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長壁さんのキリオさんへのレス投稿:
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/958.html
キリオさん、あなたの示してくれたURLの甘さ(私はここの事例は、多くがそう解釈している表面的なものと解釈しました)には、当然違和感を感じつつ、その他、私への非難に便乗する面々に向けて、言葉がきつくなりました。自分の周囲の幸せからしか世の中を考えられない人々、そんな人々が、米国の請負事業に行き殺されれば、「テロリストは野蛮だ」と声高に糾弾する。自衛隊が水汲み事業に行くと同時に、イラク人を殺していても、この手の人は、なんとも思わないことでしょう。常に侵略者・殺す側に視点があるからです。
私は、今日、某掲示板でも、そうした、ほんとうに、身勝手な、人間の心を見せつけれれて、そうとう、落ち込んでいます。
現実は、イラク人が毎日、「私達多国籍軍」によって、殺されているのですよ。
日本では、戦争前だとか、戦争にならないようにだとか、偉い方々がつぶやいています。私の所属する政党の新聞も、他よりはよほどマシかと思えますが、今ある渦中の戦争がどれほど示しえているかといえば、疑問です。
戦争と国民はかっきりと線引きされているのです。憲法が大事といいますが、今はすでに、憲法を飛び越えて、戦争に参加している自衛隊(日本軍隊)です。
こういう戦争システムのなか、私達は、何を見なければならないか、わたしたちの欺瞞性を直視し、勇気をだして真実を発信していかなければならないことは言うまでもないでしょう。
ゆで蛙という言葉に喚起される人々と、私は闘って生きたいと思っています。日本では、戦争前だとか、戦争にならないようにだとか、偉い方々がつぶやいています。私の所属する政党の新聞も、他よりはよほどマシかと思えますが、今ある渦中の戦争がどれほど示しえているかといえば、疑問です。
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長壁さんの認識においては、
「しんぶん赤旗」について
「私の所属する政党の新聞も、他よりはよほどマシかと思えますが・・・」
というように心の底には赤旗の「記事」とコメント(それ自体客観主義丸出しである)を受け入れる精神的な基盤があることを示唆している。
自衛隊を容認し、天皇制を是認した政党の機関紙なのだが、それが「よりまし」なのか?ブル新でも態度表明しているのは読売・サンケイくらいのもんだ。私には「しんぶn赤旗」はブル新以下だと思う。
なぜなら共産党が自衛隊と天皇制を容認した以上、すべてはこの観点から情勢を基礎づけてゆくことは明らかである。だからこそ、「改正綱領」で基礎付けた民主連合政府(議会主義)路線が、選挙で破産した。
翻ってみれば、「赤旗」とはなんなんだ、と問いたい。
以前学生時代に読んだ共産党の革命戦略と戦術のプロパガンダとしての「赤旗」とは、「しんぶん赤旗」は性格をまるっきり変え、通常の「しんぶん」になっている(ネットで見ているけれど)。長壁さんは「しんぶん赤旗」を無意識に他のブル新と同様に見立てて、「しんぶん」というレベルにおいて「他よりはよほどマシかと思えます」と考えているのである。
少なくともネット上で見るかぎりは、「しんぶん赤旗」は、他のネットに見られる記事内容と、内容的には遜色がない。「しんぶん赤旗」ただただ並列的にその他の項目が並べられているだけで、「社会派」としての「しんぶん」の性格を「バラエティー」的取り扱いをしているだけである。
不思議なことにイラクでもパレスチナでもアフガンでも、「単なるできごと」として記事を掲載している。少々コメントをしているとしても他紙と見比べてもコメントも少ない場合がある。私は物足りなさを感じる。
なぜか?
この「しんぶん赤旗」を通じて共産党がめざすものを感知するからなのだが、しんぶん赤旗がパレスティナ、イラク、アフガンについて、問題を深く掘り下げない。それは意図的なのか、と疑問を抱くが、私の結論ではやはり意図的だとしかいえない。
深く掘り下げると、「しんぶん」と言いながら実はそれが、共産党の革命戦略(内実は議会主義)のためのプロパガンダである、という本質が露呈してしまうのだ。だから「しんぶん赤旗」は共産党の本質を押し隠し、読者に現指導部の不和・志位のブルジョワ的幻想までもばら撒くための機能しか発揮できない。このへんのレベルに「一般党員」が押しとどめられている。事態の把握についてもブル新の読者並みの認識しかないために、イデオロギー闘争すらできない。議会において共産党が自公政権の出す反動的な法案に対して共産党の実力から言ってまったく実現不可能な「政策対置主義」しかできないのとまったく同一の方法で、中東情勢を論議する。
ゆえに「しんぶん赤旗」は一般読者に対してもまた一般党員に対しても不和・志位の路線(ズブズブの議会主義)を貫くための洗脳のための「機関紙」なのだ。
それゆえに長壁さんの所属する「政党」としての「党員」も深化されないままなのだ。
一つ一つの事象について原則論を「対置」する以外のなにものでもない。単なる「対置」のみの議論では、議論の相手の内容を理解するのではなく相手への無用なレッテル張りでさらなる敵愾心を生じるだけである。
(私もクラス討論で安保反対への決起をよびかけたとき同じ限界に陥った。クラス決議もデモへの多くのクラス仲間の結集してくれたのも、私の一方的な「対置主義」に賛同してくれたからではない。それでいて皆「革マル派」の集会とデモに結集したのだ。革マル派執行部の自治会の呼びかけにこたえた形ではあったが、私も含めて革マル派の主張はさっぱりわからなかった。なんとなくわからないうちに革マルとみなされ、活動家であるとみなされ、それがクラス討論やってるんだ、という程度にしかみなされていなかったのだと思う。みなが執行部の呼びかけに賛同したのは単に「安保反対」の一点だけであった。)
それが30年もしていまだに哲学的レベルでも理解できない私の「謎」ではある。その謎とは己自身で克服できない小ブル的な本質(たとえば金銭欲、初恋への幻想、単なる平和願望主義、音楽という幻想への固執その他)である。このような欲望と幻想を自ら断ち切らない限りは革命運動の担い手としてはいつ人を裏切るやとも知れず、失格なのだ。
自分自身を深化できないという悲劇を長壁さんに見てしまう。
それは自分の限界を知れないし、しかも知ろうという実践的な立場に立たない限りは永遠に知れないのである。
自衛隊と天皇制を容認する共産党の「しんぶん赤旗」を「よりまし」と認識する上で自分自身は一個の人間であると思うのなら、私のような過誤を犯さないためには相当の自己変革が必要だと思う。
それとも今の長壁さんのように自己の感性と知性とを絶対化して、自分自身に意見をする人を「私への非難に便乗する面々」「自分の周囲の幸せからしか世の中を考えられない人々、そんな人々」としか捕らえられないレベルに、自分自身をとどめておくのか?
もし留め置くことにためらいがないとすれば、要するに自己変革を媒介として成長した長壁さんではなく、「知識がある」「・・・を知っている(から成長したと認識すること)」だけの、その場しのぎの議論のうまい長壁さんになってしまうのではないか。
誠実な非難(クレーム)に対しては自分への敵対だと思う、これがスターリニストの本質ではなかったのか。それは既成のソ連圏防衛のために構築された戦略だったのであり、この戦略のもとにすべてをなで切り自己の体制内の矛盾を暴力的に風圧し、また帝国主義同様「ソ連防衛」の名のもとに、革命ではなく侵略(これを「革命」と名づけた)で地理的に領土を拡大しただけ。その上で、労働者の解放ではなくスターリン主義防衛のための「平和共存」があったのではないか。このような論理がいつまでも通じるはずはない。スターリン主義の圧制からの解放を求めて人々は立ち上がり、世界史の流れは変わったのである。資本主義以前の暗黒時代へとロシアは逆戻りするという悲劇をともなって。
このような人々(長壁さんはゆで蛙と認識しているところのそれ)を作り上げた一方の対極には何があるのか?この点については次回に回します。