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↑世界の銀行業界がわかっていないからそういう答えしかでてこない。【反資本主義活動等非常取締委員会】
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投稿者 hou 日時 2004 年 10 月 06 日 21:19:00:HWYlsG4gs5FRk
 

(回答先: 紺谷典子 経済時評「UFJをなぜ追い込むのか」【小林よしのり編集長・わしズム秋季号】 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 10 月 06 日 08:30:42)

●ビックバンがどのような物かわかっていないから、わからないのでしょう。そいうひとはたいてい日本の金融業界もわかっていない。

[金融][銀行]四大金融グループの顧客セグメント
id:koufuu日記近辺をちょっと補足

元々日本には、戦前4大財閥+15大財閥というのがあったのだが、戦後財閥本社が解体され、銀行を中心とした六大企業集団が形成された、というのは誰もが知っていることだろう。この六大企業集団というのが、メガバンク形成の過程でどのように変化したのか

まず、六大企業集団とは、旧財閥系の三井、三菱、住友の三集団と、戦後系の第一勧銀、芙蓉(富士)、三和の三集団を言う。これに興銀グループを加え七大企業集団という場合もある。旧財閥の順列で言えば、三井>三菱>住友>安田の順列が成立していたが、戦後は第一勧銀>富士>三菱>住友>三井>三和>興銀という順列になった。三井が凋落していったのは、三井銀行が戦後の大衆化に失敗し系列の基幹産業を育成できなかったことが関係しているし、富士が躍進していったのは戦前の中小財閥を金融財閥だった旧安田が芙蓉グループとして再形成したからである

これが、金融再編によって四大メガバンクに再編された。みずほ>三井住友>UFJ>三菱東京で、それぞれみずほ(芙蓉、第一勧銀、興銀)、三井住友(三井、住友)、UFJ(三和)、三菱東京(三菱)と、企業集団としてはかなり偏りのある形成になった。つまり、関東偏重だが取引拠点は全都道府県にあり、大企業取引でも個人取引、投資銀行業務でも強みを持ち、かつ国際業務でも一定の影響力を持つみずほ。関東と関西に主な拠点を持ち、財閥系同士の合併という安定性の一方で中小企業や個人取引でも強みを持つ高収益体質の三井住友。関西と経済成長の続く中京圏を主な拠点とし、中小企業取引や三分野取引比重の高いUFJ。関東偏重で、国際業務に強みを持つものの中小企業取引や個人取引が決定的に弱い三菱東京という構成である

もちろん、財務体質としては三菱東京>みずほ>三井住友>UFJと逆転してしまうし、収益構造でいうと三井住友>UFJ>三菱東京>みずほとなる。金利収益の重要性は、長期的には低下していくと思われるとはいえ、やはり現在の邦銀の収益の柱は金利収益であり、銀行の収益順序を決定するのはやはり規模である。非効率的で内部抗争に明け暮れるみずほが、システム統合を期に攻勢に出てくるのは当然だし、毎年1兆円規模の収益を上げて不良債権処理を進める三井住友と財務基盤が逆転するのはそう遠い話ではない

ところで、三和と三菱という企業集団をよく見てみると、際立って対照的な集団であることがよくわかる。三和は昭和初期に、大阪を基盤とする地銀三行が合併して誕生した非財閥系企業集団で、繊維工業などに偏重した構成だった。高度経済成長期に入ると、軽工業偏重が祟り収益構造にゆがみが生じたために、中小企業や不動産・流通などの高収益企業に攻勢をかけ、企業集団としても加入を希望する大企業は歴史を問わずウェルカムというスタンスを取っていた。旧日産コンツェルンの日立製作所のような並列メーン制を取る財務基盤の優れた企業が集まったのもそのためだし、金利収益よりも手数料収益が強いのもそのためだし、リテール重視やシステム部門を重視したのも三和のそういった生き残り策からだった

ちなみに、東海銀行もまた東海地方の地方銀行三行が合併してできた「巨大地銀」的都市銀行だった。このような下位地銀の例としては、神戸銀行や埼玉銀行が挙げられる。やはり、流通や不動産などの開拓を積極的に行い、体質的に地銀であるからリテール分野が強かった。一方で、中京地方の大企業である三菱やトヨタとの取引が厚いが、どちらかというと三和よりもドメスティックな側面が強い。一方、東洋信託銀行は三和銀行と神戸銀行の信託部門と、野村證券の証券代行部門が分離して設立された銀行で三和とのつながりが強かった。また、国内最大の証券会社である野村證券や、日本生命とのパイプが強いために規模の割りには証券代行部門や信託部門の収益が高く、独立系信託としては優良企業だった。

一方の三菱は、銀行よりも三菱重工業を中心に発展してきた産業財閥である。系列企業も、原則的に個人を相手にするような産業部門よりも、機械や重化学といった素材や生産財といった企業相手の大企業が中心で、しかも戦後に入って戦前の中小財閥の取り込みを積極的に行わなかった。従って、リテールの大半は三菱財閥となんらかのかかわりのある企業の従業員が中心で、企業取引も個人取引も比較的大口の取引が多かった。そのため、安定した収益基盤があったために積極的に規模の拡大を目指さず、また都市銀行としても親密な地銀との関係を重視して地方への出店を最小限にとどめるなど、関東偏重・大企業偏重が著しかった

ちなみに、東京銀行は特殊銀行だった横浜正金銀行が戦後普通銀行転換を経て、唯一の外国為替銀行となった国策銀行である。為替取引が自由化されていない護送船団時代、東京銀行は国際業務をほぼ独占的に行い、資金調達も金融債の発行によってまかなっていたために支店も大企業が存在する主要都市以外では、関東に偏重するなどやはり三菱と似たような銀行だった。強みを持っていた国際業務以外では、個人取引は資金の調達相手以外としてはほとんどなく、富裕層比率が高い銀行でもあった。三菱信託銀行も、信託大手ではあったが信託業務よりもむしろ銀行業務に強みを持ち、富裕層と大企業相手(それもほぼ三菱系企業のみ)の信託銀行、つまりミニ三菱銀行とも言える銀行だった

つまり、UFJと三菱東京の経営統合は、あまり重複分野がなく理想的な統合であると言える。確かに店舗網では重なりあうところが多いが、UFJの関東部分や三菱の関西・中京部分の拠点は元々それほど大規模ではないし、良質な基盤であるとは言いがたくある程度のリストラはありえるとしても、三菱が三和を完全に駆逐するといったことにはならないだろう。さらに、もう一つ理由がある

メガバンクが統合を発表した99年前後、ちょうど韓国の経済危機の前後であった関係から、メガバンク統合によって日本の企業集団構造が劇的に変化を迎えるのではないか、といった観測があった。しかし、実際に統合から4年あまり経ってみても、企業集団としての統合はおろか、銀行グループ内の緊密企業の統合もあまり進んでいない。例外的であるのは、負債比率が高い経営不振企業が、銀行のイニシアティブで整理された例はあるが、それでも統合された企業集団内で統合されるという例は、三井住友系を除いてほとんどおこっていない。むしろ、大企業の事業整理は企業集団の枠を超えた統合がほとんどで、銀行の合併による企業集団の整理というのは、ほとんど発生していないといっても過言ではない

その理由は、わが国の企業集団というのは銀行による産業支配ではあるが、その本質は銀行によるトップダウン型の支配構造ではなく、企業と銀行との相互の関係に基づいた集団であるからである。従って、銀行が統合されたとしても、銀行の緊密企業(ノンバンクなど)は歴史的な経緯から統合が難しく、統合されたとしても実効性がないためにそのまま別企業として残されるという例が多いのではないかと推測する。さらに、かつてのように大企業が、資金調達を銀行に依存していた時代ならまだしも、大企業の信用力が高まり直接金融へのシフトを強めようとしている今、企業集団に属していようといまいと関係なく資金を調達できると言う時代に入りつつある、というのが背景ではないかと考える

■ 三井はなぜ凋落していったのか
注釈で書こうと思ったのだが、長くなるので別項目に分けてみようと思う

三井は、戦前に財閥中最大の規模を誇る巨大財閥であった。それが、戦後凋落し住友との一体化が進んでいるのには、主に三つの理由がある

第一に銀行部門の大衆化の失敗である。この原因は戦中にさかのぼる。戦中、政府の合併政策によって、三井銀行は渋沢同族系の第一銀行と合併し、安田銀行を超えた邦銀最大の帝国銀行となった。しかし、企業文化の違いが大きく、財閥系でエリート主義的な傾向が強い三井系と、財閥といっても金融財閥で実力主義だった第一系が対立し結果的にこの合併は大失敗に終わる。戦後になって、帝国銀行から第一銀行が分離し合併が解消されるという、世界的に見ても例を見ない結果に終わったのはこのためである。しかし、この分離が結果的に三井銀行と第一銀行の経営戦略上の混乱を招き、都銀中位のまま大蔵省の総量規制に抑えられるたまま、量的な拡大を成しえなかった理由になる

第二に、基幹産業の育成に失敗したことだ。三井財閥は、元々三越や三井物産を中核とした流通財閥だったが、戦前に石炭産業を中心とする産業財閥として一気に財閥トップの座に躍り出た。しかし、戦後になるとエネルギー革命により石炭から石油への構造転換に追随できず、銀行による資金供給もままならないまま、素材産業や消費者と直接取引きするような産業の育成に失敗してしまったことが大きい

第三に、商社部門の問題がある。三井物産は、戦前商社部門としては財閥中最大だったが、後発の財閥系商社である三菱商事や住友商事といった商社の追い上げを食らった。特に三菱商事は、大企業取引中心から個人取引を重視した経営に転換していったことが、三井物産の凋落を決定付ける。最近になって三井物産は個人取引を強化する体制を整えつつあるが、川下を軽視してきたツケはあまりに大きいと言えるだろう

起死回生として、90年に三井銀行は都銀中位の太陽神戸銀行と合併し、後のさくら銀行になるが、この合併も余り成功したとはいえなかった。腐っても財閥系銀行である三井だったが、対等合併であったために権力配分が太陽:神戸:三井=1:1:2というたすきがけで、不良債権「隠し」もあまりうまくいかなかった。勘定系システムそのものも、太陽神戸のシステムをそのまま使う(規模的に仕方が無かったが)という妥協であったし、システムの全面的な刷新計画も失敗に次ぐ失敗で、結局住友との合併まで「第二次オンラインシステム相当」という汚名をかぶることになる

さらに、太陽神戸という独立系下位都銀との合併は、セグメント的にも失敗だった。不動産や建設、流通のとの取引関係が強い太陽神戸の資産セグメントは、バブル崩壊後に経営不振企業を多く抱えることになり、また合併行のしがらみから処理も遅々として進まなかった。結局、三井系がさくら銀行の主導権を握るには、96年に格付けの低下からトヨタ自動車から大規模な資本調達を行って以降である*1

そして、総合金融グループとして誕生した三井住友が、他のメガバンクと異なり持ち株会社を結成しなかったのにも大きな理由がある。三井系の金融企業がいずれも経営不振だったからだ。例えば、中央信託銀行と合併した三井信託銀行や、三井住友銀行の救済によりSMFG入りした三井生命などである。他のメガバンクの例から言えば、CMTBとSTB(住友信託銀行)を含めた総合金融グループ化を図ることが定石であるが、STBだけをグループ化することは、CMTBに対してSMBCが資本的救援を行わないという意味に取られるし、かといってCMTBとSTBをグループ化すれば脆弱なSMBCの経営を傾ける可能性が高いからである*2

そういった意味で、さくら銀行と住友銀行の経営統合は、形式的にも実質的にも住友銀行によるさくら銀行の救済合併となり、必然的に旧三井系不振企業の整理に走った。もちろん、住友側にしてみてもバブル期の不良債権の積み上げがひどく、三井系不振企業の整理に走らなければ、SMBC自体が沈没する可能性があるので必死に整理したという背景がある

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