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参照スレ
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/353.html
ジャック・どんどんさん バルタンです。
>人間が、「観念の虜になりやすい」、というのは自覚しておいた方がよいことですね。
>「愛」「平和」「民主主義」「自由」「神」・・・・などのように、抽象語句はプロパガンダとして
>有効だし。
たとえば日本人(と括ってしまいますが)「自然」が好きですよね。日本人は古来から自然と調和
して生きてきたとか。ジャック・どんどんさんも網野善彦はお読みになっていると思うのですが
網野氏が『歴史を考えるヒント』という本で「自然」という言葉について考察しています。
中世の古文書の例を挙げると「自然上野佐渡守恣之儀雝申之」(自然、上野佐渡守ほしいままの儀
之を申すといえども)の「自然」は「万が一」の意であり「万が一上野佐渡守が勝手なことをいって
も」と解釈するようです。つまり自然=人力で左右できないこと、万が一の という事になります。
英語のnatureに当たる言葉は自然(じねん)=おのずから になります。つまりジャック・どんどん
さんが挙げられた概念は明治初期においてインド=ヨーロッパ語圏の概念の「翻訳」として成立した
と言えます。自然は意のままにならない、ある意味で無慈悲なものとして畏怖する心性が本来なのでは
ないか、夢枕獏がよく書いていますが「明かり一つない深い森の夜の闇の恐ろしさ」ですね。
「自然」を詠嘆する抒情は近代=文学において構成されたものではないか、「自由」とか「社会」も
そうですが、そうした概念を移し変える言葉=概念自体が日本になかったわけです。
こうした例をあげるといとまがありませんが、一つを挙げると柳田国男(吉本隆明)の「常民」
がありますが、網野氏は「日本語にはない」と断言しています。ではどこにあるのか、敢えて挙げれば
朝鮮語になる。つまりcommon people(普通の人々)の翻訳として引っ張ってきた。元々の日本語の
古文書を見ても用例がないわけです。しかし網野氏は本来非農耕民も含めた「普通の人」のはずが
「柳田国男は農耕民に特化する形で使用しているのではないか」と言っています。
これは私の勘ぐり過ぎかもしれませんがヘーゲルの『法の哲学』を想起するわけです。つまり
市民社会は「欲望の体系」で有象無象が蠢いている、そんなものはせいぜい悟性国家の基礎にしか
ならない、人倫の基礎が「家族」なら理性国家の道徳的背骨は「農村共同体」だということです。
もちろん柳田が『遠野物語』を恣意的に編集した、中身を改ざんしたとかいうことではありません。
そうした「視点」=近代において見出されたものではないかということです。
なにが言いたいのかというと、日本において哲学を語る時のどうしようもない滑稽さ、すわりの悪さ
です。つまり、非西欧的世界というか日本において、そういう概念がある事件性を持って「導入」
された事が忘却されている、自明の如く振り回している概念の根拠が極めて怪しいものだということ
に対して多少なりとも後ろめたさが無い言説というのはだめなんじゃないか、いうことです。
姜尚中(カン・サンジュン)氏と宮代信司氏の対談で姜さんが「ヘーゲルは5年やりました」とか
ポロっと言ってるわけですが、「岩波文庫」なんか読むわけが無い、ドイツ語でしょう、全部。
ナンボのもんじゃいと開き直るわけでも、へへっーと平伏するわけでもないけど、下手にタメ口を
きくと自分が恥を掻くことになる。(笑)
イチローの6打席連続安打みたいなもので凄さは素直に認めなくてはいけない、しかし、だから
といって「馬鹿馬鹿しくて草野球なんかやってられない」という話でもないわけですし。
姜さんはいい人だから、きっと「精神現象学って、どうよ」って聞けば教えてくれそうですが。
>オルダス・ハックスリーは、晩年は精神変容物質(LSDなど)を自分で試して、精神科医ウェス
>ト博士と共同研究などをして、かなりやばいことをしてたらしいことを、この阿修羅でしりました。
『すばらしい新世界』でもソーマ?とかいう薬が出てきますね。
またデカルトの話になるんですが、中学校とか高校の授業で「我思う故に我あり」ってやりますよね。
啓蒙主義の元祖とか言って。でも私は「アホらしい」とバカにしていたわけです。生意気な嫌なガキ
だったというのもありますが夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読んでいて「『この疑う私は疑い得ない』
って、その私が夢の中にいない、覚醒している保障はどこにあるんだ」と思っていました。
映画「カリガリ博士」とか「未来世紀ブラジル」の影響も大きいですね。つまり人には「夢と判って
いても覚めたくない夢」がある、あるいは夢の中で「これは夢だ」と判っていても「面白そうだから、
このまま覚めずにおこう」と傍観している自我も夢の中にいる。辻褄の合わない滅茶苦茶な話なんだけど
部分的?に、ものすごくリアルで現実以上に「現実的」なわけです。
昔科学雑誌かなにかで読んだのですが睡眠中の眼球の動きとかモニターすると実際に夢を
見ている時間は非常に短いという話がありました、『一炊の夢』とか言いますよね、粥が炊ける
間に一生の夢をみるとか。ですから夢というのは時系列的に順方向で構成されるのではなく
目覚める瞬間に(夢の中の)過去に向かって一気に構成されるんじゃないか、「木更津キャッツアイ」
でガーッと過去に向かって猛スピードで巻き戻されるような。(笑)
つまり「かくかくしかじかの夢を見た」という話もかなり怪しくなる。なにか不純物の小片を核に
結晶が成長するように覚醒している間も夢が成長というか補強されているのではないか...とか
かなり危ない事を考えていたわけです、十代のころに。
ですから狂気(分裂症)とか幻覚とか幻想とか全部否定的な話になるんですが、実は患者さんは現実
以上に現実的な世界に生きているんじゃないか、それが地獄の様な世界としてもです。
当時やっぱり自分が非常に希薄な現実感で「現実」を生きているという諦念がありましたからね。だから
ハックスリーを読んだ時にですね「クスリでラリるれろになって少ないリソースでみんなハッピーに
なれるなら、それも良いじゃん」とか思ったわけです。
もちろん、こういう話は「顔の見えるリアルなコミュニュケーション」では絶対しませんでした。(笑)
政治思想のいかんを問わず公序良俗=道徳=倫理と考えている人はまず受け付けませんからね。
たぶんハックスリー、W.ライヒ、PK.ディックとか鶴見俊輔の様な「狂った人」には判る、通じる
んじゃないかと思っています。(苦笑)
>アナーキストついでに、戦争板の階級闘争のところで、ロシアのマフノ運動のことがありました
>けど、アナーキズムの農民運動が、最後にはレーニン、トロツキーらによって鎮圧・挫折させられた
>ということですが、バルタン星人さんは、個人的にどうとらえていらっしゃいますか?
狭い意味ではヴォーリンの「知られざる革命」以上の知識はありません。(古本屋でも時々見かけますね)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kronstadt2.htm
そもそもソビエト(労農評議会)自体ボルシェビキが作ったものじゃなく自然発生的に組織されたもの
です。それをいわばクーデター的に横取りしたわけですね。なんでそんな無理を通したかと言えば
「弱い環」であるロシアを食い破れば雪崩的にヨーロッパに革命が拡大すると(少なくともドイツ)
思っていた。しかしそうならなかった。レーニンは物凄いリアリストだから「さぁ、祭りは終わった、
共産主義はソヴィエト権力+電力だ」と言うわけです。しかし実際はブルジョワの居ない所でブルジョワ
革命=産業資本主義の原始的蓄積をやらなければならない。結局農民層から収奪するしか元手がないわけ
ですが、それを暴力的に短期間でやればガタガタになるのは当たり前です。
戦前の日本の「アナ・ボル論争」もそうなんですがアナアキストはボルシェビキと論争すると必ず
負ける。(笑)ボルシェビキは尤もらしい「設計図」を出すわけです。こういう風に「プロレタリア独裁で
国家を操縦して社会主義をやっていつかは共産主義になる」とか。つまり「未来のために今を耐え忍べ」
というガンバリズムですね。アナアキストは「今、ここ」なんです。今ここで実現できないものは未来
永劫あるわけがないだろうという考えですね。つまり来世に解決を委ねるのは「宗教」だろうという批判
的立場です。しかし現実に権力が弾圧する、他国が反革命干渉(ノモンハン事件、シベリア出兵とか)を
仕掛けてくる、「そんなヌルい事言ってて革命が守れるのか」とか言われると弱いわけですね。
鶴見が批判しているようにアナアキストは「美学」に逃げちゃうから。
つまり人は判り易い正義、合理性に殺到する、身も蓋も無く言えば「真理を掴んで勝ち馬に乗りたい」
わけです。つまり疾風怒濤の時代、毎日が非日常になると多少辻褄が合わなくても理念にしがみ付く、
今日理念、理想を嘲笑しているニヒリストが明日は目を血走らせて「正義」を説く、過去の歴史を見れば
屍累々です。「オレはそんなアホじゃない」とか言い切れない、そういう状況で如何にして「正気」で
いられるか、鶴見俊輔的に言えば「正義」に対して「悪」を貫けるかということではないかと思って
います。
>愚民党さんが、鶴見の「寄生獣」論をかなり気に入ってるらしいのですが、最近演劇の方で
>おいそがしいのでしょうか。
岩谷均じゃなくて岩明均でしたね。岩谷均というのは別の人でした。