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(回答先: 遣唐留学生の墓誌初発見 日中交流解明の一級史料(共同通信) ― 「日本」という国号あり 投稿者 シジミ 日時 2004 年 10 月 11 日 05:30:42)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
思わず耳を疑うようなニュースが中国から飛び込んできた。
8世紀前半に遣唐使の一員として唐の都・長安に渡り、その地で36歳で死んだ日本人留学生の墓誌が見つかった。長安のあった西安市で、現地の西北大学がそんな発表をしたのだ。
墓誌は死後、名前や役職を石に刻んで墓におさめたものだ。そこには、留学生が勉学に励んで官僚に登用されたこと、その死を惜しんだ玄宗皇帝が高い官職を贈ったことなどが記されていた。「井真成」という中国名も読みとれる。「井上」「葛井(ふじい)」といった日本姓を持つ渡来系の人物らしいとみられている。
当時の日本人の墓誌が中国で見つかったのは初めてだ。しかも、鮮明な文字である。本当に1200年以上も前のものなのか。そんな疑問もわくほどだ。
もうひとつ、今回の発見の価値は、「日本」という国号が出てくる最古の資料となる可能性があることだ。
「日本」という国号は、「天皇」という称号が定着する7世紀後半に使われるようになった。それが古代史の定説だ。しかし、日本でも、「日本」と書かれた最古のものは、8世紀半ばの役人の報告書しか見つかっていない。
古代の先進国である中国が、「倭」を「日本」と呼ぶようになった。そのことを確認できる意味も大きい。
日本が遣唐使を送ったのは、大陸の文化や国際情勢を学ぼうとしたからだ。それを受け入れた中国は日本という国を認め、立派な墓誌をつくるほどに留学生を遇していたということだろう。日中交流の原点というべき時代の姿が浮かび上がってくる。
日本に帰れなかった遣唐使としては、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂が有名だ。一度は帰ろうとしたが、船が難破し、再び長安に戻った。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という望郷の歌で知られる。
「井真成」は、仲麻呂と同じ717年の船で派遣されたらしい。仲麻呂の近くで、似たような人生を送ったのだろうか。故郷に錦を飾る日を前に、どんな思いで死んでいったのだろうか。
映画にもなった井上靖さんの小説「天平の甍」を思い出した人も多いだろう。日本で仏教の基礎をつくろうと、命がけで唐に渡った若い留学僧たちの物語だ。失敗を繰り返した末に、高僧・鑑真を日本に連れ帰った人もいれば、ついに帰国できず、異国で生を終えた人もいた。
今度の発表をした西北大は昨年、文化祭で日本人留学生の出し物が批判され、留学生たちが襲われた大学だ。
「古代の友好の歴史をかがみにしなさい」と言いたくて古代の留学生が出てきたのだろう。そう言うのは、発表に同席した平山郁夫・東京芸大学長である。
中国では墓誌が盛んにつくられた歴史があり、各地で発掘が続いている。仲麻呂の墓誌や日本人墓地が出てくるかもしれない。そんな期待もふくらむ。