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『創価学会は日蓮を殺す』赤間剛著から
神崎は現職の検事でありながら、1970年に一大社会問題化した創価学会・公明党の言論出版妨害事件の折、政教分離を宣言した池田大作創価学会(当時)の原稿作りに参画。
さらに同年夏には、山崎正友を中心とした共産党・宮本議長宅盗聴事件の後始末を同僚の福島啓充検事(現学会副会長)とともにモミ消した。
また七二年に創価学会は、大石寺正本堂の教義解釈をめぐって日蓮正宗の一つの信徒組織である妙信講と対立し、再び盗聴を実行するが、その盗聴にも神崎が関与していたという。
「自然友の会」というグループがある。神崎をはじめ検事、判事、司法関係者の隠れ創価学会員の集まりだ。年に数回、池田大作と会食するなどして直接情報交換する。「鳳会」は外務省の職員の会だ。もちろん学会員で、その数は二〇〇とも三〇〇ともいわれている。
池田の海外旅行を下支えし、要人との会見などの根回しをする弁護士グループは「カーネーション・グループ」という名称をもっており、公然ないし秘密裡に創価学会や池田のために働いている。
かつて池田は、創価学会を指して、「内部戦艦、外部豪華客船」と形容した。また、「世間がアッといったときが、広宣流布」とも発言している。要するに本当は池田の天下盗りの「先兵」であるにもかかわらず、外面は一般人を装っている。そうした手駒が天下をとったときに一斉に決起するときが、「広宣流布」だといい、これを「総体革命」と名づけている。
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『怪死』乙骨正夫著から
”かつて創価学会は、日蓮正宗の総本山大石寺のある静岡県富士宮市で、昭和五十年代初頭に、大規模墓苑富士桜墓苑を開発しようとした。この際、地元の暴力団山口組系後藤組に、反対運動の鎮圧を要請。後藤組はこれに応じて反対運動の中心者を日本刀で叩き切り、反対運動を潰した。同様に創価学会からの依頼を受けて、同会から造反した山崎正友元学会顧問弁護士が、八一年に富士宮市の百条委員会で学会と市当局との癒着を証言しようとした際、これを暴力的手段によって阻止している。
後藤組長は、八三年三月に、創価学会の池田名誉会長と公明党の竹入義勝委員長に約束の履行を求める内容証明郵便を発送したが、そのなかで、富士桜墓苑反対運動潰しや、百条委員会での山崎氏の証言を阻止したのは、創価学会の代理人として、当時の土橋昌訓公明党富士宮支部長(市議)、稲田圭祐市議、高橋繁元公明党代議士が依頼してきたものであり、自分は刑法に触れてもいいとの信念でこれを遂行したことを明らかにしている。”
”「都政も都議会も創価学会・公明が常にキャステイングボードを握ってきた。予算や人事を楯にやりたい放題です。警視庁も予算のためには学会には遠慮する。しかも、都政担当記者をやっていてわかったのですが、学会・公明のあくどいのは、学会と距離を置いたり、学会がらみの事件をやろうとする警察幹部がいると、徹底して出世の妨害をする。署長や副署長にもさせないのです。逆に学会にとって都合のいい警察官は昇進の応援をする。役人である警察官のもっとも弱いところをつくやり方で、これをずっとやってきたものだから、警察は創価学会がらみの事件には触らないという風潮が出来上がっているのです」
それゆえ、警察は朝木事件の解明に及び腰なのだと内藤氏は指摘する。
「坂本弁護士一家事件と、今回の朝木市議事件の展開、プロセスは本当に酷似している。宗教団体の不正や犯罪を追及していた人物が拉致、死亡という形で被害者になった。しかし、警察はまるで及び腰というかやる気なしで、むしろ真相解明を妨害しているフシさえある。ことに朝木事件では、[怪しいから捜査しない]という感じが露骨にする」
実際、警察・警視庁と創価学会はなれ合ってきた。”
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『創価学会亡国論─最大・最悪の邪教を撃つ』から
■創価学会員による犯罪が多発する理由
丹野 教えの面をだいぶお話しいただきましたので、今度は現象面についてお話しいただきたいと思います。学会員は偏狭な思い込み、世間解(せんけんげ)のなさ、無知によって事件をたくさん起こしていますね。この点はいかがでしょうか。
長嶺 実際創価学会員には、凶悪犯罪が非常に多いんです。元創価学会弁護士の山崎正友さんの本でも、中国地方の教誨師(きょうかいし)が監獄に入っている人を調べたら三十パーセントが創価学会信者だったという報告があります。これは創価学会の対人口比率が、公称数字による対人口比率だと一五パーセントですから、一般の人の二倍の犯罪率です。実際には、創価学会の会員数は公称数字の数分の一といわれていますから、ものすごい犯罪率の高さです。
昭和三十八年の「吉展ちゃん誘拐事件」も犯人は学会員です。しかも、恐ろしいことに子供を殺したうえでお金を脅し取り、そのお金を愛人宅に持って行って創価学会の仏壇に捧げ、感謝の題目を唱えるという凶悪さです。こうしたことが現実に行なわれている根底には、まさに「仏法を広めるためなら何をしてもいいんだ」という考え方があるわけです。
彼らは、自分たちのやっていることが正しいかどうかのチェックができなくなっています。善悪の基準がないところに、自分たちを合理化する手立てだけを教えられていますから、結局は自分たちのやることをすべて正当化するわけです。犯罪を起こして罰や批判を受けても「これは法難である」と言います。批判を受けるのを正当化して、自分たちを殉教者であるとするような教義が教えのなかにあるのが、非常に大きな問題であるわけです。
私も、これだけ犯罪の多い宗教団体がなぜ報道されないのか不思議に思って、あるマスコミの方に聞きました。するとわかったことは、日本には大新聞や、中小の新聞がたくさんあります。新聞社では、朝刊を刷った後は輸転機が遊ぶんですね。そこに、創価学会が聖教新聞の印刷を頼むわけです。そこで輸転機を回せるから、新聞社としては非常に有り難い収入が創価学会から入ってくる。そうすると、創価学会が事件を起こしても、また学会員が犯罪を犯しても、電話一本で「新聞に載せないでくれ」と頼むことができるんですね。そうした抑止力が働いているので、これだけ犯罪がたくさんあるのに新聞等に載らないというわけです。
丹野 九三年の仙台でのゼネコン捜査で、検事が参考人に殴る蹴るの暴行を加えて、逆に告訴された事件がありましたが、その検事は創価大学出身の熱心な学会員でした。そういう意味で、創価学会の会員が起こす事件は本当に多いという感じがいたします。新聞が、犯罪を犯した人の所属する宗教まで報道するのがよいかどうかは、また意見の別れるところだと思います。しかし、創価学会は、ある大手新聞や新聞社系の週刊誌に池田や学会のPR的な企画を載せさせたりしていますね。この裏では、いま言われたようなことがずいぶん影響していると言われていますね。
長嶺 お金を使ってマスコミにアプローチしているんです。事件が起きたらマスコミに電話をして報道を阻止したり、それができない場合には学会員であることを隠させようとしたりする交渉をやっています。ある週刊誌の編集長が、文芸関係に異動していたのが、また編集長に戻ってきたら突然創価学会の人が物を持ってあいさつに来たという話があったり、そうとう頻繁にマスコミ対策がなされています。このへんが、創価学会の問題が一般の国民に正しく伝わりにくい大きな原因です。
こういうことが現実にあるんです。ですから、それを我々自身も知らないということに、実はたいへんな問題があるので、こういう現実をよく知って、そしてこの現実を多くの方に知らせていくことが、非常に大事だと思います。
■目的のためなら手段を選ばない創価学会
坂口 創価学会は、一般のマスコミ操作だけでなく、身内であるはずの創価学会の会員にすら、正しい情報を与えず、実際は裏でものすごくひどいことをやっています。ひと言で言えば、目的のためなら手段を選ばないということです。
例えば、七七年の十一月に静岡県の富士宮市で、富士さくら墓園開発というお墓の分譲のための造成を創価学会が企画していたんですが、地元の反対があって進みませんでした。そこで創価学会は地元の暴力団に頼んで、反対派のリーダーの家に十二トンの大型ブルドーザーを突っ込ませ、ブロック塀を十メートルにわたって突き崩して、玄関を削り取らせました。さらに暴力団員が日本刀を持って家のなかに押し入って、反対派のリーダーに斬リつけて重傷を負わせて逃げたという事件がありました。そのリーダーの方は背中、肩、顔を斬られて、背中の傷は肺まで達する重傷で、数年後に死亡しました。その後、創価学会とその暴力団との間で報酬の支払いの件などでいざこざがあったらしくて、八五年の十一月十二日に、東京信濃町の創価学会本部に、その暴力団が拳銃を撃ち込んでいます。
他にも、共産党の宮本議長宅へ盗聴器をしかけた事件がありました。これは創価学会の仕業であるということが裁判でもはっきりして、仕掛けた人間たちは有罪になりました。その事件に当時関与していたのが、実はその当時は検事だった神崎元郵政大臣です。そういう人が郵政大臣になっているとは、まさしく犯罪者が国政を牛耳ろうとしている徴候であり、このままでは大変なことになると思います。
それと尾行とか嫌がらせ、脅迫、こういうのは日常茶飯事のようにやっています。実は幸福の科学の会員にもそういう嫌がらせがありました。
また、一九九四年の夏の、当会の御生誕祭の日に、創価学会の動きがおかしいので、東京本部に留守番を二人置いていたんですね。そしたら案の定、作業服を着た学会員が東京本部に忍び込もうとしました。その男は数日前から下見に来ていて、学会員であると調べがついており、顔写真も撮っていましたので、盗聴器を仕掛けに来たということが明確にわかりました。
他にも、創価学会が機関紙に偽造写真を掲載して会員を騙したことがあります。
「日蓮正宗の最高位の僧侶、日顕が芸者遊びに興じている」という内容の記事で、日顕が一人で芸者と遊んでいると書かれており、写真もそう見えます。しかし、これが実は偽造写真だと判明したんですね。本当は、夫人同伴の古希の祝いの席の写真だったんです。多くの男女が写真に写っていたのを、ほかの男性を全部消して、いかにも日顕一人が女遊びをしているようにでっち上げたわけです。写真を偽造した上に、
「日顕が欲すは”カネ、酒、色”の堕落道」
「これぞ極めつけ”ワシ、もう成仏しそう”」
といった品性のかけらもないコメントをつけています。こんな卑猥なことをよく自分たちの機関紙で書くものだと思いますね。こんなくだらないことを本当の情報だと称して自分たちの機関紙に流し、学会員は他の情報は聞いてはいけない、読んではいけないとしているわけです。
■人の不幸を「天罰だ」と罵る創価学会は宗教の名に値しない
長嶺 国会でも取り上げましたが、『週刊新潮』によると、九四年七月下旬に、北海道の大滝村で、乗用車に乗っていた日蓮正宗の大橋住職がトラックにぶつけられて亡くなりました。するとわずか数時間後に、札幌でビラが撒かれています。住職の似顔絵に三角頭巾をかぶせて、嘲笑しているんですね。ちょうど大石寺の六万人登山の目前で、その反対キャンペーンを創価学会がやっていたので、そのビラを撒いて「六万人登山を前に、ついに天罰が下りました。お悔み申し上げます。みなさまもお気をつけください」というわけです。まさに脅迫ですね。ビラ配りの犯人は特定されていませんが、まだ関係者さえ事件を知らない時点でそういうビラが用意されているということが疑問です。そして衝突したトラックの運転手は、創価学会の地区幹部です。はたして偶然の一致といえるかどうか、疑われるのは当然ですね。
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「池田大作レイプ事件」
平成8年2月、創価学会の元婦人部大幹部・信平信子さんは「三度にわたって池田大作に強姦された」と告発し、同年6月東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こした。
以下は被害者・信平さんの手記より──
創価学会が、大沼国定公園(北海道)の中に、総面積2万坪という広大な敷地をもつ「大沼研修道場」を作ったのは、昭和46年のこと。
そして、池田大作がここに避暑に来るようになったのは、昭和48年6月からでした。
大沼研修道場の本館での池田の世話は、私が全部やることになっており、それが上からの指示でした。
本館の三階は桧(ひのき)風呂もある池田の専用施設で、関係者以外、たとえ大幹部であっても立ち入ることができません。昭和48年当時は、私以外、誰も三階に昇ることは許されていませんでした。
■1回目の暴行
池田が大沼に初めてやってきた日から三日目、6月27日の夜のことでした。
それから起こる恐怖と屈辱の体験など、察知する由もなく、私は、自分の仕事として、それまでどおり午後9時に、池田の布団を 敷くため三階に上がっていきました。
すると、初日も二日目もその時間には部屋にいなかった池田が、寝室隣の執務室にいて、何か、書きものをしていたのです。ステテコとクレープのシャツ、という姿でした。
私は、「失礼します」といって中に入り、邪魔をしてはいけないという思いから、寝室と執務室の間のふすまを閉めようとしました。ところが、池田は、
「そのままでいいよ」
と言うのです。
私が、池田に背を向ける形でシーツを整えていた時です、池田は、前かがみになった私の背後から、いきなりのしかかってきたのです。アッという間のできごとでした。
池田は、私を押さえつけたまま、肩の方から手を伸ばし、私のブラウスのえりとスリップのひもを一緒に引っ張りました。
夏物の薄いブラウスですから、ひとたまりもありません。ボタンがバラバラとちぎれ落ちました。
スカートもビリビリに破られました。
池田は、「ハッ、ハッ」と荒い息を吐き掛けながら、
「下着は一枚だね」
と言って、私の下着の中に手を入れてきました。
ものすごい力で押さえつけられた上に、恐怖で声も出せないでいる私に、池田は後ろからグッと突いてきたのです。あがき、もがいて、抵抗を続けていた私は、目の前が真っ暗になり、うつぶせになったまま、失神してしまいました。
どれほど時間が経ったでしょうか。気を失った時はうつぶせだったはずなのに、寒さを感じて気がついた時、私は、仰向けで布団の中に寝ていたのです。
私が這(は)ってドアまで行こうとすると、池田はしつこく追いかけてきました。ドアに頭をぶつけ、心臓はドキドキして、ここで殺されるのではないかと、本当にそう思え、大変な恐怖でした。
ようやくドアを開けて、二階にかけ降りると、トイレに飛び込みました。激しい吐き気に襲われ、それはしばらく続きました。
そして、気持ちを鎮め、下腹あたりについている体液を何度も何度も拭きました。皮膚が赤くなっても、なお拭き続けました。
■「体臭のきつい池田」
昭和49年には、池田に呼ばれて二階に行くと、誰もいない部屋でいきなり抱きつかれ、顔を引き寄せて口を押し付けられました。また、「散策に行こう」と言われ、戸外なら大丈夫だろうと思ってついて行くと、本館の裏につれて行かれ、そこでも同じようなことをされたのです。
抵抗し、幸いにもそれ以上のことはありませんでしたが――。
その後も再三にわたって、同じようなことが繰り返されました。
ちなみに、池田は、体臭がものすごくきついのです。とくに夏場だったせいもあるかもしれませんが、ニンニクが腐ったような臭いとでもいうのでしょうか、それが身体中から発散されていて、たまらない感じでした。
■「池田の下半身」
二回目に私が池田から犯されたのは、昭和58年8月19日のことでした。
早朝、私はいつもどおりに一人で、大沼研修道場の敷地内にあるプレハブ建ての喫茶「ロアール」の掃除をしていま した。
大沼の夏は、もやが深く立ち込め、数メートル先も見えなくなります。
入口を背にして、テーブルを拭いていた私に、いきなり池田が後ろから抱きついてきました。
池田は、毛むくじゃらの腕で私をはがいじめにし、脚をかけて、私を押し倒しました。
倒れる瞬間、私はテーブルで左脇のあたりを強く打ちました。また、ブラウスはボロボロに破かれ、スカートも靴下 も無理やり外(はず)されてしまいました。
のしかかってきた池田を押し退けようとするのですが、脚も腰もオモリを付けたように重く、はねのけることなど、 とてもできないのです。
池田は、まるで、狙った獲物に向かって一直線に進む、ケダモノそのものでした。
目的を果たし終えた池田は、外に人の気配を感じたらしく(結局、外には誰もいなかったのですが)、力をゆるめ、 私はようやく解放されました。
このとき、一瞬ではありましたが、私は初めて池田の裸の下半身を見ました。池田の下半身は異常に毛深く、まるで 黒いパンツでもはいているかのようでした。
トレーナーのズボンをずり上げながら逃げる体制の池田は、私の方を振り向き、
「二号さんの顔を見にきたんだよ」
と、下品に顔を崩して笑いました。その笑いは、本当にこの世のものとも思えない不気味さでした。
■最後は平成3年
大沼研修道場で三回目に私が池田から暴行を受けたのは、平成3年8月17日の早朝でした。
朝7時半頃、食料の補充をするために、私は、研修道場の敷地の中を歩いていました。
その朝も、大沼研修道場は深い霧に包まれていました。
敷地の路上を歩いていた私に、突然、池田が左後方から飛びついてきたのです。私は引き倒され、後ろからすごい力で抑え込まれてしまいました。
逃げよう、逃げようとするのですが、全体重でのしかかられた上に、押さえ込まれ、地面には掴まるところもなくて、どうすることもできません。声を出そうにも、「アー」とか「ウー」としか出ないのです。
池田は荒々しく私の衣服をはぎ取り、前の時と同じように「ハッ、ハッ」と息を荒げて、私を犯したのです。衣服はボロボロになりました。
とにかく、その間も逃げることしか考えなかった私は、無我夢中で池田の手を引っかいたり、かみつき、池田の力が一瞬、ゆるんだすきに、私はようやく身体を引き離すことができました。
池田は、また、あの不気味な笑いを見せ、霧の中を逃げていきました。
以来、このできごとを誰れに話すこともできず、どれだけ思い悩み続けてきたことか――。
ようやく私は、意を決して、池田の責任を問うために、池田が私にした行為を提訴いたしました。
池田を法廷に引っ張り出すことが、池田大作という人間の真の姿を、だまされている学会員の皆さん、国民 の皆さんに知っていただくことにもつながる、と思っています。
最後に、池田の習性・性癖を垣い間見た私としては、全国に、私のような被害者が、まだいるはずだ、と 思います。その方達が、真の勇気を持ってくださるよう、期待しております。
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