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(回答先: Re: 歴史的な限界があるのは、網野や赤坂のほうでしょう。 投稿者 南青山 日時 2004 年 12 月 03 日 03:28:25)
http://wsb.cc.kindai.ac.jp/ichs-html/home/critical/critical1.html
人文学と科学 T 柄谷行人
−略−
一般的に、二十世紀には、人文科学と自然科学を総合するとか、あるいは文科系と理科系を総合するということがいわれていました。しかし、人文科学と自然科学に、それほどの差があるのだろうか。どちらも「科学」だからです。ところが、人文学は、科学ではないのです。この点に関してふりかえって考えて見ますと、二十世紀の初めに、新カント派のリッケルトという哲学者が「文化科学と自然科学」というふう区別をもたらした。その場合、リッケルトは、科学的認識の対象に応じて、「文化科学」と「自然科学」を分けたのではない。扱う対象が何であれ、或るものから一般的な法則を見出そうする時は自然科学であり、個別的な物、具体的な物に近づこうとすると、それは文化科学である、とみなしたのです。しかし、それらは大きな違いがあるとしても、いずれも「科学」です。しかるに、人文学は文化科学とは根本的に違います。
ヒューマニティーズ(人文学)というと、現在、英米でも、今いったような文化科学一般をさします。しかし、人文学とは本来古典研究です。たとえば、ギリシャ・ローマの古典、あるいは聖書も含めて、古代の古典とされているものを研究するものです。それがヒューマニティーズの中心になってきた。したがって、それは本性上、人間科学と違うし文化科学とも異なります。では、人文学と科学、この二つは、どう違っていて、どう互いに関係するものなのか。それがわかっていないと、二つを「総合する」とかいっても空疎なスローガンにしかなりません。今日、私がこのことについて話そうと思うのは、それがわれわれの研究所の課題だというだけでなく、このことが、近代以後のわれわれの考え方と在り方に深く関係しているからです。
私は、科学というのは、近代に始まった一つの運動だと思っています。たとえばフロイトの精神分析は、彼自身が言うように「運動」です。フロイト自身が組織した運動で、医者に対する教育分析を通して、人脈的にもつながりが続いています。だから、精神分析が運動であることは理解しやすいのですが、科学が運動であることはなかなか理解できない。なぜか。すでにこの運動がすっかり定着してしまって、大学やいたるところで支配的な制度になっているからです。ところが、科学はひとつの新しい運動だったということを想起すべきです。その特徴としてはまず、知識の公開性ということがある。それまでの知識というのは呪術と同じで、人には教えない。自分のところで抱え込んでしまう。それに対して科学は全部を公開する。ある意味で、それはコミュニズムであるともいえます。科学的な知識に関して私有財産が否定されるからです。
つぎに、科学の特徴として、真理を暫定的であるとみなすという態度がある。科学の認識は帰納論理というべきものであって、数少ない経験(単称命題)から一般法則(全称命題)を帰納するわけです。自然法則は全称命題(普遍的命題)なのですが、実は全てのケースをチェックできない。しらみつぶしに調べることなどできない。だから、科学においては、まず先に普遍的命題を立てて、誰かの反証を待つ。反証が来ないかぎり、それを暫定的に真理とみなす。そのような仕方でしか、科学の真理性は保証されないのです。そのことを明確にしたのがポパーです。科学とは反証可能性の形で出された命題である、と。しかし、ポパーはそれが自分独自の考え方で、カントにはなかった、ましてデカルトにはなかったと考えたのですが、それは傲慢というものです。
デカルトはコペルニクス主義者でしたが、ガリレオの裁判に出会ったため、自分の本を出すのをやめて、『方法叙説』を書いたのです。コペルニクスの地動説の根拠は、たんに数学的なものです。経験的に見れば、日が昇り沈むのだから、天動説が正しいに決まっている。だから、デカルトは、この本で、コペルニクスにまったく言及せずに、暗黙に、数学的に妥当するなら、現実にもそれが存在するということを主張しようとしたのです。しかも、彼はそれを仮説と見なしています。彼がいいたいのは、認識を拡張するには、仮説を先に立てることが必要だということです。そのあとに、仮説に基づく実験が可能になる。それによって、その仮説が支持されるか、否定される。デカルトが『方法叙説』に書いたのはそのようなことです。彼はコギトのような主観性によって真理を基礎づけたと見えるし、そのためにデカルトを批判する人が多いけれども、それは違います。そのような人たちは、科学という「運動」の新たな性格を考えたことがないのです。結局、科学がもたらした態度というのは、過去から伝えられた理論は、どんな共同主観的な合意があろうと、信用できないということです。そして、真理性を保証するのは、未来の他者、まだ存在しない他者、だということです。
科学に比べると、人文学の特徴は、真理性の基盤を、過去の「他者」に見出すことにあるといえます。科学においては、古いテクストなど意味がない。しかし、人文学においては、いわば、古いテクストにすべて書き込まれている、と見なされるのです。科学において、過去の人間は未熟な未開の人たちです。しかるに、人文学においては、重要なことはすでに過去の人間によって語られているという態度がとられる。たとえば、キリスト教や儒教には一般的な教義があります。ところが、聖書や論語というテクストには、教義とはちがった、むしろ教義に反するような何かがある。それを読もうとすると、その言語について研究しなければならない。こうして人文学において、言語的研究が中心になるのです。人文学において、古典研究が重視されるのは、真理への鍵が過去の他者にある、と考えられるからです。
科学においては、真理性は未来の人間が反証してくるかどうかに依存する。われわれが真理(普遍的命題)をいうことはできないのです。それと対照的に、人文学においては、テクストの向こうにいる「他者」が真理を握っている。いいかえれば、われわれがテクストの意味を最終的に決められない、ということになるのです。注意しておきたいのは、いわゆる「文化科学」というものがあくまで科学に属するということです。「文学の科学」も同様です。それは発展するものであり、その真理性を未来においています。対象が同じであっても、それと人文学とは態度において異なるのです。
しかし、この二つはまったく対照的な態度であるにもかかわらず、切り離せないものです。そのことは、ヨーロッパにおいて、人文的古典研究と科学的研究とが同じ時期(ルネッサンス)に出ていることからもあきらかです。ついでにいうと、宗教改革は、聖書を原典で読むという古典研究から生まれたのです。しかし、私の考えでは、それらは、他者を、二つの極、過去と未来、死んだ者とまだ生まれていない者、において見いだすことなのです。このような他者は超越的です。それは神のような超越者ということではけっしてなく、われわれが見通せないその意志を勝手に解釈できないような他者であること、いいかえれば、他者の他者性を意味するのです。では、人文学と科学を総合するということは何を意味するでしょうか。それは、それらをつなぎ合わせるということと何の関係もありません。それは、われわれの認識と倫理を、過去と未来の他者のもとにおきなおすということです。
それを、まず、科学に関して考えて見ましょう。私は、科学は運動であるといった。そして、その特徴の一つは、知識の公開性にある、と。コンピュータ・ソフトの世界では、オープンソースというのがありますけれど、科学はもともと、オープンソースの運動だったのです。しかし、現在、科学の現場で起こっていることは、ほとんどその逆になっています。科学者はまず特許権を取ってしまう。要するに科学的認識を私有財産にしてしまう。こういう傾向が、現に非常に強くなっているわけです。また、日本で将来的にノーベル賞受賞者を五十人ぐらい作る、とかいう国家的プランがあるらしいですけれど、こういう情けないことは言ってほしくない。まさにそれは反科学的な態度だからです。科学は国家のためにやるものではない。企業のためにやるものでもない。科学は反資本主義的、反国家主義的であるはずです。
その意味でなら、われわれは科学の現状が国家主義的・資本主義的だからといって、科学を批判すべきではない。むしろ、運動としての科学を回復するようにすべきなのです。たとえば、遺伝子工学に関しても原則的に反対する人たちが多い。しかし、たとえば品種改良の歴史を見ると、昔は遺伝子の理論がなかったにしても、基本的に同じことをやってきたことがわかる。ただし、ゆっくりと長い時間をかけてとやってきた。遺伝子工学が危ないのは、それ自体ではなく、すぐに企業で使おうとして性急にやろうとするからです。長い時間をかけて実験をしない。ただちに、しかも、黙ってやろうとする。生身の人間で実験しようとする。先のことはどうでもいい。資本の利潤のために、そうする。そのように使われたときには、遺伝子工学であれ、何であれ、ひどいものになるに決まっているのです。
しかし、そのことで遺伝子工学、あるいは、科学を否定すべきではない。実際、科学のそのような現状を指摘し適切に批判できるのが、科学者です。したがって、われわれに必要なのはむしろ、科学を運動として取り返すことです。科学の真理性を、国家や資本が指定してくるものではないところに、つまり、未来の他者におかねばならない。差し迫った環境の危機という問題を考えると、われわれは、不在の他者、まだ生まれてもいない他者を犠牲にしてよいのか、という問題を片時も忘れることはできないのです。
それと同時に、われわれに重要なのは、人文学の態度です。もちろん、それは古代の古典の研究だけを意味するのではありません。たとえば、マルクスの『資本論』もまた古典です。今経済学の教科書では、それは、古典派の亜流として二、三ページほどですまされている。たしかに「科学」としてみればそうかもしれない。しかし、そういう読み方だけをしていると、結局、何もわからなくなります。私は物書きになってから三十年以上の間に、物書きや学者の栄枯盛衰を見てきました。日本にも世界にも、「マルクスを乗りこえ、フロイトを乗りこえた」人たちが大勢いました。しかし、今や、そんな連中は名前さえ残っていない。しかるに、マルクスやフロイトは依然として残っているのです。彼らが「古い」のは当たり前です。直接に彼らの知見にもとづいてやっているならば、それはとうてい「科学」にはなりません。しかし、われわれは一方で、いわば人文学的な態度でそれらを読むべきです。つまり、私は、もっと謙虚な態度で、過去の思想家のテクストを読め、といいたいのです。われわれは新しい科学的認識をもっているかもしれないが、これらのテクストには、すでにそのことがある形で予見されているのではないか、と。
そのような人文学の一実践として、私は次のようなことを皆さんにお伝えしたいと思います。国際人文科学研究所では、今日ここに来ている?秀実、浅田彰、岡崎乾二郎、文芸学部の奥泉光、島田雅彦、渡辺直巳ら諸氏が協働して、『必読書150』(太田出版)という本を出しました。たとえば大学に入ると、理科系の学生は一定のシステムを持って勉強しています。それが「科学」だからですね。しかし、文科系、というより、文学部の学生は何をやっていいかわからないままです。漠然と本を読み散らすほかない。今の日本の学生は受験用にまとまったかたちでしかものを読んだことがない。雑然とあるものの中から選んで本を読む、そういう読書の経験がない。その上、これを読むべきだという規範のようなものもなくなっている。だから、漫然と読むといことになると、あまりにもくだらないものを読むようになるわけです。
そこで、そんなものは読んではいけない、これを先ず読みなさい、というために、150冊選んだのが『必読書150』です。帯に「読まなくていい本を抑圧する、反時代的・強制的ブックガイド」と書いてあります。しかし、これは、この本を読めば世界のことがわかるというような本ではない。読めば読むほどわからなくなる、そういう入門書です。取り上げられた本は古典と呼ばれているものです。これらは、ものすごく長い歴史のフィルターを通しているから強い。私は、こういう人文学的教養が、個々人を支えるものになると思います。この本は、文芸学部や、研究所が主催する東京コミュニティ・カレッジでサブテクストとして使われます。最後に、くりかえしますと、国際人文科学研究所の課題とは、人文学と科学の二つを現在において取りもどすことです。しかし、それがたんにわが研究所だけの問題でないことは、いうまでもありません。
(2002年4月新宿紀伊国屋ホール講演)