★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用10 > 451.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
『フランクル回想録 20世紀を生きて』 V.E.フランクル
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/451.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 16 日 12:13:43:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: こんな風に問わなきゃいけないんでしょうか? 投稿者 小林あきら 日時 2004 年 8 月 16 日 08:34:34)

小林あきらさん レスありがとうございます。 (V)o\o(V)です。
せっかく「深窓の令嬢」さんからいただいたロゴ?ですがなかなか使う機会が
ありませんでした。小林あきらさんの問いに答えることは出来ませんが、たぶん
既読ではないかとおもいますが、フランクルについて若干紹介してレスに代えさせ
て戴きます。


http://www.kobunkan.com/book_review_017.html

夜と霧 V・E・フランクル著 池田香代子訳
  (みすず書房・1,500円)

不思議な読後感がある。ナチスの収容所における非人間的な扱い、残酷さは、読んでいて辛い。
だが、悲劇を描きながらも、透き通ったような文章には、明るさや、さわやかささえ感じさせてくれる。

「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。では、この
人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明
した存在だ。しかし、同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」
この本は、ナチスの残酷さを告発する目的ではなくて、被収容者の心理分析に主眼を置いて書かれた。

「この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの』彼女は
このとおりにわたしに言った」
収容所では、時には即席の演芸会のようなものが開かれたという。歌を歌い、詩を吟じ、ギャグを言い、
いっとき何かを忘れる。演芸会に行くことの引き替えにスープにありつけなくなる人もいた。人間は空腹
をいやすパンよりも、心を満たす音楽や知識を必要とすることもある。作者は、人間はどんな境遇に
おかれても、意味のある人生を作り出すことができると肯定する。どこか救いを感じるのは、そのためだろう。

そして、作者の希望を支え続けたのが妻への愛だった。
「妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここ
にいようがいまいが、その微笑は、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした」

「思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない
状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことに
より、満たされることができるのだ」
人間は地獄のような収容所にいても、かくも愛を信じることができるのか。かくも、人生を肯定的に
とらえることができるのか。人間とは何か、と考えてしまう。心がすさんでいる若者に、この本を贈りたい。

ジャーナリスト・枡田勲

------------------------------------------


『フランクル回想録 20世紀を生きて』 V.E.フランクル

解放された後、私は再びウィーンに帰ってきた。何度も繰り返し同じ質間を聞かされた。
「ウィーンては、あなたもご家族も、あまりひどいことはされなかったのですか」。
父は、テレージエンシュタットの収容所で死んでいったではないか。母はアウシュヴィッツ
でガス室に送られ、弟もアウシュヴィッツで死に、私の最初の妻も二十五歳でベルゲン−
ベルゼンで死んだのだ。しかし私は、反対にこう問い返すことにした。「誰が私にどんな
ひどいことをしたというんですか」。ウィーンには、あるカトリックの男爵夫人のように、
命がけで私のいとこを何年も自宅に匿ってくれた人がいたし、またある社会主義者の弁護士
は、ほんの表面的な知り合いでしかなかったのに、私から何も受け取らずに、可能な時は
いつも、ひそかに私に食べ物を持ってきてくれたのである(それは、後の副首相ブルーノ・
ピッターマンである)。だから、ウィーンに背を向けるどんな理由があろうか。

"共同責任"について
  
"共同責任"ということを言う人は、その人自身誤りを犯しているのである。私は、事あ
るごとに、共同責任に反対の立場をとってきた。強制収容所のことを書いた私の本−その
英語訳は合衆国だけで九百万部以上読まれている−その中で、私は次のような話を紹介した。
「私が解放されるまでいた最後の収容所の所長は、ナチ親衛隊員だった。しかし収容所か
らの解放後、それまで収容所の医師(彼自身も囚人だった)しか知らなかった事実が明らか
になった。すなわち、所長は自分の財布からかなりの金額を出して、近くの市場町の薬局で
囚人のための薬を買いに行かせていたのだった。
この話には、後日談がある。解放された後、ユダヤの囚人たちがこのナチ親衛隊員をアメ
リカ軍から匿い、その指揮官に対し、このナチ親衛隊員に指一本触れないという条件でなけ
れば、彼を決して引き渡さないと宣言したのである。これに対して、アメリカ軍の指揮官は
将校の名誉にかけてそれを誓約した。そこでユダヤの囚人たちは、このかつての収容所指揮
官を彼の前に引き出すことにしたのである。アメリカ軍の指揮官はこの親衛隊員を再び収容
所の黄任者に任命した。そして、彼は私たちのために、周辺の村々から食べ物や衣服を調達
する仕事を組織したのである。」
一九四六年、私がしたように、共同責任に反対したり、ましてやナチスのために肩入れす
るのは、あまり受けのいい行動ではなかった。しょっちゅう、いろいろな組織団体からお目
玉を食らった。当時私は、ヒットラー青年団の勲章をもっていた同じ専門の同僚を家にかく
まっていた。彼から聞いた話では、国家警察に追われており、捕まると「人民裁判」にかけ
られ、無罪か死刑判決のどちらかしかないのだと言う。このようにして私は彼を当局の追跡
から守った。
一度私は−それは一九四六年のことだった−フランス占領軍の司令官だった将軍のい
る前で共同責任に反対したことがある。それはフランス占領地区でおこなわれた講演会の席
上でのことであった。次の日、かつてナチ親衛隊員であった大学教授が私を訪ねて来て、目
に涙を浮かべながら、よりにもよってなぜこの私が、公の場で共同責任に反対するというよ
うな勇気を奮い起こす気持になったのかと聞いた。「あなたならできません」私は答えた。
「あなたが口を開けば、自分の立場を守ることになるでしょう。しかし私はかつての囚人一
一九一〇四番です。だからこそ私には、それができるし、またそれをせねばならないのです。
そういう私の言うことならば人も信じるでしょう。これはまさに義務なのです」。

 次へ  前へ

雑談専用10掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。