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サッカーの時代がやってきた【BUND_WebSite記事】
http://www.bund.org/culture/20040805-1.htm
金満巨人が日本野球を潰した
日本プロ野球界ではパリーグの消滅、1リーグ制への再編成が急速に叫ばれている。 金満巨人の選手狩りで観客ばなれがおきているのだ。サッカーは全世界で最も愛されているスポーツ。これからはサッカーの時代だ。
ジーコ・ジャパンの変貌 「自由」と「規律」のバランス
佐久間芳雄
サッカー日本代表の流れが変わった。7月24日の対タイ戦にあっては、前半1―1で終了した後半開始から、ジーコ監督はアントラーズに所属する小笠原と本山を投入。フォーメーションを3―5―2から4―4―2に変更、引いて守るタイに対して両サイドバックの2枚をも攻撃参加させ、後半3点を追加してタイの引き分け狙いを突き放した。これで日本代表はアジア杯の決勝トーナメント進出を決めたわけだが、新生ジーコ・ジャパンならではの展開に、サッカー・ファンならずとも、チーム論・組織論をめぐる興味が尽きないものがある。
サッカーの世界にあっても結果こそが物を言う。ジーコ・ジャパンの流れが変わったのは6月9日、ワールドカップアジア予選の対インド戦からだ。7―0で日本が圧勝し、最近声高に言われたジーコ批判は沈黙することになった。
それにしても、7―0のスコアを誰が予想しえただろうか? 6月9日の埼玉スタジアム、前半12分に勝利への扉をこじ開けたのは、前任者のトルシエ監督ならとうてい使わないだろう、寡黙なだけの久保だった。続けて25分、福西が普段Jリーグの試合で見せているトリッキーなプレーでゴール前に飛び出し、2度目のゴールネットを揺らせた。前半の早い時間帯でボランチの選手がトップに躍り出るなどという、意外性のあるプレーはジーコ監督だからこそ許容されたというべきだろう。そして前半29分、同じくトルシエ時代には「フィジカルの問題」で不遇だった中村が、フリーキックを鮮やかに決めた。
インド代表は、日本が2―1で苦戦したシンガポールに1―0で勝っているように、特別に弱いチームではない。日本代表が強かったのだ。この日のジーコ・ジャパンは、それまでの対シンガポール戦、対オマーン戦の日本代表とは明らかに違うチームに変わっていた。あたかもジーコイズムが全面開花したかのように見えるが、実のところはジーコ流サッカーの修正につぐ修正でやっと勝ち得たチーム作りの勝利だった。
ジーコ監督のサッカーは、前任者のトルシエとは明確に異なっている。トルシエ前監督が組織の「規律」を最大限尊重したのに対し、ジーコは逆に個人の「自由」を最も重視する。ジーコ新監督は前任者が採用した3―5―2システムを、ブラジル流サッカーの基本である4―4―2へ変更し、海外組を中心にレギュラーを固定した。細かい組織戦術ではなく、個人の自主性を尊重して「自由なサッカー」を標榜したのだ。
こうして出来たジーコ・ジャパンはW杯アジア1次予選で対オマーン戦、対シンガポール戦を戦ったが、格下相手に苦戦を強いられ、このままでは予選突破は困難と見られる状況に陥っていた。相も変らぬ決定力不足、そして何よりも選手一人ひとりのプレーに、戦う気概が感じられなかった。サポーターの怒りが爆発し、ジーコ監督の解任要求が噴出したのは当然のことだ。
中田英やサントス以外の日本人選手は「自由にやるってどういうこと?」ととまどい、フラット3を初めとして、組織の型を手取り足取り教えたトルシエ方式からの切り替えができなかった。海外での実績も含めて、別格の中田一人を頂点にした序列が固まり、次第に個人の自主性や創造性が喪失していくように私には見えた。スローガンは「自由なサッカー」でも、やっていることは連携が合わない「不自由なサッカー」だったのだ。
サポーターからのジーコ解任要求が噴出したとき、ジーコ監督は自らの主義主張に拘泥せず、自らのスタイルの修正に取り組んだ。Jリーグの多くのチームが採用している3バックへと基本システムを変更、国内国外を問わずコンディションの良い選手を採用し、体調不良のキャプテン中田を外した。イングランド遠征と2週間にわたる戦術の合意を備えて、対インド戦に臨んだのである。7―0の大勝という結果は、ジーコ監督と代表メンバーの自己変革の勝利だったと思う。
日本代表の新しい流れは、7月9日のキリンカップ、対スロバキア戦でも明らかになった。長身の選手をそろえて引いて守るスロバキア代表に対して、中田英のみならず、前回のインド戦で活躍した小野と久保を欠く日本代表ではあったが、前半から優勢に試合を進め3―1でスロバキアを降した。そして7月13日のキリンカップ決勝、対セルビア・モンテネグロ戦にあっても、新生日本代表はタフな試合に1―0で競り勝ち、初タイトルを獲得した。
これらの試合で活躍した選手たちは、長らく「控え」に甘んじてきたメンバーだ。トップ下の中村は中田英の代役とされたし、福西は足を故障した稲本の代わり、遠藤は五輪のオーバーエイジで召集される小野の代役、鈴木と柳沢は主力の高原、久保らの控え組だった。しかし「控え」が「主力」と同等、いやそれ以上の働きを見せるのが最近のジーコ・ジャパンだ。
ジーコ氏は『「個」を活かして勝つ』などの幾多の著作を持ち、日本で鹿島アントラーズの総監督としてジーコ流サッカーを育ててきた権威者である。かってブラジル代表の「黄金の中盤」で名をはせた栄光を引き継ぎ、南米サッカーを日本に導入したのはジーコ氏の業績といっていい。海外組の「中田、小野、中村、稲本」で「黄金の中盤」を配し、日本代表をジーコイズムで改造しようとしたのが、当初のジーコ監督の試みだった。2月18日のW杯アジア1次予選の対オマーン戦では、4―4―2の中盤に中田、中村、稲本、遠藤(小野は欠場)をそろえる形を作った。
しかし日本代表はブラジル代表ではなかった。「個」の「自由」だけを尊重した「主義者」ジーコ氏の試みは見事に外れ、大幅な手直しを余儀なくされた。そして7月20日のアジアカップ予選の対オマーン戦では、チームの「規律」も求め、現実的な修正をほどこす「プラグマチスト」へとジーコ氏は変貌していた。そこではシステムは3―5―2に戻され、「自由」と「規律」のバランスが取れた新しいチームが生み出されていた。「個」の力は中村以外は見劣りする「国内組」中心のチームが、同じオマーン相手に「海外組」中心の前回結果と同様の1―0の勝利を実現したのだ。
新生ジーコ・ジャパンはトルシエ・ジャパンを超えるか? それは今行われているアジアカップの結果で明らかになるだろう。私は新しいジーコのチームに、トルシエ・ジャパンを超えていく可能性を感じている。
(浦和レッズサポーター)
ユーロ2004 ギリシャの奇跡がおきた
泉一太郎
ユーロ2004は、開催国ポルトガルを破ったギリシャの優勝で幕を閉じた。大会開催前の予想では、フランス、スペイン、オランダあたりが優勝候補だった。ギリシャの優勝を予想した人はいない。それもそのはず。ギリシャは80年のユーロ、94年のW杯に出場したものの1勝もできずに終わっている。ジダン(仏)、ベッカム(英)、フィーゴ(ポ)といった名前は知っていても、最優秀選手に選ばれたギリシャ主将のザゴラキスや、決勝ゴールを決めたチャリステアスの名前を知っていた人はいないのではないか。
そんなスター選手不在のギリシャを勝利へと導いたのが、ドイツ人監督のオットー・レーハーゲルだ。レーハーゲルはドイツ人らしく「組織と規律」を強調し、ギリシャを徹底した「守りのチーム」として育て上げた。守って守って守り抜き、相手の一瞬の隙をついてカウンターを決め、再び守り抜く。
決勝のポルトガル戦も完全にギリシャ・ペースだった。ポルトガルが放ったシュート17本(得点0)に対してギリシャはわずか4本。そのうち唯一枠内に飛んだチャリステアスのヘディングが決勝ゴールとなった。
ポルトガルの主将フィーゴは、「彼らが優勝した。そのことを認めないわけにはいかない。だが、言わせてもらえるなら、あれが私の見たいサッカーかと問われれば、もちろん違うと答える。同意見の人はたくさんいるだろう」と敗戦の弁を語っている。確かにギリシャのサッカーはおもしろくない、だけど優勝した。負け惜しみは格好悪いぞ、フィーゴ!
ところで、わがジーコ・ジャパンである。今後のアジア予選でインド、オマーン、シンガポールは第一戦の敗戦を総括し、さらに守備重視の徹底したカウンター戦術に出てくるに違いない。その姿はレーハーゲル監督指揮下のギリシャに重なる。
一方ジーコは、負けたポルトガルの監督フェリペと同じブラジル人で、ブラジル・サッカーのスタイルをとうとぶ。選手の才能と攻撃アイデアに任すタイプだ。よく言えば自由なサッカー、悪く言えば戦術不在のサッカーである。ブラジル・サッカーの攻撃重視は、今回のユーロ決勝のフェリペ采配でも明らかだった。フィーゴなどの逸材を擁しながら、ギリシャの鉄壁の守備の前に無策を露呈した。オマーン戦やシンガポール戦後のジーコ・バッシングが思い出される。同じにならないでくれよな、ジーコ監督。
ワールド・カップ2002決勝戦を思い出してしまうが、南米流の個人技に依拠する攻撃的サッカーか、ドイツ式の組織的守備的サッカーか、ことは民族性や好みに関わる問題でもあり、どっちがいいとは言えない。
いずれにしても、勝つサッカーは美しい。今回ユーロで優勝したギリシャに特徴的だったのは、途切れることのない集中力―「勝利の意志」だった。欧州メディアは、「ギリシャは神々のような落ち着きで、(決勝の)試合を終わらせた」と伝えた。一方ポルトガルはとりわけ後半、素人目にも焦り、ナーバスになっているのがわかった。
そもそもサッカーでは、実力のあるチームが必ずしも勝つわけではない。ゴールは遠い。勝敗は時の運に大きく左右される。とりわけユーロやW杯のような短期決戦の大会では、精神力・気力勝負のところがある。FIFA35位のギリシャが集中力でユーロ優勝を果たしたのだから、同23位の日本が気力でドイツW杯本大会を勝ち進み、あわよくば優勝することもある。ユーロでのギリシャのように、まずは90分間気合いをいれてフォー・ザ・チームで闘い抜き、着実にアジア予選を突破することだ。そうすればきっとドイツで「勝利の女神」が微笑んでくれる。
いまや日本は、ブッシュの下僕・小泉のせいで「アメリカの属国か」と世界中で軽蔑されている。アジアの代表としての根性とプライドを世界に示せ! ジーコ・ジャパン。
(湘南ベルマーレサポーター)
選手は国を背負ってる気迫を持て
北野雅志
2002年のワールドカップの盛り上がりから早2年、今年は2006年ドイツワールドカップのアジア1次予選が早くも2月から行われている。時を同じくして今年行われるU23が出場するオリンピックの予選も行われていて、熱い戦いが繰り広げられている。
A代表の監督を務めるジーコ監督は、当初から一貫して「組織から個へ」という内容であった。これは全監督のフィリップ・トルシエ監督が、フラット3を特徴とした「組織」を重視したチーム作りを行ってきたことへのアンチテーゼといわれる。「個を活かして勝つ」が持論のジーコ監督が自分の理論で戦いを作っていきたいという気持ちと、ワールドカップで韓国がベスト4まで行ったのに比して、日本がベスト16止まりだったことからいっても、それは説得力を持っている。
しかし、その結果起こったのが、今年の前半のアジア1次予選オマーン・シンガポール戦で起こった、ぎりぎりの中でようやく勝ちを手に入れるという始末だ。試合が終わった後、精神論の嫌いなキャプテンの中田でさえ「気持ちの問題だと思うので、手遅れになる前に、僕も含めてもう少しちゃんとやらないと」と、コメントしていた。緊張感が欠けた試合を行っていたのだ。
その雰囲気が多少変わってきたことを感じたのが、アジア1次予選第3戦のインド戦からキリンカップと、今開催しているアジアカップにかけてである。欧州組みと呼ばれる「中田・中村・小野・高原・稲本」らを中心にチーム作りをするということではなく、調子が良い選手を使っていくということに采配が少しずつ変わってきた。
その結果国内のJリーグで調子の良い選手がどんどん起用され、チームに活気が生まれた。サブの選手も出る機会があるから練習にも気合が入るし、レギュラー的な位置にいる選手もうかうかしていられない。それで緊張感が生まれてきているのが試合を見ていても感じられる。
アテネ五輪のオーバーエイジ枠に選ばれるはずであった高原が、雑誌『NUMBER』のインタビューで話している。 「日本のワールドカップの前にすでに欧州に渡り名を馳せていた中田は雲の上の人で、自分から声をかけたり意見を言ったりできなかった。そういった空気を感じたであろう中田は、自分から回りの人たちに声をかけてまわっていた。自分(高原)は声をかけたりするのは得意ではないけれども、オーバーエイジで呼ばれるということはそういうことも求められているからやっていきたい」
これは日本人に特徴的なところであるが、中田や中村のように世界でも評価されている人がチームに一人いるだけで、チーム全体が自分の意見を言えない雰囲気が作られていくのだ。特に今年の前半に表面化し、中田がキャプテンをしていたオマーン・シンガポール戦では、それがネガティブに働いてしまった。
その後の修正だが、欧州組みに囚われることなく調子の良い選手を起用していくことが、結果的にも個と組織の双方を生かすことになるのではないか。
1998年のワールドカップ2次リーグの対アルゼンチン戦で、ベッカムはアルゼンチンのディエゴ・シメオネを蹴って退場になった。それに続いたペナルティー・キックがイングランドの敗退につながった。帰国したベッカムには批判が相次ぎ「10人の勇者と1人の愚か者」と言われた。サッカーをやめようとさえ思ったとコメントしていたが、その後再びイングランドの主将として出場しベスト8まで上り詰めた。
ブラジルのロナウドは、1998年の決勝でフランスと対戦し1点も入れられなかったため帰国したときに非難された。2002年のワールドカップでは、得点ランキングトップの8点を稼ぎ出してブラジルを優勝に導いた。サッカーがワイドショー化したスポーツになってしまうのには問題があるが、サッカー文化を進展させるためにはきちんと欠点は批判をし、そこで奮起するような選手こそが一流の選手に育っていく。
テレビ朝日のサッカー放送では、とても解説とは言えないような内容があるのも気になる。「今のはイエローカードでしょう」とか、「(シュートを)打たせるな!」とか、居酒屋にいるおじさんと変わらないような放送では、私はサッカー文化の発展は望めないと思う。もっと戦略面でどうとか、歴史はどうとか、専門的なことが言われて良いのではと思う。
アジアカップが行われている中国の重慶で、なぜあれほど日本に対してブーイングが行われるのか。テレビでは「強いチームはブーイングを受けるもんです。フランスだって同じ」というようなコメントをしていた。実際は旧日本軍の重慶爆撃の歴史があるからこそ、地元のサポーター達が日本のチームに対してブーイングを行っているのだ。解説者がそれを知らないのかどうかわからないが、こうした解説さえ行わないというのでは、何のために世界中で試合が行われるのかわからないと思ってしまう。アジアとの友好の必要をあらためて感じる。
(横浜F・マリノスサポーター)
(2004年8月5日発行 『SENKI』 1152号6面から)