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(回答先: 『華氏911』とウエイン町山氏など【政治板から移動】>南青山さんへ 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 25 日 09:44:15)
バルタン星人さんへ
お言葉に甘えてだらだらしているうちに、ずいぶん下に来てしまいましたが、お返事させていただきます。
ウエイン町山は知っていますよ。
大昔、彼が駆け出し編集者のときに、一緒に仕事をしたことがあります(向こうは覚えてないだろうけど)。
「映画秘宝」も愛読していました。
でも、本質的に面白かったのは3号くらいまでですね(そのあたりでネタが出尽くした)。
それでもサブカル的視点(といっても宝島流ですが)での情報発信力はたいしたものだと思っています。
「映画秘宝 地獄のアメリカ観光」ですか。
たしか目を通したと思うのですが、ほとんど記憶にありません。
ラス・メイヤーのインタビューはもう一度読んでみることにします。
ちょうど、ラス・メイヤー関連の仕事を進め始めたところでした。
手元に「ラス・メイヤー・ヴィクセン・ボックス」が来ていて、少しずつ目を通している最中です。
不思議な監督ですね、ラス・メイヤー。
ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」を思わせたり、フランスのヌーヴェルバーグを思わせるところもあったりして、なかでも時代を超越した絵作り(たとえば、でき上がったときにすでに古くささを感じさせる映像とか)がなかなか興味深かったです。
徹底的に乾いた空気感をスクリーンに全開させるという点で、日本で似た監督を捜すと、三池崇史とかになるのでしょうか。
いろいろ考えがいのありそうな監督ですね。
啓蒙思想でいえば、カントは「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、ところでこの状態は、人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。」と「啓蒙とは何か」の冒頭に記しています。
この伝でいえば、宮台は啓蒙思想家なんでしょうね。
でも、人間は未成年状態から、自覚的に抜け出ることなんでできるのだろうか、なんて思ってしまうわけです。
そんなにうまくいくのかいな、と。
浜崎あゆみは、彼女がもっとも輝いていた時期に「不完全なまま 生まれたボクらはいつか完全な ものとなるために なんていいながら la la la...」(And Then)と歌っている。
僕らは僕ら自身にかけられた呪縛の本当に意味に気づき始めている。
そこで彼女はこうも歌うわけです。
「僕らはきっと幸せになるために 生まれてきたんだって 思う日があってもいいんだよね」(immature)
この現実がゲームであれば、僕らは目覚めなければならない。
しかし、現実はゲームではないというのが、小生の信条です。
僕らは、永遠に「不完全なまま 生まれたボクらはいつか完全な ものとなるために なんていいながら la la la...」と口ずさみながら生きていかなければならない存在なのではないか。
カントなんて糞喰らえ、というわけですね。
小生の敬愛する市川浩は「〈中間者〉の哲学」の中で、「未完結である断片が基本であるということは、他とのかかわり(相依性)が基本になるということである。それは自己を集団に同一化したり、集団を自己化したりする日本的な甘えの関係ではないはずだ。「私は他者だ」という認識にとどまらず、「他者の他者性」こそが、断片の認識である。他者の主体性の把握こそが、自己の主体性の開示である。自己の自己にたいする関係は、〈他者〉とかかわらないかぎり、いくらそこに他者を見いだしても、それは自己を脅かし、震撼させる偶発事とはならない。」と書いています。
この市川浩―ベルグソン―メルロ=ポンティ―ドゥルーズという差異の哲学の潮流に共感を持つものですが、時代がカント的啓蒙主義(柄谷も何となくそうした流れを容認している感じがしますが)の方向に進みそうな昨今、何となく息苦しさを感じているところです。
ラス・メイヤーの映画は、そうした意味で、啓蒙主義とは対極の、お気楽三度笠的世界観、世界臭を漂わせている点で、なかなか評価できそうです。