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2004年07月号
特別レポート
読者の信頼失う官庁情報 市民の批判に鈍感な大手新聞経営者 [456]
元朝日新聞編集委員・落合博実 apc@cup.com (2004/08/09 14:45)
私は昨年5月に朝日新聞社を退社するまで社会部記者、社会部デスク、編集委員として過ごした。新聞で半生を過ごした私は、新聞に生き残ってほしいと願っている。こう言わねばならぬほど新聞の危機は深い。手をこまねいて衰退の進行を許せば、多くの読者に見放される時期は遠くないのでないかと危惧している。
新聞は今、読者と権力の両側から批判を受けている。私は読者からの批判に危機感を覚えるが、新聞経営者は権力や企業からの批判に神経を尖らせがちだ。個別配達制度、再販制度が大発行部数を支えており、読者の不満を余り気に留めていないように見える。読者に伝えるべきニュースを新聞がきちんと伝えてきたと胸を張って言えないのはひどく残念なことである。本稿は自省を込めた体験的新聞批判としてお読み頂ければと思う。
■横並び、権力依存
新聞に対する批判は多岐にわたるが、(1)横並びの洪水報道(2)官・権力依存報道―の2つに大別できる。この2点は相互に絡み合っている。
洪水のごとき横並びの大報道は過去から現在まで絶えることなく続いている。ここ数年だけでも、野村サッチー脱税、辻元清美・元衆議院議員の秘書給与詐欺事件、そして今は三菱自動車が欠陥車問題で集中砲火を浴びている。いずれも警察や検察の強制捜査の対象になったケースである。
朝日新聞社会部記者時代、「水に落ちた犬は叩くんだ」とはっきり口にした上司のデスクがいたが、警察や検察の発表やリークに依拠して書いているのだから、という安心感に支えられている。いわゆる「権力依存報道」である。
警察や検察に逮捕されると安易に「犯人」扱いをしてしまう。逮捕されたら裁判を待たずに社会的に葬られてしまうのである。
こうした報道姿勢は人権侵害を引き起こす。松本サリン事件がその代表的な例だし、仙台北陵クリニック事件では仙台弁護士会が昨年11月、朝日、毎日、読売、河北新報の4社に人権侵害にあたる報道があったとして勧告書を送っている。宮城県警に逮捕された容疑者を頭から犯人扱いした記事への警鐘である。「報道被害」という報道関係者には至って不名誉な言葉まで生まれた。
■情報操作明白な三井氏逮捕劇
当局の情報操作に踊らされることもしばしば起きる。
02年4月、大阪地検が大阪高検公安部長の三井環氏を逮捕するという未曾有の事件が起きた。三井氏は検察の調査活動費を使った裏金作りを国会などで実名告発する準備を進めていた矢先だった。しかも最初の逮捕容疑は形式犯の微罪。口封じを狙ったことは明らかだった。
この時、新聞は何を、どう報じたのか。読売新聞は逮捕の日の朝から三井氏宅に張り込んでいた。検察から事前リークを受けていなければできないことだ。読売だけでなく、各紙の紙面は「三井悪徳検事」報道で埋まった。例えば朝日新聞は「三井氏は保有するマンション収益を税務申告していなかった疑いも持たれている」と記事にした。しかし、三井氏が大阪国税局から申告漏れや脱税で摘発受けた事実はない。検察のリークを裏もろくに取らずに記事にした結果である。
警察や検察に限らず官庁側はなかなか利口なのだ。リークしたくてしょうがない情報を夜回りの記者に恩着せがましく教える。記者の方は特ダネだと信じ込んでデカデカと記事にするという図式である。
権力に対するチェックを怠らぬことこそジャーナリズムの原点だと私は自分に言い聞かせてきた。しかし、朝日を含め各社の担当記者は警察や検察の組織的な悪事には見て見ぬふりを決め込んできたし、編集局幹部もそうした記事を嫌う。
■消極的だった警察裏金取材
私は96年以降、警察の組織的な裏金づくりを記事にしてきた。きっかけは愛知県警総務部の裏帳簿を入手したことだった。裏金づくりは国民の税金をくすねる明らかな犯罪行為であり、その裏帳簿は愛知県警の組織犯罪を示す動かぬ証拠だった。私一人の力では物理的に限界があるためチーム編成を急ぐように社会部長にもちかけたが、「他の仕事に人手を取られており、割ける記者がいない」という反応だった。
一人ではどうしても効果的なキャンペーンにまでは展開できず、社内の冷視を浴びながら切歯扼腕の状態が続いた。
最近になって北海道警を皮切りに静岡県警、福岡県警など全国の警察本部で裏金づくりが次々と発覚している。「ようやく」という思いの一方で、このままでは竜頭蛇尾に終わってしまうことを危惧している。頑張っているのは北海道新聞など一部の地方紙に限られる。朝日、読売など全国紙も報道はしているが、「事実報道」の域にとどまり、積極的に疑惑をえぐり出し、厳しく批判する姿勢は乏しい。
静岡県警は不正経理で捻出した裏金を県に返還することにしたと新聞は報じたが、それ以上の批判は加えなかった。ドロボーが盗んだ金を持ち主に返すからと言えば警察は刑事罰を免除するだろうか。もちろん日本の警察はそんなに甘くはない。
法務省が98年、盗聴法案(通信傍受法)を持ち出してきた。警察や検察の捜査当局が電話盗聴を合法的に行えるようにしようというものだ。組織犯罪を効果的に取り締まるためという大義名分だが、悪用された場合、国民が脅威にさらされる危険もあった。
当時の社会部長を説き伏せて99年5月に取材チームを編成した。連日、朝日新聞に関係記事が載った。ところが、警察担当のベテラン記者から編集局幹部に「警察を一生懸命に回っている全国の記者のことも考えろ」と怒りの電話があったという。
人権侵害を引き起こしかねない記事を垂れ流す一方で、本当に伝えなければいけない記事は書きたがらない。
■権力にシンパシー生む記者クラブ制度
こうした報道姿勢をもたらしている元凶として、記者クラブへの批判が多い。当局の発表を垂れ流すだけの「発表ジャーナリズム」批判であり、大新聞とテレビ局が独占してきた閉鎖性に対する批判である。しかし、一番の問題は、当局に対する批判を手控えてしまうことにあると私は指摘したい。
なぜ、そうなるのか。理由は、2つある。
うかつに批判記事を書いて嫌われたくない、ネタを他社に流されたら困る―という恐怖感。もう一つ、長期間の密着取材を続けるうちに当局に強いシンパシーを持つようになりがちだ。警察、検察の権力機関のクラブ記者にその傾向が特に目立ち、警察官や検事の目で世の中を見るようになってしまう記者も少数だがいる。
しかし、記者クラブの存在とクラブ記者の資質を問えば事足れりという話ではない。それだけでは問題を矮小化してしまう。編集局幹部の事なかれ主義により大きな問題があると私は考えている。
朝日新聞では官庁クレジットが入った記事が優遇されがちだった。特に東京地検、警察庁、警視庁など捜査当局ものは発表ネタであろうと大きな扱いになることが多い。編集幹部から見て「安心できる記事」なのだ。
反対に記者が苦心してつかんだ記事、とくに攻撃性の強い記事になると編集局幹部が些末なことにまでチェックを入れてくる。批判記事を書いても上層部が押さえにかかり、もみ消してしまうことさえあった。
私の体験だが、かつて上司の社会部長から「俺の胃が痛くなるような特ダネは禁止」と冗談めかして言われたことがあったが、目は笑っていなかった。
ここ数年、政府は盗聴法、個人情報保護法、有事法制などなど報道の自由に関わる法案を立て続けに出してきた。司法の場でも名誉毀損賠償額の高額判決が目立っている。
新聞はこうした動きに抗して報道の自由をどこまで貫けるのか、甚だ危ういと思う。個人情報保護法ではそれなりのキャンペーンを展開したが、有事法制では有効な反撃がほとんどできなかった。
新聞が対抗力を発揮できない主因は、はっきりしていると思う。読者の支持を失いかけ、影響力に翳りが出ているからだと痛感する。
各新聞社も危機感は持ってはいるが、効果的な改革に踏み切れないでいる。
「報道被害」批判への対応策として各社は、捜査当局に身柄を拘束された人を呼び捨てにせず「容疑者」の呼称をつけるようになった。私に言わせればやらないよりはましかもしれないが、小手先の話であり、読者向けの「反省のポーズ」といったレベルでしかない。
■検証機関は建前か
また朝日新聞は外部の有識者を委員に招いて「紙面審議会」「報道と人権委員会」を設け定期的に会合を開いている。02年12月23日朝刊で「報道と人権委員会」第11回定例会の論議内容と結果を報道している。それによると、「読者・市民の視点から検証する姿勢が大切なことを再確認し、公権力の監視など報道本来の責務を積極的に果たすことが読者の信頼感、共感につながると強調した」とある。
正論ではあるが、これが日々の紙面に具体的に反映されているとは到底いえない。新聞社側の「お説、受けたまわりました」に終わっているのが実情だ。かくあるべし論をどれほど並べたてても意味がないばかりか、こうした「建前」を紙面に掲載することで良心的新聞のポーズを取っているだけだという酷評も聞こえてくる。時間を割いて会合に出てくる各委員にも礼を失するのではないか。
週刊文春の記事が東京地裁で差し止め処分を受けたことを受け、朝日夕刊「素粒子」はニューヨークタイムズがペンタゴン文書をすっぱ抜いたことを引き合いに出して「彼らには志がみなぎっていた。いま、週刊文春の『志』とは何か」となじった。
朝日新聞記者をしていた私は、後輩記者が書いたこのコラムを恥ずかしいと思った。ものの言い方も嫌みだが、そもそも「朝日の記者や編集幹部にNYタイムズに比肩する志はあるのか」と私は反問せねばならない。
■新聞社こそ情報公開を
古巣の朝日に厳しいことを書き連ねたが、朝日だけが問題だということではもちろんない。少数ではあるが、会社上層部と衝突しながら頑張っている後輩記者がいることを知っている。「組織内個人プレー」を多少許容する空気が読売よりも朝日にあったと思うが、残念ながらこうした記者は急速に排除されつつある。
新聞は官庁や企業に情報公開を求めながら自らについては極めて閉鎖的である。経営情報、紙面の作成過程などまず表に出ない。改革の方向について言及する紙数はないが、新聞社は自らの情報公開に真剣に取り組むことから初めてほしいと思う。(元朝日新聞編集委員・落合博実)
http://apc.cup.com/index.html?no=12.9.0.0.456.0.0.0.0.0.