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あっしらさんどうもこんにちわ。
以前にもこのテーマでご説明いただいたのですが、またお願いします。
実は情けない事ながら、以前お話を聞かせてもらったときには両者の違いが良く理解出来ませんでした。
支配と指導の違いは支配者の質の良し悪しや、民主制かどうかなど支配者の数の大小や政治体制とも本質的な関係は無いようでしたから、では何が違うのかが分からなかったのです。
ですが最近ふと考え付いたのが、この両者の違いは人が相手の人格を尊重し、自分と相手との間で「合意とコンセサンス」の形成を重視するしないにあるのではというものです。
卑近な例で例えますと、学生時代(今も浪人中なのですが、、)先生から「勉強しろ」と言われるのは嫌でした(好きな人は居ないでしょうが)。それが何で嫌だったのかを考えてみると、勉強することよりも僕自身の存在(精神の内面、人格)を無視してただ「勉強しろ」と命令されることが嫌だったんだと思います。逆に同じ言うにしても勉強することについてその意義を語り、自分(生徒)の側の人格を意識して話しかけてくる先生には納得するしないは別にして好感が持てました。
今にして思えば、前者が「支配」で後者が「指導」ではなかったかなと感じたわけです。
目的は何であれ、他者の意思を気にかけずに他者に働きかけることを「支配」、目的の為に他者との間で合意を形成すること(合意の形成のためには当然他者の意思、思いなどを理解せねばならぬでしょう)を「指導」とすれば、どれだけ庶民の事を考えていようと、命令をするだけの王様は「支配者」ですし、民主主義でも皆が自分の事だけ考えて他者に思いを馳せていないなら「多数派による支配」となりますね。
また先ほど「教師ー生徒」という例えを出させていただきましたが、「支配」と「指導(と言うのもちょっとへんかな?)」も関係は政治的関係に限らず、家族間、親子間、友人間、恋人間、また職場や学校など凡そ人間が関わる場全てに適用できるのではと思います。
さて、ついでにここで人との関係を「支配ー被支配」ではなく「指導ー被指導」とする為に何が必要かを考えますと、「話し合い」ではないかなと思います。
支配ではなく指導のためには合意が必要(として)ですが、その為には相手を識らなければなりません(相手の考えていることが分って初めて合意が作れる)。見識の深い人なら外観だけでもある程度その人の事を理解できるでしょうが、それでもやはり話し合うこと抜きにその人の内面を深く識ることは出来ないでしょう。
また単純に相手を識った後合意を形成する段となっても、話し合わない限り合意は得れません。
(なんだか聖徳太子の十七条の憲法みたいになってしまいました。まあ十七条は実際のところ凄く深いものであるように思えましけども。もし宜しければあっしらさんの十七条の憲法や聖徳太子に対する評価を教えてください)。
以上、話を勝手に進めさせてもっらたのですが、このような理解で宜しいのでしょうか? 宜しくお願いします。