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子供の中の子供、王の中の王_羊飼いの子とマギの子【絵画に見る二人の子供イエスB】シュタイナー神智学と東方の密教
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/908.html
投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 15 日 07:46:45:ayjHlPlEsGXTU
 

(回答先: 二様の礼拝_羊飼いの子とマギの子【絵画に見る二人の子供イエスA】シュタイナー人智学と東方の密教 投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 15 日 07:44:18)

引用: 絵画に見る二人の子供イエスB

 15世紀後半と思われる未知のマイスターが、シオンのヴァレリア城にあるカタリナ教会に掛けられている絵を描いた(下図)。

 この絵では両家族が同時に見られ、しかも一方が後方に置かれ、他方が前方に大きく置かれるということもない。右のマドンナが今にも到着しようとしている王たちの行列を歓迎しているのに対して、左のマドンナは自分の子供の礼拝に深く入り込んでいる。羊飼いへの誕生の告知は馬小屋の上で生じているが、まだ一人も礼拝に現れてはいない。

 王たちは従者と共に絵の右半分を占めている。3人の王は先ず山の中に別々に現れ、前景に再び現れて贈り物をしている。従ってこれは時間的に続いた出来事と見られ、王たちの動きは中央上部から右へ回り、再び中央下方へという弓形に描かれている。これに対応して、絵の左半分も左上方から下方への弓形として捉えるべきであろう。こうして絵の左右、二つの流れは中心集団において合流するのである。マリアとヨセフはそこで逆向きにたたずみ、双子の夫婦又は鏡像のようである。但し子供の描き方が異なっている。

 左の子供は裸で地面に置かれており、園頭は丸い黄金のオーラが取り囲み、更に身体全体から波のような黄金の光線が発している。この炎のようなオーラは、仏像やインドの神像におけるオーラの環を思い起こさせる。この「踊る」オーラは絵の中に生命と躍動をもたらしている。ここでも母と子の視線は相対し、互いに安らいでいる。

 絵の上部(山の上)は純粋な金地で、地上世界が霊の海へ都市と木々の影によって嵌入している。そこにはルカの誕生図の真上で、父なる神が祝福を与えている。神の脇では天使が告知しており、ここでは誕生への神の参与が示されているのである。これに対して、右半分の金地は王の行列のかぶとや旗により満たされている。

 右の子供は母の懐に抱かれており、地面に触れていない。薄いヴェールが彼を覆っている。彼の目は王たちのほうへ向いており、頭部のオーラは左の子供との近親性を表しているが、身体を取り巻く炎は見られない。しかし、金地の天がうがたれたように、星が天使に保たれて中央で輝いている。

 二組の家族がいる家畜小屋は同じようなものであるが、そこにいる牛とロバは王の礼拝の方を驚いたように見ている。しかしそれらはそこで何も求めるものがないようである。マタイは家について語っているが、家畜小屋については何も言っていない。そして確かに、ルドルフ・シュタイナーによれば、それはソロモン家の両親がベツレヘムにおいて住んでいた家であり、ルカの両親は、登録のためにナザレから出てきていたのである。

 ロバと牛については特別な意味がある。他の画家の「王の礼拝」においてもしばしばそれらは登場する。われわれの画家はおそらくそれを何か他の意味で用いているのである。左の子は草の上に置かれている。植物界は、自然の無垢な部分である。

 右の子供を見ているのはロバと牛だけではない。マリアの金の衣装には高価な首輪をした犬、又は鹿が見られる。王の着衣にもウサギと犬のつがいが見出される。手綱をしめられた馬が幾頭もいる。

 右の植物界で無垢な「エーテル」世界と、左の魂的な頭上に星の輝く「アストラル」世界に、二人の子供たちはそれぞれ属すのである。

(訳注)ルドルフ・シュタイナーによれば、人は通常目にされる身体のほかに、生命現象の基盤となるエーテル体と、感情、感覚、欲求等を生み出すアストラル体(アストラルとは本来「星」の意味)と、人に「我あり」と言うことを可能にする主体的根拠である自我の四構成体から成るという。身体は鉱物に、エーテル体は植物と、アストラル体は動物と共通する部分であり、自我は人のみが所有する、人を人たらしめているものである。

 しかしマリアの着衣の動物は首輪をはめられ、飼いならされている。
ルドルフ・シュタイナーが、『エジプトの神話と密議』で述べているように、キリスト教以前においては、神から送られたアストラル体の純粋性は「金毛羊皮」によって理解されていた。堕罪以前、このアストラル体は無垢で光り輝き、神の働きを受け入れていたが、「ヘビ」の誘惑以来、利己主義が人の魂に入り込んでしまった。そのため古代密議においては、人間本姓の純化により神性と再結合するために、利己主義の克服、即ち純粋な黄金が再び流れ込むことを目指していた。これが「金毛羊皮」を求めるアルゴナウタイと呼ばれたのである(訳注)。人間本性において、「動物」は飼いならさなければならないのである。

(訳注)アルゴナウタイ ギリシア神話で、英雄イアソンがギリシアの他の英雄たちとアルゴーという名の船に乗り、金色の羊皮を探す冒険をすると言う物語。

 二つの典型的な表現様式は要約すれば次のようになる。
 王の礼拝による子供は、母の懐で座っているかあるいは立っており、彼はただ頭部のオーラのみを有する。マリア自身は子供を礼拝せず、王たちが奉献している。
 羊飼いの礼拝を受ける子供は、水平に、裸で地面又は草の上に横たえられており、マリアも子供を礼拝している。

 ルか伝の誕生図の場合、画家たちは、この子は大地の上に裸であらねばならないと言っているかのようである。彼の自然性、無原罪の無力さ−地上へ信託された神の犠牲−が表現されなければならない。
 これに身体を取り囲む黄金の光輝が加わる。それはこの子供の神性を示す。この子は確か日常的には無力な存在であるが、まわりに光と暖かさをもたらす。

 クリスマスのこのルカ的表現様式は、あらゆる国に広がっているが、これには必ずしも忠実でなく、子供を直接そのまま地面に置かない画家もいる。彼らはただ、子供をオムツやマリアのマンとの布端に置いている。たとえば、マルティン・ションガウアー(1445-1491、図7)。

 これらの画家は、この世的な考えで子供をやさしく扱っているのだが、その際、あるものが失われている。それはイエスの周りの光の輝きである。あたかもこの世の物質的幕に眼が覆われてしまっているように、まなざしが地上的になるとき、霊を見る観照力が喪失するのである。神の子でもこの世的な仕方で保護を与えねばならないと思っている者は、イエスの本体が光と熱の実質であることを知らないのである。

 絵画の発展と共に、次第に光輝は、−デューラーでも同様だが−描かれなくなり、あるいは礼拝者の顔に反射する光の放射のように地上的な表現へと変わっていった。子供もめったに裸では表現されなくなり、飼葉桶、母の懐、ゆりかごの中に寝かされるようになる。かつてビザンチン様式において超人間的だったものが、人間的、小市民的になっていくのである。

 14,15そして16世紀の一時期に、絵画はその発展の頂点に達した。人間の内面を描いていても同時に宇宙的光輝を失ってはいない。この時期以前は神的なものが、それ以後は地上的なものが優勢となっている。 

 体の輝き、後光が頭部のオーラよりイエスの天上的性格をより強く示していることは、頭部のオーラが、マリア・ヨセフ、そして他の聖人たち、即ち人間、にも見られるのに、体のオーラは見られないことからも明らかである。
 王の礼拝を受ける子供も、頭部のオーラによって際立たされているだけである。

 ここで再びルドルフ・シュタイナーの言葉を引用しよう。彼は次のように語っている。ソロモンのイエスは人類史における偉大な霊的指導者であり、その高次の特性は地上での一連の受肉により獲得された。彼はいまや通常のこども以上の能力を示す子供として現れるが、やはり人間である。地上での生と死を知っているのである。

 これに対してルカ伝の子供は違う。彼は純粋な霊的実質を有している。彼の三重の外殻、身体・エーテル体・アストラル体は他の人間と異なり、堕罪、即ち地上の生による罪を受けていない。堕罪以前の状態に保持されているのである。このため、この魂は「アダムの姉妹または兄弟魂」と呼ばれる。その魂は人類と同じ古さを持ち、原初に神によって創造された時のままに純粋である。堕罪以前のアダムのようである。

 しかしこの子は一度も人間として生まれたことがないので、地上的な魂の諸能力はよく形成されていない。自己の固有性、「人格」を持たない天使のようである。根源的には古いが、受肉においては最も若い魂である。地上での生への渇望を抑え、キリストの道具として自己を備えたのである。

 この子供は、かつて人が知恵の木の実を取ることにより失った生命の木のみである。それは人類がかつて失ったものをもたらす。堕罪以後、年をとらずに成熟することは不可能となった。仏陀やゾロアスターのような賢人ですら、若さによる力の代償として自己の発展を得たのである。『ルカ伝』(第7講義)において、ルドルフ・シュタイナーは、エーテルについて次のように語っている。「エーテルは炎または熱のエーテルといわれる状態に始まる。第2は、光のエーテルまたは端的に光。第3の状態は、その根源的な姿では人間に現れることがなく、物質界では音響として現れる。第4は生命エーテル・・・」

 イエスの身体における炎のような放射状のオーラと頭部の静かな光のオーラはこのエーテルの最初のエレメントを表している。しかし地上の音がその影である音のエーテルも忘れてはいけない。ルカの誕生図には、歌うまたは音楽を奏でる天使たちが描かれている。生命は、裸の体により表されており、それは同時に温熱の表現でもある。

 以上のことを他の観点から定式化すると次のようになる。「ルドルフ・シュタイナー家電のマリアは彼女の子供を何か外から来た、彼女への神の贈り物のように拝礼しながら迎え、マタイのマリアは、これに対して、彼女の子供を懐に抱いている。またマタイの子供では、彼の両親との血のつながりが大きな役割を果たしており、それによってヨセフ、つまり男の世界が前面に出ている。たとえばマタイ伝では、天子の告知がルカ伝のようにマリアではなくヨセフに起きる。ルカの誕生図ではたいがい神が現れ父の役割を果たすのに対して、マタイの誕生図では、ヨセフ自身が果たしている。

 神は人になろうと欲したが、それには天のように純粋な存在だけでなく、深く豊かな地上体験を有する人格−ソロモンのイエスをも必要とした。ソロモンのイエスは、人類を救済するため、自己の全能力を犠牲とする用意をして、既に以前の受肉のときにアフラマズダという太陽エーテルオーラが救世主として地上に下ることを予言したのである。

 彼は救世主の半分であり、約12歳のときに自己の高次に発展した能力をルカのイエスという無現在の存在に捧げた。そして驚きのうちに世間は、ソロモンの少年の能力がナタンの少年に現れるのを見たのである。そしてそのイエスが30歳まで生き、最後の体験の準備を整えたところにキリストという太陽霊が下り、ソロモンのイエスはルカ・イエスの体をその霊に明け渡したののである。

 生命の木と知恵の木は分かれてしまった。人は一方を得て他方を失った。認識を得るには身体を犠牲にしなければならない。だからその両面から流れが合流し、地上での道具、身体・魂・知性をキリストに用意しなければならなかった。この両極−最も純粋な無原罪存在と最も成熟した地上存在の間に、超絶的な霊の火花が煌くのである。

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