な地域研究者を輩出していますが、最近ではアラビア語のポストが英語に変る例が増えています。日本の最大の石油供給国アラブ首長国連邦のみならず、アラブの要のエジプトのポストまで英語になっています。これでは、外務省に本当にアラブ世界との相互理解を図る意志のか、疑わざるを得ません。
日本政府にイスラーム世界の理解の必要性を知らしめるために自分たちに何が出来るのか、これまでにも増して真剣に考えねばならない重大な岐路に我々は立たされているのではないかと思います。
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