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(回答先: 『まれびと』について 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2004 年 8 月 22 日 02:32:14)
ODAウォッチャーズさん こんにちは
Webの方でコメントしたのですが、送信に失敗してしまいましたので阿修羅でレスします。
すいませんが、Webの書き込みはゴミなので削除していただければ幸いです。
柳田や折口については膨大な論考があり、解明されていない点が多々ありますのが、それらを
トレースする意図も能力が無いことを前提にしてコメントさせていただきます。
とは言うものの(苦笑)最初に私の考えを述べさせて戴くと柳田の「海上への道」や折口の
「マレビト」あるいは「民俗学」そのものが実証的に演繹されたものではなく「理論的仮称」
であろうと思います。事実柳田は考古学者と仲が悪かった(笑)。柳田や渋沢敬一と異なり
折口は曲がりなりにもアカデミズムの側にいたわけですが、その範疇にはとても収まってはいない。
ですから発生学的に始源を問うこと自体についての意味についてはいささか疑念がありますが
とりあえず保留いたします。
>この「まれ」は、「まろ(貴族が自己を呼ぶ名称)」に通じると、誰かが言っていたとも思う。
>これも、折口氏か。「まろ」とは、「稀」が「貴」に通じる結果である。
>しかし、そのような抽象的な概念から、言葉が生まれるだろうか。
「客人=まろうど」説もありますが、例えば網野善彦が例に挙げていますが中国地方の方言で
「がいな奴」という言葉があります。なんとなく意味が通じますが(タフガイのガイを思い浮かべ
るかもしれません)網野氏は「がい=雅意」であることを論証しています。つまり日本語において
音声(言語)が漢字という「概念」で分節されているということで、網野氏は「一般に方言と思わ
れている言葉の中に同様の例は多数ある」と書いています。
>私は、「まれびと」とは、「まれ」の「ひと」、「まれ」から来た「ひと」、「まれ」或いは
>「まろ」と自分で名乗った人、という意味が転じた者と考えているが、如何だろうか。
>つまり、「マレー半島から来た」人と言う意味である。
揚げ足を取るつもりはありませんがマレーは英語読み?で「マラユ」ではないでしょうか?
卑近な例ですが2004年の現在で全く言葉の通じない「他者」に対して自分を指差してどう表現
するかというと「ニッポン、ジャパン、ヤパーン」でしょうか?イラク人質事件でも「ヤパン
ムバイ」と言われた様ですが、ロシアでの「ヤパンスキー」と通じるものがありますね。
つまり個人が近代国民国家に分節され、そこに所属していることがアイデンティティに
なっていることが前提で、「表現者」が自分の帰属をどう考えていたという問題。
もう一つは相手がどう受け止めるか、固有名は元々翻訳不可能ですが、大げさに言えば受け止める側
が、どの様な世界概念を持っていたか、自分自身を何者かと考えていたかと事になります。
自分を指差して「マラユ」と呼んだ場合、その人の固有名か「ひと」「おとこ」といった一般的な
概念として理解されるのではないか、むしろ「マラユ」と言いながら方角を指差す方が自然な気が
しますが、その場合も「海の方」「南」「遥か遠く」と受け止められるのではないかと思います。
>約2000年前に、或いは、1500年前に、日本列島とマレー半島との間に交易や交流があったと考える
>ことは、奇抜なことではないだろう。
御意。ただし「漂着民=まれびと」はマレーに限らないと思います。コーカソイド系の漂着民が
「異形の人=鬼」とされたという論考もありましたね。
長くなったので端折りますが、「海上への道」を始めとする「南方論」は稲作起源論ともつながり
ますが、日本における最強の「マレビト=ヨソモノ」はヨリシロとしての天皇ではないかと思います。