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(回答先: 沖縄国際大学ラジオゼミFMたまん「放送禁止歌」プロテスト・ソング(社会抗議唄) 投稿者 手ポリオ 日時 2004 年 11 月 14 日 23:48:49)
手ポリオさん、貴重な投稿ありがとうございます。
こういうミニコミってあるんですね。
危ない歌などは最近はすっかり忘れていましたが、手ポリオさんの投稿を見ていろいろ思い出す歌があります。しかし歌詞とか演奏家などすでに忘却している場合が多いのでネットで調べてみたら、解説つきのページがありましたので、手ポリオさん投稿を補強する意味で紹介しておきます。
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http://www1.linkclub.or.jp/~kury/ct/abunaiuta/abunai-index.html
危 な い う た その数奇な運命と怒り Text by 栗原 昭二
http://www1.linkclub.or.jp/~kury/ct/abunaiuta/ikari.html
この文章は1993年から94年にかけて、出版社の依頼を受けて単行本用の原稿として書き下ろされたものである。
その経緯を述べると次の通りである。
当時カルト系の音楽雑誌を中心に執筆活動をしていた私に、旧知の仲であるビジネス書を中心に発行する二期出版の編集者(当時)片岡氏から日本の放送禁止歌について詳しいか? と問い合わせを受けたのは1993年の5月か6月のことだったと記憶している。放送禁止といえば1960年台末期から70年代半ばにけかてのプロテストフォーク〜キワモノフォークに最もその憂き目にあってしまった歌が多いことは承知していたし、個人的にはもともと興味のあるジャンルであったので、その旨を伝えた。しばらくして「輝く! 放送禁止歌謡大賞」という仮題で企画を通したので具体的な話をしたい、との連絡を受け、この出版社の営業部長の薗部氏、片岡氏ともうひとりの編集者石井の三人と新宿の「DUG」で会ったのがこのプロジェクトに私が具体的にかかわった最初であった。
企画を立案したのは、最初に私に連絡してきた片岡氏ではなく、この場に同席した石井であり、このプロジェクトの担当編集者は彼になる、ということであった。ただ、通った企画そのものは「放送禁止になった歌を題材にして、なにか面白い本をできるだけ短期間かつ安値で作りたい」ということ以外何も具体的なことは決まっておらず、私の最初の仕事は具体的な企画書を作ることであった。
そこで私が提案し、同意を得た企画アウトラインは
1.題材を「放送禁止」に限定すると政治的内容のものに偏ってしまう危険性があるので、そのカテゴリーを放送禁止あるいは 放送禁止に準じるものを含む「キワモノ」としたらどうか。
2.単行本1冊分の原稿を私ひとりで短期間に書き上げるのは無理なので、複数のライターによる共著としたい。
3.作業短縮のために、当時やっと実用レベルに達しつつあったDTPで作業をしたらどうか。
上記の概要に従って企画書を制作し、プロジェクトが具体的に立ち上がった。執筆は、私の友人であり、DTPに詳しく、サブカルチャーにも造詣が深い松山氏を共同執筆者兼DTPのレイアウターとして起用し、二期出版側はアジアン・ポップスとアイドルオタク系を中心に執筆活動しているライター丸目蔵人を推薦、起用、私を含めたこの三人で執筆することに決定し、編集担当の石井を交えてミーティングを交わした。二期出版からはこの企画の取材費として、ひとりあたり100.000円(税込み)がそれぞれの口座に振り込まれた。私はDTPでの作業のためマッキントシュを購入し、早速執筆を開始した。
作業を開始してしばらくして、まず松山が体調を崩してプロジェクトから降板した。丸目とは頻繁にミーティングを続けてはいたが、「順調だ」とのその口振りとは裏腹にいっこうに原稿を上げてはこなかった。私は石井に逐一原稿のチェックを受けていたが、石井から私に進行状態を伺う連絡は全くなかった。原稿の進行状態の把握は編集者の仕事であるが、石井の挙動を見る限り、「ちゃんと仕事をしている」ようには私には見えなかった。
結局丸目は1枚の原稿を書くこともなく、この企画から脱落していった。トンズラこいたのである。その間、石井は丸目に対してなんのフォローも催促も行わなかった。企画に拘わる取材費の3分の2はこうして1枚も原稿を書かなかったふたりの手に渡り、回収されることはなかった。
結局単行本1冊分の原稿をたったひとりで書くことになった私は、ひとつひとつの原稿が上がる度にFAXで原稿を二期出版に送信し、石井に連絡を入れた。石井から進行伺いの連絡は全くしてこなかった上、企画自体の二期出版内での進行具合をこちらに報告してくることもなく、私の石井への不信感は募った。
校了するまでに約1年半の月日が必要だった。日本はその間に三人の総理大臣が変わるという激動の日々だった。
原稿が揃ったが、石井からなんの連絡もない。どうしたのかと連絡をしてもさっぱり要領は得なかった。この企画をまとめ上げることが石井にはできなかったのだ。私は二期出版の取締役でもあり、ちょうどこの頃編集部長になった薗部氏に事の成り行きの事情説明と善処を求めた。
結局この企画の手綱を誰も取ることができなくなり、こうしてこの企画は二期出版の刊行企画リストから消えた。残ったのは原稿用紙にして250枚以上の原稿と、企画を遂行するために購入した当時異常に高価だったマッキントシュだった。二期出版から「お詫び料」として(私はそれが「お詫び料」であることには今でも納得していない。「契約不履行料」として支払われるべきだと思っているからだ。)若干の金子が私の口座に振り込まれたが、それが取材に要した時間と費用を補えるものではなかった。
このコンテンツは私の1年半に渡るライターとしての格闘の紛れもない記録であり、二期出版(この出版社はすでに存在しない)ならびにこの企画に携わった「使えない」出版人たち、特に編集者・石井と泥棒ライター・丸目蔵人(この業界にはかくも無責任な輩が多数うごめいている)への若干の怒りと大いなる呆れを込めて、そして今でも出版業界の片隅に身を置いている私自身が彼らと同類になってしまわぬよう、自戒の念を込めて掲載する。
なお、今回、インターネットのコンテンツとしてこの文章を掲載するに当たり、大幅な加筆修正を行った。時代があまりにも激変していて、読むに耐えないものとなっていたからだ。