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(回答先: 第五章 解き明かされる明治維新の裏(新潮社) 投稿者 エンセン 日時 2004 年 8 月 04 日 05:12:49)
日本のプロレスを作ったフリーメーソン
戦後、進駐軍関係者のフリーメーソンは荒廃した日本で、慈善事業にのりだします。
敗戦国にとって一番必要なのは、なによりも病院でした。そんなわけで、聖路加国際病院の一部を借り受け、メーソンの特別病床を設けたのです。
しかし周りを見渡せば、戦争の爪痕は累々と残っており、孤児、障害者、救うべき対象はいくらでもいます。
それらを救うには、在日アメリカ人の寄付だけでは足りず、事業資金を増やさないことにはどうにもなりません。
そこで、目をつけたのが、慈善事業のイベントです。
それではプロレスはどうか、ということになりました。当時、アメリカ本国では音楽コンサートと並んで、慈善資金集めの方法としてはプロレスも一般的だったので、なんとか日本でもできないだろうかと考えたわけです。
まだ日本人プロレスラーのいない時代です。本国にいるアメリカ人レスラーたちに呼び掛けました。アメリカ人レスラーの多くがフリーメーソンのメンバーなのですが、彼らはその呼びかけに応じ、巨体を揺さぶって、ぞくぞくと太平洋を渡ってきたのです。
「我々は、恵まれた身体を神から授かった者、障害者を支援するのは、神へのささやかな恩返しです」
代表の挨拶です。
1951年、9月30日。日本のシュライナーズクラブ(フリーメーソンでなければ入会できない団体)が中心になって、障害者のためのチャリティー・プロレスが開催されました。
特設リングはメモリアルホール(旧両国国技館)に設けられました。
レスラーもアメリカ人なら、観客もまた米軍とその家族、館内はアメリカ一色です。
その時、観客席の片隅に毛色の変わった男がいました。それが、元力士、力道山です。
米軍関係者に連れられてきた力道山は端の方で小さくなって見学していましたが、一目でプロレスに興味を持ちます。
試合が成功のうちに終わり、その夜、シュラインのメンバーはレスラーの慰労会を兼ねたパーティを開きました。
世界王者、ボビー・ブランズが発言します。
「娯楽のない日本に、レスリングはうってつけだが、日本で興業をやるには、やはり日本人のレスラーが必要だ」
日本人プロレスラーを発掘したい。ブランズの意見を取り入れ、メーソンが協力を約束します。
さっそく、スカウトの開始です。
目指すターゲットは角界と柔道界。力道山を呼び出した場所は、銀座にある「銀馬車」でした。
10日後の10月15日。
はやくも、フリーメーソンが所有する敷地に、特設リングを張り、ブランズは力道山に1回目の手ほどきを行ないます。
そのときの力道山の肩書きは明治座の野球部長です。一緒に参加したのは、柔道出身の遠藤幸吉と坂部康行でした。
10日後の10月25日。アメリカ人レスラーは、両国国技館に力道山、遠藤幸吉など、数名の日本人格闘家を集め本格的に練習を開始します。
「力道山の難は、足が細いことだな。それ以外はなかなか器用なところがある。育てればある程度ものになるかもしれん」
ブレンズは熱心に指導しました。
しかし、力道山の動きは相撲の域を脱せず、手足をバタバタさせるだけで、いくら目の肥えていない日本人といえども、金をとって観せるまでにはいたりません。
問題はスムーズな身体の動きです。それには、どうしても相当数の試合をこなす必要があることを痛感します。
しかも、彼の出身は北朝鮮。それが発覚した場合、はたして日本人にどう受け入れられるのかも不安材料でした。
そこで、アメリカ巡業はどうだろうか、と考えました。戦勝国アメリカのレスラーを空手チョップでなぎ倒した、という伝説を作れば、日本人はおおいに納得するのではないか。
『本場で、大人気をはくした力道山』
そのふれこみで凱旋すれば、北朝鮮だろうが、どこだろうが国籍は霧散する、そういう読みでした。
GHQの法務部にいたフランク・スコリノス弁護士が中心になり、力道山をアメリカに送り出すために動きはじめました。
戦後の日本。自由に渡米もできない時代です。まして力道山は北朝鮮籍で、普通なら不可能に近いことですが、動いているのは日本を統治しているGHQです。
あっという間にことが運びます。発案から3ヵ月後の2月2日、目黒雅叙園で、力道山のプロレスラー転向発表と、渡米壮行会が盛大に開催されたのです。
もちろんすべてのお膳立ては、メーソンたちでした。
翌2月3日、渡米。
アメリカのプロレスラーと、現地のメーソンの世話になりながら、順調に修行と実績を積んでゆく力道山。
そして帰国。
暗い世相は娯楽と英雄を求めます。ちょうどTVの普及期。いろいろな要素が重なって、想像以上に、日本人はプロレスに反応したのです。
あっという間に、スターダムにのし上った力道山。
使ったのはたった2つの技でした。空手チョップと岩石落し。これでKO。今考えると、随分稚拙な演技だったのですが、国民は充分熱狂しました。時代のエネルギーと幸運が折り重なったのでしょう、だれにも予想のつかない爆発的な人気が集中したのです。
ところが、メーソンの間では力道山の評判はいっきに凋落しました。
理由は、彼の態度が豹変したからです。
俺はもはや英雄だとばかりに、世話になったフリーメーソン、GHQ、そしてスコリノス弁護士、彼らに恩義を感じることなく、慈善事業への呼び掛けを無視したのです。
「それ相応の金を積めばね」
そう言って、背を向けました。言われた方は耳を疑いました。別にスポーツ選手の鑑になってくれ、と頼んでいるのではなく、ただチャリティーに出て欲しいとお願いしただけなのです。
傲慢で身勝手。フリーメーソンはその時点で彼に対して興味を失い、匙を投げたのです。
一方、力道山人気は留まるところを知りません。そして、間違いなく1つの時代を築くスーパースターの地位を確立します。
しかし、同時に、人格的欠陥を露呈します。些細なことで怒り狂って弟子を殴る。しまいには、素人にまで暴力をふるう。それは手の付けられないほどでした。
当時付き人をやっていたアントニオ猪木がその自伝(新潮社刊)で、力道山の理不尽な暴力を取り上げていますが、とにかく尋常ではなかった。
挙句の果てに、街のヤクザに刺され非業の死をとげるのですが、相手が素人ではなかったために、いろいろな憶測が流れました。
単なる喧嘩だという人もいるし、プロレス興行でヤクザと揉めたからだ、という説もあります。
また、CIAや米軍が背後にいるという話を耳にしたこともありますが、いずれにしても、己を過信した力道山はいくつものミスを犯していたような気がします。
フリーメーソンが、力道山と縁を切ってからというもの、日本のプロレスとの接点はありません。
唯一、覆面レスラー、デストロイヤーがメンバーだったため、彼がときどきロッジを訪れたくらいです。
彼については、おもしろいエピソードがあります。デストロイヤーはシュラキュース大学出のインテリですが、東京のロッジ内で彼の白い覆面を取る、取らない、とやりあったことがあるそうです。
しかしデストロイヤーは、これを取ったらデストロイヤーでなくなる、自分はこれで食べているのだ、と理解を求め、とうとう儀式の最後までマスク姿で押し通したということです。
プロスポーツとの深い絆
なぜプロスポーツ選手にフリーメーソンが多いのかといいますと、前にも書きましたが、自分の優れた身体は、努力してそうなったというよりも、神に授かったものだという考えが根本にあるからだと思います。
自分の代わりに弱者に生まれついた人々がいる。その人たちに収入の一部を還元する。こうして慈善事業に目覚めるわけです。
メーソンに、サイ・ヤングという大リーグ野球選手がいました。
アメリカ人ならだれでも知っている、大投手です。
511勝、75完封試合という前人未到の業績を達成し、その驚異的な偉業を称え、最優秀投手に与える賞にその名を冠しました。
サイ・ヤング賞と呼ばれていますが、近年では、ランディー・ジョンソンが4年連続受賞しました。
メーソンメンバーで、スポーツプレイヤーの名前を挙げるときりがありませんが、だれでも知っているのは、ゴルフのアーノルド・パーマーでしょう。彼は、自ら33階級のフリーメーソンであることを公にしており、ロッジはペンシルバニアのbQ75に所属しています。