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(回答先: あっしらさんへ。「支配ー被支配」と「指導ー被指導」関係の違いについて質問させてください。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 11 月 23 日 18:21:52)
オニオンさん、どうもです。
【オニオンさん】
「目的は何であれ、他者の意思を気にかけずに他者に働きかけることを「支配」、目的の為に他者との間で合意を形成すること(合意の形成のためには当然他者の意思、思いなどを理解せねばならぬでしょう)を「指導」とすれば、どれだけ庶民の事を考えていようと、命令をするだけの王様は「支配者」ですし、民主主義でも皆が自分の事だけ考えて他者に思いを馳せていないなら「多数派による支配」となりますね。」
微調整をさせてもらうと、
「支配」は、他者の意思を気にかけるほうが“安定”的でスムーズだとしても、相手の意思を排除して命じたり強制することもできること。
「指導」は、共通の目的を実現するために、より熟知した人が他者を納得させてうまく進めること。
だと考えています。
「支配−被支配の関係」は“主体と客体という分化”が基本で、ある特定の立場にある人たちがモノゴトに関する(具体的な)決定権を保有し、違う立場の人たちをその内容に従わせる関係性です。
わかりやすい例は、企業経営者と従業員の関係だと思います。
経営者も「資本の論理」に“支配”されていますが、それはおきます。
経営者を頂点とする階層的指示命令に従わないものは、解雇される危険があります。
従業員も意見を具申できますが、それは企業(経営)目標の枠内である限りにおいて容認されるものです。
企業という活動主体は経営者が主体であり、中間管理職を含む従業員は経営者(企業)の手段・道具・手足です。
この支配−被支配関係は、個々の企業レベルで濃淡(強圧的か配慮的か)はあるとしても普遍的なものと言えます。
ですから、田畑を所有しているなど自力で生存できる条件を持っている人を別にすれば、多くの人が否応なく身を置かなければならない強制的な関係性になります。
概要的にまとめると、
● 決定権の保有と非保有:被支配者は意思表示や意見表明ができるとしても決定権はありません。
● 強制力の裏打ち:権力機構の行使が代表的なものですが、経済社会的条件に基づく非権力的強制力もあります。
● 社会的分業性:「指導−被指導の関係」は極端に言えば時々刻々立場が入れ替わる可能性がありますが、「支配−被支配の関係」は“地位”によって定まるものです。
になります。
「共産主義国家」は、政治国家と経済社会が同じ支配者(同じ支配構造)であったことで“強権的支配”がより強く意識されていたと思っています。
(「自由主義国家」は、政治国家と経済社会が分離していることで政治的支配が緩やかになっています)
【オニオンさん】
「 (なんだか聖徳太子の十七条の憲法みたいになってしまいました。まあ十七条は実際のところ凄く深いものであるように思えましけども。もし宜しければあっしらさんの十七条の憲法や聖徳太子に対する評価を教えてください)。」
イエス・キリストと同じように、聖徳太子も歴史的には実在しなかった人物だと考えています。(モデルや投影された人はいたのだろうが、語られている内容の人物はいないという見方です)
聖徳太子は、蘇我馬子(ら蘇我一族)がモデルで、藤原不比等が投影されているのではないのかなと推測しています。
(聖徳太子なる人物が日本書紀の推古の条に挿入されたのは、太宰府天満宮と同じように、蘇我氏の怨念を緩和するための“厄除け”かもしれません。古事記の推古の条に聖徳太子はまったく出てきません)
「十七条の憲法」は、儒教を中心として中国政治思想と仏教を価値観の基礎に置いたものですから、それがそのまま生き続けたわけでも現実がそうであったわけでもありませんが、明治維新前までの日本の国家社会を貫いてきた価値観と言えるかもしれません。
「十七条の憲法」については、「支配−被支配関係構造」のなかで国家社会を安定させようとする考え方だとは評価しています。
(儒教は嫌いですが、支配者の思想としては合理的で優れていると思っています)