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(回答先: 皆さんは、隷属から抜け出したいとは思っていないのか? 投稿者 最大多数の最大幸福 日時 2004 年 8 月 13 日 01:03:06)
最大多数の最大幸福さん、どうもです。
現段階では、私たちが生きる共通の基盤である「近代社会(世界)」がどのような論理で動いているかについて認識の共有を広げていくことが肝要だと考えています。
(どういう政策を掲げそれをどういう手法で実現していくかを論じる段階ではまだないという意味です)
いろいろな書き込みも、それが真理や正論だと主張したいわけではなく、私にはこのような現実だと理解できる、あなたにはどう見えますか?と問い掛けて議論するためのネタです。
隷属から抜け出したいとは思っている代表的勢力は、「左翼」的価値観や政治信条をもっている人たちだと思っています。
しかし、彼らは、世界支配層の価値観や政策に反対の声は上げても、それに代わる別のグランド・デザインを提示することもなく、支配層の動きに反対することそのものに価値や意味を感じているように見えます。(闘っていることに自己満足しているのではないかと疑わせるものです(笑))
また、彼らは、価値観や心情が先行し、現実を論理的に捉えようとする努力に欠けています。(論理的に捉えようとするひとたちもいますが、その場合は、抽象的論理や哲学的思考に入っていってなかなか現実世界に浮上してこない(笑))
言説や運動は「敵味方論」や「善悪論」に傾斜し、語る内容も支配層と同じ「民主主義・平和・平等・自由」で、その具体的な意味や在り様を追求せず、「真の民主主義」とか「真の平等」といった空虚なものです。
議会議員をできるだけ多く送りたい左翼政党は、選挙でできるだけ多く票を獲得したいと考え、大勢の気分に流されてどんどん“現実主義”に向かっています。
社会民主党的政治勢力が中道へ、共産主義政党が中道左派へとシフトしていきました。
産業資本主義が成長余力を秘めていたときには反資本主義革命を標榜していたのに、産業資本主義が行き詰まりを見せ始めたら「資本主義容認」への路線転換を強めていくという頓珍漢ぶりです。
それはそれで各政治勢力のご勝手にですが、資本主義を容認するなかで「弱者救済」を政治運動のメインテーマにするのなら、資本主義の運動論理(規定論理)をきちんと理解しなければならないのに、大企業批判や政府支出批判のレベルであれこれいうものでしかありません。
所得配分問題を政治課題にすることを悪いとは言いませんが、所得がどうやって生まれるのかという経済論理を理解しないまま打ち出された政策では、所得配分が平等になったとしても、低所得者の所得が以前よりも少なくなるということにもなりかねません。
(所得配分は不平等でも貧乏人も30単位の所得はあったのに、所得配分が平等になったら、誰もが20単位の所得になったという泣くに泣けない事態になる可能性があるのが経済論理です)
所得配分問題どころではなく、国民経済が円滑に循環しなくなるのが産業資本主義の終焉です。
幸か不幸か、日本経済は、貿易収支黒字からわかるように、世界の他のどこよりも優った経済条件を持っています。
そのような恵まれた条件があるうちに、産業資本主義日本をソフトランディングさせる必要があります。そのソフトランディング手法が、他の国々のソフトランディングの貴重な参考になります。
逆に、最強の産業国家日本は、準備もなくわけもわらないまま産業資本主義の終焉過程に突入すると、反動の大きさから最大の被害を被ることになります。
(左翼やリベラストそしてフェミニストと思しき人たちともやり取りしましたが、価値観や論理がごちゃまぜであったり、ご自身が醸成されてきた世界観にしがみついているように感じ大きな失望感を抱きました。自覚的に隷属から抜け出したいとは思っている人たちがそのような状況であることに暗澹たる気分になっています)
今回のシリーズは、価値観の表明はできるだけ排し、国民経済がどのような規定論理で動いているのか、どうすれば国民全体の生活原資である付加価値(所得源)を増加できるかに論点を絞って書いているものです。
このレベルであれば、“彼ら”との間でも「左翼」との間でも認識を共有することが可能です。
「オレは、ひとのことはどうでもいい、才覚を活かしてカネを儲けて面白おかしく生きていく自信がある」というひとも、神経をすり減らして仕事をしても今を生きるのが精一杯で将来は不安ばかりという現実に嫌気をさしているひとも、「こんなに生産力が発達したのに、どうして、みんなが余裕をもって豊かに暮らせる世の中にならないのか?」と考えるひとも、同じ経済論理に従属して(規定されて)生きています。
共通の現実認識を基に現実をどう変えていきたいかという目的は、価値観によって異なります。
あるひとは、たとえ99%が困窮しても、自分の支配力が高まり富を増やせるならかまわないという価値観を持っているでしょう。
別のひとは、安らかで楽しい日々をおくって穏やかに死んでいけるのなら富なんかいらないという価値観を持っているかもしれません。
また別のひとは、隷属でもかまわない、生まれ生き死んでいくだけだと思っているかもしれません。
論理をわかった上での価値観の違いについては、どちらが善で悪かをことさら言い募る気はありません。自分の価値観を現実化しようとする動きのぶつかり合いで決することです。
歴史や現実を考えればわかるように、「善」や「正義」さらには多数のひとが望むことが現実になるわけではありません。
少しはまっとうな世の中になって欲しいとか、のんびり好きな暮らしをしたいと願っているのなら、世界支配層の現実認識やそこから提示される政策に対抗できるだけの現実認識とグランド・デザインを提示する必要があります。
それなしに自分にとってより好ましい現実が生まれてくることは絶対にありません。
“彼ら”の政策に反応して反対の声を上げるだけでは、現実を変えることはできません。
また、政党など他の誰かに頼れば自分の願いが実現されると考えているひとは、既に隷属に陥っています。(隷属を選択するのも悪ではなく“自由”です)
“彼ら”は、自分たちの祖が創り出した近代的制度に精通し、人々がどのようなことを嫌いどのようなことに惹かれるかも熟知しています。
その一方で、学校教育やメディアを通じて、そのような価値観を“無害化”した内容で日々再生産しています。
“彼ら”は、嘘を吐くことになんらためらいを感じず、具体的な説明は避け空虚な言辞(自由・民主主義など)を弄して人々を自分たちが望む方向に誘導しようとします。
隷属を厭う人は、ある政策が提示されたら、それが経済社会にどのような影響を与え、現実をどう変えていくかを自分の頭で徹底的に考えてください。
腑に落ちないものは判断を保留してください。納得できるものだけを信じ、不幸にしてそれが不合理なものあることがわかったときは、自分で責任をとってください。
類としての思考力や活動力も高が知れているのですから、ひとり一人の思考力や活動力は脆弱なものです。
趣味嗜好と違って現実を変えることは、他の人たちとの関係性を抜きにしては解決できません。
関係性の出発点は現実認識の共有です。現実認識の共有は、言葉か文字かという手段は別として議論を通じてしか実現できません。