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(回答先: 他力本願とは 投稿者 愚民党 日時 2004 年 11 月 20 日 03:54:58)
ひさしぶりに心にしみ入る文章を読ませてもらいました、ありがとうございます。
心にしみ行ったのは多分に、じぶんが個人的に抱えている問題に、新たな視点を与えてもらったからだと思います。
いま愚民党さんの文章を印刷して繰り返し読んでいます。
>他力本願についてなんですけんど、
>これって法然か親鸞の仏教思想だと思んですけんど
>けっこう主体が強い言葉であると感じております。
>他力を信じている言葉だと思います。
>だからすごいといいますか、強いと思います。
>他力を信じている人間は忘我ではないんだと思います。
>おのれに引き寄せるのが他力本願ではないかと感じてきました。
>他力本願のエネルギーの渦の中心にはおのれの心があるわけです。
>そこから他人の力を本当に信じ願っている双方向性があるように思います。
この解釈には目を開かせられるものがあります。
そして
>他力本願とは他人の心、他者の心への回路かもしれないと・・・ふと思いました。
とおっしゃる。
他力本願という、実際のところ負のイメージの多い言葉に、積極的な主体から発するエネルギーのほうに注目した解釈は、わたしにとってはひじょうに新鮮でした。
ただ他力本願を、"他者、他人への心への回路”とした場合、残念ながらこの回路の負の要素として、本願する主体が自律的エネルギーを失って他者に支配される(ぶっちゃけて言えば、過剰な気配りとか、ひとの目に縛られる、無意識のうちに他者の求める姿にじぶんを合わすなど)ことも起こりうるのではないかとちらっと思ったりもしました。
最後に「他力本願とは」を読みながら、無意識のうちに思い出した、故福永武彦氏のエッセイ『愛の試み』の終章の文章を引用させてもらいます。「他力本願とは」からのじぶん勝手な連想です。手入力ゆえタイプミスがあるかもしれません。
(『愛の試み』福永武彦/新潮文庫版より 141ページ)
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「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたりとも得ず。」
僕は「雅歌」のこの言葉を好む。これは人間の持つ根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」----そこに自己の孤独を豊かにするための試み、愛の試みがある。その試みが「尋ねたりとも得ず」という結果に終わったとしても、試みたという事実、愛の中に自己を投企したという事実は、必ずや孤独を靭くするだろう。それは徒らに自己の傷の癒されるのを待っている孤独ではない。孤独のほうが愛に向かって、愛を求めて、迸り出て行こうとする、そうした精神の一種の行為なのだ。愛が失敗に終わっても、失なわれた愛を嘆く前に、まず孤独を充実させて、傷は傷として自己の力で治そうとする、そうした力強い意志に貫かれてこそ、人間が運命を切り抜けて行くことも可能なのだ。従って愛を試みるということは、運命によって彼の孤独が試みられていることに対する、人間の反抗に他ならないだろう。
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他者にむかって迸り出て行こうとする自己(福永氏は孤独という言葉を使っている)。
この部分にある共通点を感じました。