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(回答先: 「戦い」は、われわれの「自然」である(中島義道) 投稿者 でんでん 日時 2004 年 10 月 31 日 14:29:28)
>つまり、人間は・…文化を完全に廃棄しニシンのように生きることを決しない限り・・・
>他人を攻撃する衝動、他人に勝りたい衝動を消し去ることができない。
>ホッブスは、この衝動をまるごと人間の本性=自然と認めた
中島義道は『カントの時間論』を読んだだけなんですが、広松渉の弟子?でもないのかな。(まさか同名異人だったらすいません。)
どういう本のどういう文脈か全くわからないんですが、これだけだといかにも日本的でウエットなホッブスの「誤読」としか取れないんで脱力してしまいますね。
この程度の厭世家の青二才でもやすやすと思いつくような「超歴史的真理」を語るために、ホッブスほどの智者が『リヴァイアサン』のような大著を書いたと思います?マジで。
そういえば宮台慎司が講演会で言っていたのですが、『リヴァイアサン』=ネオコンと勘違いしていたキャスターがウォルフォウィッツにインタビューしたら「んなもん関係あるわけないじゃん。バカじゃないの」と嘲笑されたということですが、似たような話ですね。
すこし「ネタ」な話をするとホッブスはクロムウェルのピューリタン革命など揺れに揺れた動乱の時代のイギリス(新教徒がアメリカの渡ったのもこのころです)からフランスに「亡命」したわけですが、ご当地ではデカルトとも面識がありました。(ものすごく仲が悪かったという説もありますが)イギリスに帰国してからの話ですがスピノザとも知己で書簡を交換してお互いに賞賛しあったという話もありますね。
ホッブスのいう「自然状態」というのは彼の人間観の現れ(一面)ですが政治論としては「理論的仮称」なわけです、あくまでも。ヒュームは「ホッブスの言っていた自然状態など実際に存在したこともないし、これからもあり得ない」と言い切っていますし、カントは自然権の放棄=社会契約についても、それはかく在るべしという「統整的理念であってゲネシス(起源)ではない」と言っています。
つまり(どんなに野蛮で蒙昧であろうが)自律的な共同体があったが(ヒュームじゃないけど、それなしに人間が生きてこれた訳がないだろうということです)、それがぶっ壊れて出てきた<群集=多数者>(スピノザ的に言えば)を近代国家(政体)の中にどう位置づけるかという問題なわけです。ホッブスは人間は平等で自己を確保する自然権をもつ、だから争いがあるんた、と考えたわけですが、いわゆる自然権の譲渡というのはあくまでも「契約」であって専制王や教会に隷属して保護を求めるのとは全然違います。とにかくホッブスは宗教(教会)が嫌いだった(笑)まず地上の国歌と神の王国を峻別し、信仰は内面の問題であること、なにが善きことであり、なにかをなし、なにかをなさない決める自由を権利として明確化した。個人は法=「自然権の合力」としての統治権のみに従うんだということです。この辺はホッブスの人間観のポジティブな所だと思いますが抵抗権も認めています。
ネグリこいけ...ってもういないか、ホッブス=悪 スピノザ=善と意図的に誤読したけどホッブスとスピノザの枠組みというのは非常に良く似ている、二人とも無神論、涜神論の巨頭、過激派として17世紀のオランダで『リヴァイアサン』と『神学政治論』は発禁処分を受けていますし。
日本的な文脈で行くと、いつも「自然権」と「契約」の問題がすっぽり抜け落ちて「人間は分をわきまえろ」とか説教臭い話や「結局強いものが勝つんだ」という安っぽいニヒリズムの権力合理化論などのくだらない話になってしまうわけですが。