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(回答先: 色々と、、「凄い」ですね、、(^_^;) 投稿者 オニオン 日時 2004 年 8 月 17 日 16:51:26)
オニオンさん、どうもです。
【オニオンさん】
「 要するに経済学も含めて、科学全般は(抽象、具体を問わず)物事の相関(相互影響関係?)の説明体系ということなのではないでしょうか。そして哲学は物事の関係性について考える事と捕らえれば哲学は科学の土台といえます。
ここで説明体系をきずくには知識の断片的な詰め込みではなく、まず自分の中に物事の有機的な繋がりを想像(認識)し次に言語によって体系化する必要がありますね。
ついでなぜ言語によって体系化しなければならないかといえば、人間は一人では生きる事も或いは存在する事すらもままならないモノであるからといえます。だから認識を人と共有して協力し合って生きていくしかない。そしてこの事は科学、哲学の「目的意識」が他者関係的活動のためだもいえるんですかね。
(件のご投稿にて目的意識を科学、哲学の上位概念とおかれていたのも謎だったのですが、こういう解釈はありでしょうか?)」
まず、事象の動的状態を体系的に知ろうとする行為には、必ず目的意識が先行しています。
目的意識がなければ、世界を「意味」的に分節することもできませんから、事象の相互関係的変化も掴めず、概念による説明体系を築くことはできません。
科学者は「世界」の運動法則をつかみ人々とそれを共有したいといった目的意識を持っているでしょうし、哲学者も、存在や人の本質を解き明かし人々とそれを共有したいといった目的意識があるはずです。
思考成果を他者と共有することを求めない人は“瞑想者”です。
どういう目的意識を持っているかによって、世界の見え方が変わり、事象の解釈や説明内容も変わります。
現実的には切り分けができないため的確な表現が見つからないのですが、人にとっての世界(自分を含む森羅万象)は、「感性世界」と「観念世界」に区分することができます。
(「感性的世界」そのものが“受け身”で形成されるものではなく、「観念世界」によってある程度の規定を受けているものという意味で切り分けができないと考えています)
以前書いたように「主観−客観」という区分はできないという立場ですから、人(自分)と無関係な世界は存在するとしても意味はなく、ともに“主観”によって形成される「感性世界」と「観念世界」のみが意味を持ちます。
「観念世界」は、「感性世界」を言語的概念で意味付けしたものと考えればわかりやすいと思います。(「感性世界」→「観念世界」が基本の流れです)
人は、他者との関係活動を通じて「感性世界」を言語で意味付けすることを修得します。
その過程で、感性的存在(感覚で分別できる対象)の“名”を知り、そのような“名”を付けられた存在の特性(説明)存在を感覚的特徴と対比しながら徐々に知っていきます。
そして、それぞれの“名”を付与された事象の相互連関性も徐々に知るようになります。
言語修得は、たんに言語を習得する過程ではなく、「感性世界」の充実化過程でもあるわけです。
これまで共通の“名”を付けられていた存在が、複数の“名”で区分されるようになったり、新しい概念名称で呼ばれるようになることもあります。
これが「感性世界」の充実化であり、世界をより細かく分節しながら連関性を付与していく過程です。
「主語−述語」(○○は××である:○○と△△は◇◇の関係にある)という言語的意味で分節化されるとともに結び付けられた「感性世界」が「観念世界」の基礎です。(「主語−述語」は論理の基本でもあります)
「意味」を持つ「世界」を頭のなかに築くためには言語の修得が不可欠ですから、他者との関係性は、生れ落ちた人が人になるために不可欠なものです。
親子関係で始まることが多いこのような関係的活動そのものが、「世界」を他者とできるだけ共有しようという歴史的で共時的な共同体的活動のコアです。
世界の分節化は、共同体の生存様式によって変わります。
言語の違いは本質的な問題ではなく、ある対象をどのように分節しているかが問題です。たとえば、日本では“出世魚”のように同じ魚が成長過程の違いに応じて別の“名”で呼ばれますが、魚とあまり関わりがない共同体はそのような分節化をしません。
逆に、日本は、牛(雌牛・雄牛)や牛肉と名付けているように家畜に関する分節化はそれほどされていません。(牛に性別や肉という一般概念をつなげる複合名称である特性や状態の“名”にしています)
英語圏では、「〔雌牛〕cow〔雄牛〕bull〔労役用の去勢雄牛〕ox〔子を産んだことのない若い雌牛〕heifer 〔子牛〕calf〔総称〕cattle」とそれぞれが個別名で細かく分節化されています。(牛肉も、beefと単独で“名”が付けられています)
「感性世界」は感覚的に分別できるできる対象(存在)が意味的に分節化されたものですが、宗教や思想に代表されるように、感覚的には分別できない概念にも“名”が付けられ、その意味が語られます。
神・富・利潤・自由・平等・人権・平和などと名付けられた「存在」はどこにいっても見えないもので、説明(述語)からイメージすることになります
それらは、突き詰めると人々や人々と外的世界の関係性の状態(述語)に“名”を付けたものと言えます。
感性的対象に“名”が付けられる説明(述語)がされるだけではなく、述語に“名”が付けられると、概念が感性的存在と同じように“実体”化され、概念の一人歩きが始まります。(自由・平等・人権・平和をひたすら叫ぶようになることをイメージすればわかりやすい)
こういう抽象名称は、常に述語(説明)で確認する態度をもたないと、空虚な言説になったり、スローガンの連呼になってしまいます。
感覚的対象の“名”ではなく、述語(長い説明)を簡略にするために便宜的に名付けた抽象概念の取り扱いは慎重でなければなりません。
わかりやすいのは、事象の変化を抽象した“時間”という概念が実際に存在するかのように理解されていることです。
“時間”は、自己の思考を含めてあらゆる存在が運動(変化)しているという共有認識が支えになっているもので、物理的に存在しているわけではありません。
ある関係性や状態の“名”でしかない自由・平等・人権・平和を叫ぶ人は、“時間”が物理的に存在していると考えている人と似ているわけです。
“時間”とは何か?を考えなければならないように、自由・平等・人権・平和といった抽象概念も、それは具体的にどういう関係性や状態なのかを突き詰める必要があります。
なにか意味不明な内容になりましたが、概念を言葉として覚えているだけではあまり役に立たないし、あるときには抽象概念を生み出したひとの思惑に絡めとられてドツボにはまるというのが趣旨です(笑)
【オニオンさん】
「つまるところあっしらさんの阿修羅での活動の「目的意識」の大本は「面白おかしく生きていきたい」ということでしたよね(そのための他者関係活動であり、さらにそのためのより良い社会であり、さらにさらにそのための経済認識の公開など)。
ではこの目的意識のさらに大本、というよりも基盤となる「面白おかしく生きていきたい」という欲求はどこから来るのでしょうか?」
「面白おかしく生きていきたい」という欲求は、これまで生きてきたなかで醸成された価値観から出るものだと思っています。
あれこれ投稿しているのは、もっと「面白おかしく生きていける」はずなのにそれを阻害しているものがあると思っているからです。
幸か不幸か、放蕩や贅沢三昧では「面白おかしく生きている」という充足感が得られないからでしょう。
【オニオンさん】
「ここで興味深く思うのは「世界を丸取り」から「ひとり一人が自分の「世界」を持つことに意味がある」と目的(むしろ人生観?)がスライドしている事ですね。あっしらさんのプライベートに関することなので申し訳ないのですが、どういった経緯で「世界を丸取り」したいと思うようになり、さらになぜそれが変化したのかを教えてはもらえないでしょうか。」
発端は、戦争で殺されたり必死に働いても生活に窮している人がいる世界に対する疑念です。
そういう世界を変えるためには、現在の支配者と違う価値観を持つ人たちが世界を支配する必要があると考えたので、「世界を丸取り」することを目的にしました。
「世界を丸取り」から「ひとり一人が自分の「世界」を持つことに意味がある」というふうに変わったのは、「面白おかしく生きていく」阻害要因が支配−被支配関係だと考えるようになったからです。