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(回答先: 11歳女児の鑑定期間延長 家裁佐世保支部(共同) 投稿者 ネオファイト 日時 2004 年 8 月 05 日 20:00:21)
なぜなら冤罪だからだ、と言う話ではありませんで、少女が犯人だったとして精神鑑定は無駄と精神科医が言ってます。
例の佐世保の小学生による殺人事件で、加害者の女児に精神鑑定が行われることになったそうだが、どうもそれを報じるマスコミのいうことがまるで見当外れ。被害者の父親を批判するようなことは言いたくないが、この人は某新聞の記者だったにもかかわらずというか、それゆえにというか、鑑定が真実の解明に役立つことを期待するというような、典型的な勘違いを表明していたりする。
精神鑑定とは、早い話がビョーキかどうかを見極めるだけのものである。事件の真実なんかと、何の関係もないのだ。対象者がある時点で、一人前の責任能力を持っていたかどうか判定(それだってハッキリ判るわけがないのだが)をするだけ。まして刑法上、加害者とされる女児の責任能力が問われないのは初めからわかっているのだから、全く法的に意味のない作業である。これを決定した裁判官は、基本的な法知識がないのではと疑いたくなる。
命令された精神科医のほうは、いい小遣い稼ぎになるから受けるだろうが(たぶん2〜3百万は取るだろうね*)、病的であるか否かということに絞った、分をわきまえた鑑定をする人なのかかなり気になるところ。バラエティに出てきていい加減なことをいうような精神科医に、心の底で嫉妬しているような人だと、くだらん類推を詰め込んだトンデモ鑑定をしてしまうので、ヘタレ裁判官の責任逃れに利用されてしまったりする。
精神医学というのは、精神疾患の診断と治療のためにある技術学問なのであって、人の心の中を興味本位にのぞきこむことの役になど立たないのである。そんな当たり前のことがいい加減にされるのには、そのあたりであいまいな幻想を振りまくことで下らん商売している連中の策謀もあるのだが、そういうのに手もなくダマされるマスコミや、それに影響されるヘタレ法曹関係者の責任も大きい。当たり前の意見のほうが奇異に思われるというのは、ホント、かなわんよ。 (2004/06/14)
*かなり手間のかかる刑事鑑定の場合はこのぐらいのはずだが、この事件でこの相場かどうかは知らない。無責任ですんません。私がやればいくら引き伸ばしても2〜3回の面接と、あとせいぜい身体的な検査ぐらいで誤魔化すことになるだろうから、20万ほど吹っかけるのがやっとですな。
こういう事件があると、私なんかも専門家の1人だと思われるらしく、なにか気の利いたコメントでもあるのではないかと、いろいろ質問されたりするのでかなわない。時事には基本的には触れないといいつつ、こういうことにはまるきり無能なのだということを告白するつもりで、ある程度意見をまとめておきたい。
まず、結構あちこちでいわれるように、子供が殺人やそれに準ずる悪質犯罪を犯すということ自体はそう不思議なことではないと思う。こういうサイトをみると、むしろ最近はまれになってきているとすらいえる。今回の事件では、きっかけがサイト掲示板の書きこみだったということで、ネット社会の歪みだの何だのというところに、話が無理やり持っていかれそうな雰囲気があるが、まず何の関係もないといって間違いないと思う。
私自身、つまらぬメールのやり取りでケンカを仕掛けられたり、逆襲したりの経験も数あるが、あんなもの、腕力を介して渡り合うわけでもなし、たんなる下手な修辞のエスカレートに過ぎないし、現に数日もすれば忘れてしまうようなものだ。大きな掲示板なんかで、ちょっとイカレた荒らしサンが特定され、住所氏名が晒されていたりする事があるが、実際に暴力事件に発展したことなどない。あるわけがない。たかが言葉にすぎぬものに、直接行動を惹き起こす力なんてないのである。
やはり行動そのものを惹き起こすには、人間の生理(心理の間違いにあらず)に働きかけるものがないといけない。それはふつうなら具体的利害であるわけだが、それと同等の脳内過程を生み出すような精神疾患とか、閉ざされた人間関係内のゆがみというようなものも動因となる。なにより、対等な関係性を維持する意図というのは、予想以上に突発的な逸脱行動の原因となりうる。
経済的要素はもちろん、性的な要素すら希薄な前思春期というものは、人間関係というものが異様に単純な格子状配列に還元されるもので、そこでの対称性を維持する努力というのは、成員にとって最優先なのである。かってその小社会を形成していたことのある私たち自身、その事実を覚えている人は少ないのだけれど。
一時ACというキーワードが世にはびこった事があるが、あれも性格特性として貧困化して理解するのでなく、本能的な対称性維持努力として一般的に捉えるべきものだと私は思っている。あんまりスカな親との対称性維持努力を続けているうちに、天秤台がへしゃげてしまったわけ。そういう「と」系理論の開陳はまた別の機会にするとして、私のこういう事件への具体的な方策は至極簡単なものである。要は多様なプラットフォームを用意するというだけのこと。学業とかスポーツだけでは個人差が大きすぎ、そこでの対称性維持はなかなか難しい。ネットなんてなかなかいいと思うんだけれど、ガキどもはむしろ密室的に使っているらしいので、もっと開かれた使い方を指導する必要はあるだろう。
あとはまあ、料理だとか、ゲームとか、株売買とか、あちこちでやられていることは一杯あって、そういう多様性は明らかに今のほうが上なので、それが実際に少年犯罪が減ってきている理由の一端になっているのだと思う。
というわけで、これ自体はたしかに悲しい事件ではあったものの、恐れることなく子供たちの生活価値の多様性を追及していけば(ただ、学校がオモテでやることではダメで、裏ルートの多様性でないとあんまり効果はないと思うが)、そんなにひどいことになるとも思えないというのが、私のはなはだ楽観的な意見である。 (2004/06/06)