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(回答先: 私も冬ソナ疑惑をとりあげたことがありましたが少し高尚なソースすぎました(笑) 投稿者 やました 日時 2004 年 9 月 25 日 18:48:55)
パクリとか何とかウジャウジャ言ってもしょうがないと思います。(^^;→(汗)【創造について】
日本には本歌取りというのもあります。要はというか、大事なのはそれによってどういう新しい世界を構築できたか、それともできなかったかだと考えます。やましたさん言う所の「主体性」にも通じるのかも知れません。
「レトリック字典41頁、野内良三著、国書刊行会」です。小生のGrep管理PC読書ノートです。
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古来、本歌取りの模範とされてきた藤原定家の歌とその本歌を次に揚げよう。
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
〔馬をとめて袖に積もった雪を払おうとしても、この佐野の渡しにはしかるべき物陰がなく、雪が降りつづけ日が暮れるばかりだ〕
苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野の狭野の渡りに家もあらなくに (『万葉集』)
〔あいにく雨が降ってきた。三輪の崎の狭野の渡りには雨宿りする家もないことよ〕
定家が借りたのは言葉の上では「さののわたり」の六文字にしかすぎないが、この一句は本歌の重要な構成要素であり、その全体を呼び起こすのに十分である。したがって状況の設定はほとんど本歌と代わりがない。変わったのは「雨」が「雪」になった点だ。このわずかな違いが実はこの二つの歌の世界を根本的に異なるものとしてしまうのだ。本歌は雨に濡れる煩わしさ、つまり旅の苦しさをかこつ主観的な表白である。それに対して定家の歌は雪に降り込められた馬上の旅人とそれを包み込む、果てしなく拡がる暮れなずむ白銀の世界を喚起する。一幅の大和絵の世界を思わせるしんしんとした美しい情景だ。本歌を取り込むことによって一つの重層的で幽遠な世界が繰り展げられる……。
本歌取りの例はわれわれに一つの反省を迫る。「創造」と呼びならわされた行為は実は伝統との対話ではなかったのか。自由な「引用」ではなかったのか。テクストはあまたのプレテクスト〔前-テクスト=口実〕を織りあげた「引用の織物」(宮川淳)と考えるべきなのではないか。ジュリア・クリステヴァの「相互テクスト性」も別のことを言っているわけではあるまい。「すべてのテクストは引用の寄せ木細工のように〔として〕自己を組み立てる。すべてのテクストは他のテクストの吸収・変形である。」(「語、対話、小説」)「テクストはテクスト間の相互の置換、相互テクスト性である。一つのテクスト空間のなかで、他の諸々のテクストから借用された幾多の言表が交錯し、中和する。」(「テクスト構造化の諸問題」)
議論が少々理屈っぽくなってしまったかもしれないが、別に複雑なことを言っているわけではない。文学を話題にしたので難しそうに聞こえるが、日常的言語行為に置き直して考えてみればすぐに腑に落ちることなのだ。
試みに幼児の言語習得の過程を思い描いてみよう。幼児は母親の言葉を真似る。それは母親の言葉の「引用」である。幼児は母親の言葉を盗んでいるのだと言ってもよい。しかしこの引用は一方的な行為ではないことに注意しなければならない。引用の仕方が悪いと母親のチェックを受ける。引用とそのチェック、この二つのプロセスを繰り返しながら幼児は言語能力を高め、言語を習得してゆく……。
私たちの日常の発話は手垢にまみれた「常套句」からなっている。私たちは他人がすでに使った言葉を引用しながら、自分の思いを表現する。ほとんどの場合はそれで十分に用が足りる。コミュニケーションにトラブルが生じたとき、あるいはコミュニケーションをより豊かに高めようとするとき、相手の反応に応えながら「引用の仕方」に工夫を凝らす。これが恐らくレトリックの萌芽だろう。してみれば引喩はわれわれ人間の言語活動の基本的要請に応える文彩だということになるだろう。