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Re: とりあえず<後編>らしきもの? 
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 03 日 04:57:18:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: とりあえず<前編>? ソシュールについて >ジャックどんどんさん 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 27 日 21:48:00)

とりあえず後編?ですが、あっさりしないわりには中身がないことについてお詫びします。

>鶴見俊輔が、記憶に残る本の一冊として、オルダス・ハックスリーの「幾夏を過ぎて
>(アフター・メニー・サマーズ」をあげています。
混ぜっ返すようですが、鶴見が最近?「世界観が変わるくらいの衝撃を受けた」本が岩谷均の
「寄生獣」(講談社コミックス)。ハックスリーは、いわずもがなの『すばらしい新世界』や
『知覚の扉』は読みましたが『幾夏を過ぎて』というのは知りませんでした。
ヴァン・ヴォークトの『非(ナル)Aの世界』で「一般意味論」と少しかすったかもしれませんが
「レンズマン」や「ローダン」シリーズと平行して読んだのでサッパリ判りませんでした。

>ハックスリーが、プロパガンダに有効な一般意味論について、その重要性を指摘してまして、
>コージブスキーの「一般意味論」を第一に挙げていますが
肝心な話を早く言えと怒られそうですが『科学と正気』は読んでいません。すいません。
S.Iハヤカワの『一般意味論』ではないですよね。
これだけだとあんまりなんで、鶴見の本から引用します。

------------------------------------引用はじめ
■鶴見
そのときのクワインの評価はコージブスキーはだめだ。ハヤカワにはおもしろいところがある。
コージブスキーはポーランドの伯爵で、はったりが多い。これも知ってる、あれも知ってる、
という。自分は非アリストテレス的論理学を開発した、意味を真と偽に分けるんじゃなく、あい
まい領域があって……と、それをガマの油売りみたいにワーツといいつのるんです。数学科から
上がってきた人間にとっては堪えがたいんですよ。
だけどハヤカワは数学ができない。かれが取り組んでるのは英語の使い方なんです。カナダ生
まれの日本語を知らない日系人で、自分がぶつかったさまざまな偏見を材料にしてるから、クワ
インにとってはいちいち納得がいく。クワインはハーヴァードの教員組合の書記をしてたんです。
すくなくとも当時は、杜会主義に共感をもっていた。そういう価値観から見ると、ハヤカワのい
うことは理にかなってるし妥当なんです。現在のアメリカにおける英語の使われ方を日常の例で
きちんとおさえて、その批判をしてますからね。
ハヤカワは本を出す前に、タイプライターで打ったものを有料で配布していて、それをテキス
トに使った。のちに『ランゲイジ・イン・アクション』となって、日本では大久保忠利(国語学
者.言語心理学者)が訳して『行動におげる言語』という題で岩波書店から出した。その最初のも
のです。
■塩沢
  『一般意味論』というのはその本のことなんですか。
■鶴見
そうです。それはC.W.モリスが主張している、またタルスキーがいっている意味論とはち
がうんです。クワインにいわれて読んだのはタルスキーの『真理の概念』です。短いんですが決
定的な論文ですね。クワインはタルスキーをたかく買っていた。
------------------------------------引用おわり

鶴見の本から引くとモリスは記号論のフレームを作ったわけですが
1)形式論理学、記号論理学(記号と記号の関係の形式化=つながり論)
2)意味論(記号と対象の関係)
3)プラグマティツクス(記号の使用=おこない論)
の三つに区分した上で統合したのがモリスの記号論、鶴見はカルナップと対面で記号論理学をやって
いたのですが、原子命題を組み合わせて分子命題と積み上げて行く、徹底的に形式化(鶴見は定式化と
言っていますが)して論理演算(証明)みたいなことを延々とやるわけでしょう。鶴見は「これでは
創造的なことはできない」と引いてしまうのですが、確かにあまり人間が生きてる気配がしない。
(ポパーが「反証可能性」を唱えてカルナップと論争するのはその後の話ですが)
ソシュールの話に少し戻すと、構造主義もそうですがヨーロッパの哲学はとりあえずドーンと世界像
を提示するわけです。一種のロマン主義であるというのは判っていても私はそういうの弱いんですね。
(というか記号論理学とかの教養がまるでないということですが)
カルナップのやった形式化というのはヨーロッパ形而上哲学の伝統からは完全に切れている。
システム論はスタティックな「閉じた系」を前提
にして白黒つけようという話ですから。数学的に精緻になればなるほどなにか嘘っぽくなる。
こういう切り口は陳腐で自分でも嫌になるんですがヨーロッパの「建築への意志」(柄谷行人)は
サグラダ・ファミリアみたいな天を突く伽藍だけど、アメリカだとユニットをカチッ、カチッと水平に
連結していくイメージですかね。

なにせ『科学と正気』を読んでいないのでぐぐってみた知識ぐらいしかないのですが鶴見の言う様に
「非アリストテレス的思考」ってことはプラトンまで戻らなければならないわけで、大掛かりに
なりすぎて辛いものがあります。私的にはアリストテレスというとハイデガーの『存在と時間』なので
コージブスキーの1000ページ近い大著を読むことは恐らく無いと思います。
コージブスキーの言っていることは「意味論」というよりプラグマそのものの様な気がしますが
(あくまでも「気がする」です)とりあえず「形式化」の問題として考えてみるとデカルトだと
「我思う故に我あり」とか引用して安心したり反発したりするわけですが、デカルトは数学者なん
ですね。幾何学は全部座標に置き換えられる、紙や地面の上に書いた「不正確」で下手糞な三角形の
絵という具象から解放される、と考えたわけです。「形式化」ですよね。
大きさや広がりの無い「点」、幅の無い「線」という観念は経験的な日常的な思惟から絶対に演繹
できない、とすればどこから来たのか。デカルトの我(コギト)というのはそこに関わる話だと思って
います。「非ユークリッド幾何学で数学は完全に人間の知覚(自然)に依存しない自律的な形式体系
になった」(柄谷行人『形式化の諸問題』)わけで、これは経験論や批判的常識学の構えでは容易に
批判できないと思います。
ですからコージブスキーが「観念」に取り付かれるというのはパラドクサ=人間の原謬なんだから、
「病気」は直らない、直そうとすると余計おかしくなる、「病気」とうまく付き合っていこうという話
であるならば全然オッケーです。
しかし形式化も形式化に反対する言説も必ず自己言及性のパラドクスにはまりますね。
「内省」としては良いのですが、他人に「固定観念は捨てろ、レッテル貼りはやめろ」とか言い出す
と非常に迷惑な話になる。つまり「お前は固定観念にはまって人にレッテルを貼るバカな奴だ」と言って
いるのと同義ですから、批判したはずのメタレベルに立つことになる。自己言及性というのは「そういう
お前は何なんだ!」ということでもあるわけです。

鶴見が書いていましたが「日本人は学術用語を立てる時に、定義抜きに茶碗、コップという概念を使う。
しかし、とりあえず背の高いものをコップ、低いものを茶碗とよぶとその場で定義するのが大事なんだ」
とか。でも良く考えるとそもそも「高い、低い」ってどこで決まっているんだ、絶対値か直径との比率
か、直径が300mmだったらバケツだろうとか、結局定義って共同主観じゃないのかという話になりますね。
こういう話は反証可能性を持った「他者」を導入しない限り「内省」では突破できないんじゃないか、
そもそも「とりあえずっていつまでだ」というのに対してポパーは「卓袱台をひっくり返す奴が出るま
でだ」と言っているわけですし。

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