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(回答先: グリーンスパンFRB議長が心酔するカルト占い師の問題作・遂に翻訳!アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 10 月 09 日 19:45:12)
http://snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi
副島隆彦の学問道場 「今日のぼやき」 会員および会員予定者用ページ [575]より
アメリカでは知らない人はいない、有名な小説家であり思想家である、アイン・ランドという女流作家の長編小説『水源』The Fountainhead、の日本語翻訳版がこのほど、ビジネス社から刊行されました。皆さん、どうぞお買い上げ頂いて、お読み下さい。
本日は、この長編小説の翻訳という偉業を成し遂げた、SNSI主要メンバーの藤森かよこ(アキラ)さんが、特別に寄稿して下さいました『水源』の紹介文を以下に掲載致します。アイン・ランドは非常に美しい女性だったそうですが(脚が綺麗だったそうな)、現存している写真も以下に何点か掲載します。
アイン・ランド『水源』----もうひとつの 訳者あとがき
藤森かよこ(桃山学院大学文学部教授)
アイン・ランド(Ayn Rand,1905-82) の最初の長編小説 The Fountainhead. (1943)の拙訳『水源』が、副島先生のご尽力のおかげで、やっと出版されました。ここに宣伝文がわりの小論を、「アイン・ランド『水源』----もうひとつの訳者あとがき」と題して、掲載させていただきます。
小説『水源』The Fountainhead.について
以下の引用文は、この小説の主人公ハワード・ロークHoward Roark が、彼の設計案を詐取した上に改悪までして建設された公営集合住宅を自分が爆破した行為について、弁護士もつけずに語った最終弁論の一部である。
「人種にせよ、階級にせよ、国家にせよ、ひとつの集団の『共通善』とは、人々の上に君臨するあらゆる形の圧制を正当化し、主張することでした。規律だの利他主義だのという名で犯されてきた大殺戮に匹敵するようなことを、いったいどんな自己中心的行為がしてきたでしょうか?規律だの利他主義だのという名で犯されてきた悪行は、人間の偽善に根づいているものでしょうか、それとも、その原則の中に根本原因があるのでしょうか?
最も恐ろしい殺人者とは、最も真摯な人間、大真面目な人々でした。この種の人々は、ギロチンや銃殺執行隊によって到達される完璧な社会を信じていたのです。誰も、この種の人々に殺人を行使する権利が君たちにあるのかと、問うことはしませんでした。だって、彼らは利他的な目的のために、人殺しをしていたのですからね。人間は、他の多くの人間のために犠牲にされなければならないという考えは、受け入れられていたのですからね。歴史の舞台が変わり、演じる者は変わっても、同じような悲劇は繰り返されてきました。それは、今にいたるまで変わりません。
万人に対する愛を宣言することで革命を始めた博愛主義者たちの行く末は、血の海でした。そんな悲劇は今も続き、これからも続くでしょう。人々が、無私な行為ならば、善なのだと信じる限りは。そんな信仰は、利他主義者どもが暗躍し、犠牲者たちにその悲劇を強制して耐えさせるような行為を許してしまうのです。集団的活動の指導者たちは、彼ら自身のためには何も求めず、自分自身をなくし、無私な心で人々を率いています。しかし、その結果はどうでしょうか。
人間が他人のためにできる唯一の善は、人間と人間が結ぶ関係、絆を表現する言葉とは、触れるな!干渉するな!でしかありません」(『水源』第4部18章、1014-1015ページ)
小説は、ロークがアメリカ東部の名門工科大学を退学になった1922年から、名実ともに天才建築家として認められる1940年頃までを時代背景としている。ロークは、地上の事物の形が気に入らない。それらを美しく変えたいから建築家になった。
自然という客観物の上に、人間は理性を駆使し労働し、創造したものを加える。そのような創造者たちの独創はその独創性ゆえに迫害されもしたが、人間の歴史は彼らの貢献によって進歩してきた。そのような独創は、創造者個人の「良きものを生み出したい」という個人的欲望から生まれる。その独創が他人のためになるかどうかは、その結果の派生的なものでしかなく、あくまでも彼自身が望むものを獲得したいという自己中心的な欲望が前提にある。
世間一般が賛美する利他主義や無私無欲は、そのものとしては何も生み出せない。だから、ロークにとって人間が自由意志で選択した生き方を抑圧し迫害する体制は、愚劣であり邪悪である。だから、個人主義は集団主義よりも優れ、自由主義は社会主義や共産主義や全体主義より優れ、自分中心主義は利他主義より優れているし、自由放任資本主義は、計画経済や統制経済より優れている。ロークは、彼の信念のまま行動し、孤立も貧困も恐れない。彼の生き方に共感する人々も少数ではあるが、彼のもとに集まる。
一方、世間の信頼と喝采を得る「良心的で高潔な知識人」エルスワース・トゥーイー Ellsworth Toohey は、権力欲の権化である。「伝統的美徳」である利他主義を賛美し、個人の価値は集団の利益=「共通善」に対する貢献度によって決まると提唱し、マスコミを操作し人々を組織して、ロークやローク的人々の社会的抹殺を図る。突出した才能を持つ自立した人間など、彼にとっては邪魔である。人々が集団を恐れ、自由から逃走し、集団に埋没すればするほど、トゥーイーにとって支配が容易になる。彼は、奴隷を支配することによって空虚な自己を支える支配者という「奴隷の奴隷」である。彼のもとには、彼のような人間が結集する。
簡単至極に述べれば、この小説はリベラリズムを善、共同体論を悪として、その善悪の闘争を描いたマニ教的寓話(ぐうわ)である。言うまでもなく、このリベラリズムとは本来の意味のリベラリズムである。一般的に言うところの大きな政府支持の福祉国家志向リベラリズムではない。「多様な良き生の理想を追求する人々がともに公平として受容しうるような基本構造を持つ政治社会を志向する」(井上達夫『他者への自由---公共性の哲学としてのリベラリズム』p.12)構想としてのリベラリズムである。
『水源』は、実によくできた寓話である。人間がある概念を認識するのに、物語形式は非常に有効だ。大多数の人間は、哲学的論理的記述では理解できない。どうしても「たとえ話」が必要なのだ。『水源』は、リベラリズムを善であるばかりでなく、「美」であり「真実」として描き、共同体論を悪であるばかりでなく「醜」であり「虚偽」として描くことによって、リベラリズムの大義を読者の感性に強く訴える。リベラリズムを真善美の極地として描き、それを具現する「英雄的」人間を造形するなどということは、物語形式でないと不可能だ。
ただし、『水源』はリベラリズム擁護の政治思想小説であるばかりでなく、ひとりの天才的建築家のアメリカン・ドリーム的成功物語としても、風変わりで、かつとてつもなく硬派な恋愛物語としても、ホモソーシャルな男たちの絆と愛憎を描く同性愛物語としても、アメリカの大義を高らかに謳う冷戦ロマンスとしても、またソ連的なるものをはらむアメリカという国の危うさをあぶりだす風刺小説としても、大いに楽しめる娯楽大作である。
この小説に描かれるリベラリズムのありようは、作者のアイン・ランド自身は「客観主義」(Objectivism)と呼んだものであるが、政治思想の文脈においてはリバータリアニズムとして分類されている。だから、彼女は、ミーゼスやハイエクやミルトン・フリードマンと並ぶリバータリアニズムの提唱者のひとりとして、目されているのだが、彼女自身は自らをリバータリアンと称したことは一度もない。
「客観主義」について
ところで、ランドが提唱する「客観主義」とは以下のような思想である----世界は人間の思惑とは関係なく存在する客観的な絶対物である。人間は、世界を認知し把握することができるが、それを創造することも変えることもできない。したがって、唯心主義や唯我主義はもちろん、超自然的なものへの信仰は否定される。
人間の理性(reason)とは、人間の諸感覚が捉えた物質をそれと確認し(identify)、他の事物と関連付け統合する(integrate)機能である。理性だけが、人間が絶対的客観物である世界に対処して生き抜く知識を獲得する手段である。行動への適切な指針である。
したがって、信仰や感情を知識獲得の手段とする神秘主義や、確実な知識は人間には獲得不能なものという懐疑主義は否定される。しかし、理性の行使は個人の選択にかかっている。人間が自らの人生や人格を形成し決定するもろもろの選択全ては、人間の頭脳(mind)の選択の自由によって決定される。したがって、人間は、神とか運命とか育ちとか遺伝子とか経済状況とかの犠牲者であるとする決定論はすべて否定される。
そもそも人間の人生の目的とは何か?それは、その人間の人生そのものである。人間は、合理的な自己利益のために働き、自分自身の人生という最高の道徳的目的としての幸福を達成しなければならない。したがって、他人や社会のために生きる自己犠牲を称揚する利他主義は否定される。
このような人間が他人と関わるありようは、「交易者」「商人」(trader)どうしのそれである。自由な、相互利益のための相互の合意による、互いの持ち物=互いが持っている価値あるもの(values)を交換しあう者どうしの関係である。搾取や横領を許さない関係である。これらを支持する経済体制は、自由放任資本主義である。
こうした「商人」どうしの関係を保護する政治体制は、夜警国家である。物理的強制力によって他人から価値あるものを奪う権利など誰にもない。政府とは、所有権を含む個人の諸権利を保護するためにのみある。したがって、集団の利益、共通善という大義をふりたてて、個人の生命と自由と幸福の追求を抑圧する全体主義やあらゆる形式の集産主義、集合主義(collectivism)は否定されなければならない。
このように、「客観主義」は、リバータリアニズムと経済的政治的立場は共通するが、「思想」というよりは、魂の領域と社会的政治的領域をリンクさせる「倫理」である。リバータリアニズムは、自由に生きるための条件として、何を個人が求めるべきか、どんな人生を理想とするのかを規定しない。制度の領域は問題にしても、魂の領域には踏み込まない。
しかし、ランドの「客観主義」は、理性の行使により自らの人生を十全に生きることを最高の道徳的目的とする思想であり、その思想を共有する諸個人によって成る社会は調和的なものになると考える。アメリカ有数のリバータリアニズム研究者で、かつアイン・ランド研究者でもあるクリス・マシュー・スカバラ(Chris Matthew Sciabarra)がAyn Rand:The Russian Radical.(Penn State University,1995) において指摘したように、「客観主義」には「神秘主義でも国家主義でもない、個人の道徳的自律を土台にした共同体論、もしくは共同体論者的欲望(communitarian impulse)」が入り込んでいる」(376)。彼女が自らの思想を、リバータリアニズムと認めたことはないのだが、それも当然なのだ。
アイン・ランドという作家
アイン・ランドは、第一次ロシア革命勃発の1905年に当時のロシアの首都ペテルスブルグの裕福なユダヤ系ロシア人家庭に生まれた。本名は、Alissa Zinovievna Rosenbaumである。
父親が経営する大きな薬局は国営化され、一家は困窮する。ソ連の体制から逃げるべく、渡米の機会を掴み、1926年に上陸しそのまま亡命した。ハリウッドでシナリオライターをめざしつつ、7年がかりで書いたのが『水源』であるが、彼女の文名を決定的にしたのは、執筆に14年を費やした大長編小説『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged,1957)である。
この小説は、寄生的人々の共同主義に汚染されていくアメリカを捨てて、主人公たちが新しいアメリカを建国するという一種のSF小説である。『水源』よりも、リバータリアニズムの表出は、はるかに濃厚な大作である。アメリカ人ですら、あまりの長さに途中で読むのを諦めるという大作である(この作品の詳しい梗概は、「日本アイン・ランド研究会」www.aynrand2001japan.comを参照していただきたい)。
『肩をすくめたアトラス』発表後のランドは、自らが提唱する「客観主義」を紹介、解説する論文執筆と講演活動に従事した。弟子であり25歳年下の(夫公認の)ランドの愛人でもあったナサニエル・ブランデン(Nathaniel Branden,1933-)が設立した研究所(Nathaniel Branden Institute)は、「客観主義」を広めるべく、アメリカやカナダの大学でセミナーを開き、講演会を企画し、会報を出版し、会員を増やしていった。
「客観主義」布教(?)活動も、それを支えた弟子たちの連携も、ブランデンがランドの女性の弟子と愛人関係になり、ランドの逆鱗に触れたことから、1970年代初頭には崩壊した。アメリカにおけるアイン・ランドへの関心の少なくない部分が、ランドと弟子たち=ランド教徒集団(Ayn Rand Cult)の確執・離反スキャンダルに向けられていることは否めない。
ランドの最高の女弟子でありナサニエル・ブランデンの妻だったバーバラ・ブランデン(Barbara Branden,1929-)は、1986年にランドの伝記The Passion of Ayn Rand (『アイン・ランドの受難』とでも訳すべきか) を発表し、この内容は真摯なランドの評伝なのだが、これがテレビ映画化されたとき、ドラマのほとんどは、「ランド教徒集団」のスキャンダルを中心に描かれた。愛人はナサニエルばかりでなく、現FRB議長のアラン・グリーンスパンもそうだったという説もあるが、事の真偽はわからない。
ランドは高名な作家となったのだが、その評価は一定していない。一般読者は彼女を支持し続けたが、アカデミズムからは無視され続けた。これだけ高名な作家ならば、名誉博士号を多くの大学から授与されるのが通常であるが、彼女に名誉博士号を与えたのは、オレゴン州のルイス&クラーク・カレッジだけである。この大学はオレゴン州では名門大学であるが、「全国区」とは言えない。
有名作家を招いて講演会を開くのが常の大学や中高一貫教育の私立学校(preparatory school)が、彼女を講演者として招聘することも、少なかった。実現した場合は、教授陣(Faculty)の反対を押し切って、理事会の強力なメンバーで寄付金も多く出している企業家の要請にしぶしぶ応じたから、という例が多かったようである(Tobias Wolffの2004年初頭に出版された自伝小説Old Schoolに、ランドの講演会を目撃したエピソードが、彼女とその弟子たちに批判的に描かれている)。
ランドの晩年は、印税収入で生活自体は安定していたが、ハリウッド時代に知り合った無名の美男俳優だった8歳年上の夫のフランク・オコーナーの痴呆の介護の苦労があった。しかし、最後まで向学心を失わず、数学の問題を解く練習をしたりした。晩年のランドがテレビ出演しているフィルムが残っているが、眼光の活き活きとした鋭さと、在米50年ほど経っても重いロシア語なまりが抜けないながら、その話し言葉はとつとつとしながらも、書き言葉のように論理的で簡潔であったことが、誰の目にも耳にも(?)見て取れる。ランドは、長年のヘビー・スモーカー(弟子たちはみな真似してヘビー・スモーカーになった)ぶりがたたったのか肺癌となり、1982年に死亡した。
日本人にとってのアイン・ランド
日本では長く未知だったアイン・ランドであるが、全く完全に未知であったわけではない。政治思想や法哲学の分野では、リバータリアニズムの観点からこの稀有な女性作家について論じていた研究者もいた。京都大学教授の足立幸男は、『転換期の福祉国家と政治学』(日本政治学会編、岩波書店、1989)に収録されている「人権と福祉国家──ランドの道徳・政治理論」において、アイン・ランドについて論じている。この論文は、『政策と価値──現代の政治哲学』(ミネルヴァ書房、1991)に再録もされている。また、ランドの弟子でもあったThe Ayn Rand Societyの会長であるアリストテレス哲学研究者アラン・ゴットテルフ(Alan Gotthelf)が1994年に日本を訪問し,東大,慶応大,神戸大,京大,北海道大で講演し,ランドについても言及した。
しかし、この作家の名前が、一般読者に知られるようになったのは、副島隆彦氏の名著『世界覇権国アメリカを動かす政治化と知識人たち』(講談社α文庫、1999)、およびこの本の前身である『現代アメリカ政治思想の大研究―〈世界覇権国〉を動かす政治家と知識人たち』(筑摩書房、1995)の功績による。アイン・ランドという英語圏では重要な作家であり思想家であり、かつ神経症的な感受性ばかりが無駄に無意味に鋭敏なくせに、やたら偽善的な、いわゆる「女流作家」というものの枠をぶち破る骨太さと破天荒さを持つこの女傑が、なぜ日本では副島の紹介まで、実質的には知られざるままだったのだろうか?
敗戦後の日本の知識人のメイン・ストリームは、岩波書店に代表される「文化左翼」もしくは「心情文化左翼」だった。読書を習慣とする高学歴の日本人は,その戦後の知的風土に育まれて,多かれ少なかれ,社会主義国家への肯定的な幻想と反米/嫌米/反資本主義的心情をつちかって来た。その心情左翼風土は、1990年代初期あたりまでは濃厚であった。冷戦終結後、ソ連や中国などの共産圏に対する美化、ロマン化傾向は小さくなったが、左翼的心情は依然としてアカデミズムの中に色濃く残っている。こうした従来の知的風土において、ランドの小説や思想は、アメリカの極右的言説として、読まれる価値のないものとして処理されたのだろう。
冷戦期の国民作家らしく、名門士官学校ウェストポイントの卒業式祝辞を依頼されたこともあるランドには、保守、右翼、タカ派というイメージがつきまとってきた。日本人には,ランドはあまりにも政治的な作家であったのだ。
また、ランドの思想は、戦後日本の知的風土ともあいいれないと同時に,日本人の伝統的精神風土ともあいいれない。日本の政治/経済体制が,資本主義の顔をした社会主義/共産主義であることは、多くの研究者によって指摘されてきた。と同時に、日本にモダニズムが根づいていないこと、国民に真の近代的精神が内面化されてきていないことも、よく指摘されてきた。『水源』の主人公ハワード・ロークやドミニクや、ロークの周りに集まる男たちの関係と、彼らや彼女が生きる姿勢は、ふやけた共依存と曖昧な自己韜晦(じことうかい)を愛と呼び、助けあいと呼び、優しさとか癒しと呼ぶ日本人には、清冽(せいれつ)で苛烈に過ぎる。
また、「自らが自らの力で為すこと=仕事を通してしか人間は、人間としての生を充填できないし、そこにしか尊厳がない」という徹底した現実的な有能さによって自らの価値を判断するプラグマティックな資本主義的精神の潔さというものは、日本人には「冷たく」「計算高く」思えてしまうのだ。これほどに世界と他者に優しい行為、心的態度もありえないのに。
アメリカの草の根の国民の倫理と美意識(=人間はいかに生きるべきか)の形成と維持に大きく関与してきた小説を書き、60年代に「客観主義運動」(Objectivism Movement)という一大ブーム(公民権運動ばかりがアメリカの60年代ではない)の中心となったアメリカ国民作家、大衆思想家アイン・ランドを知らないできたこと、読まなかったことは,日本人のアメリカ理解に大きな空白を残して来た。アメリカの高校生や大学生は、ランドの小説を通過して社会に挑んでいく。彼女の小説を通過した人間たちに、負け犬の遠吠え的哀愁に満ちたブンガクや世界の中心でウロウロと過去にこだわるようなひ弱な物語しか通過していない人間が、太刀打ちできるはずがないのだ。
私は翻訳という作業など大嫌いだ。ついでに小説を読むことなど極個人的な娯楽でしかないと私は思っていたから、誰にも小説など推薦したことがなかった。しかし、『水源』だけは、絶対に私が訳さなければならないと思った。これだけは訳さなければ死ねないと思った。苛々とするほど切実に、焦燥(しょうそう)のように、他の人々にも、多くの人々にも読んでもらいたいと欲した。『水源』は、あなたの魂を変えます。日本人の魂を変えます。ロークやドミニクやロークの仲間の男たちのような生き方を心に刻む人間が日本人の二割を占めれば、日本は変わると、私は信じている。
藤森かよこ
アルルの男・ヒロシです。
このランド女史の一連の小説については、副島隆彦がすでに『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)の中で次のように紹介している。
(引用開始)
『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(294頁)
リバータリアニズムについて、ここでまとめて再説しよう。
まず、リバータリアンには全体をまとめる人物がいない、と言うことから述べよう。リバータリアンは、もともとがインディヴィジュアリスト(個人主義者)であり、それも「極端な個人主義の立場」である。そういう人たちを一つの政党にまとめ上げるのは至難の業である。
だから、アイン・ランド女史 Ayn Rand(1905−82)が『ファウンテンヘッド』(源泉)the Fountainhead (1943年)、『アンセム』(賛歌)Anthem(43年)、『アトラス・シュラッグド』(肩をすくめるアトラス)Atlas Shrugged(57年)など、評判の高い一連の著作で50年代から唱導して徐々に支持者を増やしていったが、政治勢力を作るまでには至らなかった。
アイン・ランド 『肩をすくめたアトラス』(1957年)
Ayn Rand ; "Atlas Shrugged,1943"
彼女の小説で最もアメリカ国民に親しまれているのは、『ファウンテンヘッド』であり、今でも、アメリカの多少とも知的な大学生であれば、この本は必読書である。どうして、未だに日本の知識人で誰ひとりとしてアイン・ランドを論じるものがいないのか、不思議である。要するに英語力がないのだろう。この『ファウンテンヘッド』は、ゲイリー・クーパー主演で映画にもなっている(49年製作)現在、「アイン・ランド協会」が活動を続けているが何派かに分裂して争っているようである。
『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(294頁)
(引用終わり)
アルルです。
まさに上の文章で紹介されている、アメリカの知的水準の高い学生達にとっての必読書(マスト・リード)になっている小説が、今回、翻訳されて日本の読者に贈られる、この『水源』です。
藤森かよこさんは、関西の桃山学院大学の教授として米文学の研究を続けるかたわら、ご自身でも、「日本アイン・ランド研究会」を結成し、ランド思想の日本国内での一層の認知に奮闘されています。
アイン・ランドによる原文は非常に難しい英文で書かれており、これまで翻訳が出なかったことの理由は、英語力の問題にある、という副島隆彦の指摘は頷(うなづ)けるものです。
しかし、今回、藤森さんの尽力により、日本の一般読者層もランドの思想に触れる事が可能になりました。その意味で、今回の『水源』の日本語版の登場は非常に画期的であり、重要な一歩といえます。
副島隆彦が先日の「真実の暴き講演会」でも話していたように、ランド女史はロシア出身の亡命ユダヤ人の家系であり、若い頃の、アラン・グリーンスパン(現FRB議長)もランドの愛人(恋人)でありました。当時のニューヨークでは、ランド女史を中心にした、ユダヤ人の知的サークル(サロン)が形成されていたわけです。
ここにおいて、「リバータリアニズムというのは、実はユダヤ人の一つの鮮烈なる生き方であった」という重大な命題が出てきます。
現在のアイン・ランド協会(Ayn Rand Institute)の機関誌などを読むと、ランディアンたちの中には、イスラエルの防衛を徹底的に主張する人々もいると言うことが判ります。
「アラブ社会(なんかずくパレスチナ)は専制国家であり、中東における唯一の自由主義国家であるイスラエルに倫理的には対等であり得ない。アメリカが自由主義の国であるイスラエルを支援することは当たり前である」と言う風に考えているようです。
現在のランディアンの中には、リバータリアンといえども、イスラエルの国益を重視するという点において、ネオコン派とも思想的には共通性をもつ過激なシオニズムを信奉している人々もいるようだ。
派閥が様々に分かれているというのはまったく本当だ。こういう点は政治思想というものの面白いところだと思う。
http://www.aynrand.org/israel/israel_sept_2002.pdf
最後に『水源』から、本の中に掲載されている実際の「訳者あとがき」も、今回一緒に転載します。上の特別寄稿文と合わせてお読み下さい。私もこの本を読むのが楽しみです。
アルルの男・ヒロシ 拝
■□『水源』から転載はじめ■□
訳者あとがき(藤森かよこ)
一九九八年にアメリカの大手出版社ランダムハウスの一部門モダン・ライブラリーが実施した一般読者投票「(英語で書かれた)二〇世紀の小説ベスト100」の第一位と二位と七位と八位を、アイン・ランド(一九〇五〜八二年)の小説が占めた。第一位は、『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged)であり、第二位が本書、水源、(The Fountainhead)であり、第七位が『讃歌』(Anthem)であり、第八位が、『我ら、生きる者』(We the Living)であった。
また、この調査に先駆けて、モダンライブラリーから依頼され、同年にラドクリフ大学の出版界進出希望者課程(Publishing Course)が調査した「(英語で書かれた)二〇世紀の小説ベスト100」においては、ランドの小説は第四三位(『水源』)と九二位(『肩をすくめたアトラス』)に選ばれている。
アイン・ランドとは、このような作家である。なぜ、日本ではアイン・ランドとその作品の紹介が、かくも遅れてきたのか、この長い小説を読み終えた方々には、その理由の一端が理解できるのではないだろうか。
この小説は、ハワード・ロークという建築家のサクセス・ストーリーでもあるし、ロークとドミニクという、とてつもなく硬派で風変わりな恋人たちの物語でもあるし、ロークを中心としたワイナンドやマロリーやマイクやキーティングや、そしてトゥーイーをもめぐるホモソーシャルな男同士の絆と愛憎を描く一種のゲイ・ストーリーでもある。
しかし何よりも、この小説は政治思想小説である。
ハワード・ロークは人間を肯定する。人問の理性を信じる。人類の歴史を肯定する。人間の非力を嘆かない。原始状態から文明を構築したのは、摩天楼のような華麗雄大な事物を現前させた刀は、大海原を航海する船や大空を渡る飛行機を造ったのは、神でもなく自然でもなく、人問の知恵と力だ。
ロークは、地球にある事物をより良く美しく変えたいと思う。だから建築家になった。ロークは考える。人問の生命を燃え立たせるのは、より良く生きたいという人問の欲望である。その欲望こそが人間を奮起させ社会を進歩させてきた。
他者への貢献は、その自己肯定的な自己中心的欲望の達成のたまたまの派生物でしかなく、それそのものは目的とはならない。無私無欲の利他主義は断じて美徳などではない。無私無欲では何も作り出せない。他人に提供するに値するようなものは生産できない。
世間一般で言う利他主義とは、他人の「より良く生きたい欲望」の成果をただで掠め取りたい怠惰で無能な寄生虫の自己弁護の思想なのだ。もしくは、何かを生み出せる自分を持っている人間に対して、自分自身の中から湧き上がるものがない空虚な人間が抱く嫉妬の思想なのだ。
ロークは説く。そうした個人の「自分が選んだより良い人生を生きたい」という欲望とその実践を抑圧する社会体制、つまり個人の選択の自由を認めない社会体制は愚劣であり邪悪である。個人主義は、集団主義より道徳的に優位である。自由主義は、社会主義や共産主義や全体主義より道徳的に優位である。自分中心主義は、利他主義より道徳的に優位である。自由放任主義は、計画経済や統制経済や保護経済より道徳的に優位である。
利他主義と集団主義と社会主義を唱える社会改革者であり「優しい顔と声で自己犠牲を称揚する社会の良心」であるトゥーイーは、マスコミを操作し人々を組織して、ロークの社会的抹殺を画策する。トゥーイーは、「より良く生きたい」欲望そのものが欠落しているがゆえに、自分自身だけでは充足できない。だから彼は、他人の是認を大量に必要とする「権力者、支配者という名の奴隷」になるしかない。『水源』においては、奴隷を必要としない自由で独立した個人と、奴隷によって支えられる支配者という名の奴隷と、単なる奴隷が、数々の闘いを繰り広げる。『水源』とは、このような政治思想小説である。
この小説について、「欲望とは他者の欲望でしかない。個人の主体性などない」とか、「近代的個人という幻想を誇大妄想的に掲げるアナクロ自由主義思想のおとぎ話」とか、「よくできた冷戦ロマンス」とか、「カウボーイ資本主義擁護メロドラマ」とか「『白い巨塔』の建築家ヴァージョン」とか言い立てるのは簡単である。しかし、そう言ってこの小説を嘲笑することができるほど、日本人は、「近代的個人」であろうと試みたことがあるのか?
主体など幻想だと何度言われても、私が生きることができるのは、私自身の生だけなのだから、私は私の主体になるしかない。また、日本人は冷戦状況の根源にあった大きなふたつの対立する思想を、今なお決着のつかない問題を、自分の頭と心で考え抜いたのだろうか?アメリカの傘の下の資本主義経済体制の恩恵を受けているくせに、反米サヨクごっこに終始して、そのくせアメリカから自立した日本など想像もできないほどアメリカに心理的に依存しているのが日本人ではないのか?そもそも日本人には、より良く生きたいという熱い欲望があるのだろうか?
アイン・ランド(本名はアリッサ・ロウゼンバウム)は、第一次ロシア革命勃発の一九〇五年に、当時のロシアの首都ペテルスブルク(旧ぺトログラード、旧レニングラード、現在のサンクト・ペテルスブルク)の裕福なユダヤ系ロシア人家庭に生まれた。父親は大学で化学を専攻し大きな薬局を経営していたが、革命によって薬局は国営化された。
以後ランドの一家は困窮し辛酸をなめる。ランドは、ペテルスブルク大学卒業後は映画学校に入りシナリオ作家をめざす。シカゴに移民した親類を訪ねるという理由で、念願の渡米を決行する。この渡米は、両親も承知の最初から帰国する気のない亡命だった。
二六年の二月にニューヨークに上陸。このとき、アメリカ風にアイン・ランドと改名した。シカゴの親類の家に居候中は、新聞売りやウェイトレスや店員などの職を転々とした。英語の勉強を兼ねての映画館通いだけが慰めだった。
同年の夏にハリウッドに移る。ハリウッド三大監督のひとりセシル・B・デミルと知り合い、エキストラや衣装係となって、念願の映画界に入り込む。二九年には、無名の俳優フランク・オコーナーと結婚し、三一年に晴れてアメリカの市民権を獲得する。
ところで、三〇年代のアメリカは大恐慌時代の「赤い十年」である。資本主義経済への幻滅から、社会主義が現状打破の思想として期待された時代である。ソ連の社会主義の現実を知っていたランドにとって、この風潮は苦々しいものであった。採用されないシナリオを書きながら、ブロードウェイでも上演されるぐらいに多少は認められた劇作品を書いたりしながら、七年がかりでランドは長編小説を執筆する。
この作品は、12の出版社に拒絶された末に四三年に出版されたが、出版後すぐに絶版の憂き目を見た。しかし、この作品は口コミで読まれ続け、四九年にはゲーリー・クーパーとパトリシア・ニール主演で映画化された(邦題は『摩天楼』)。これが、本書『水源』である。
しかし、ランドの文名を名実ともに決定したのは、執筆に一四年を費やして五七年に出版された大長編小説『肩をすくめたアトラス』である。これ以後、ランドは小説を書かず、自らの思想「客観主義」(Objectivism)を整理し深める論文が著述の中心となった。その中でも、六四年に出版された『わがままという美徳…利己主義の新しい概念』(Virtue of Selfishness:A New Concept of Egoism)は、前述のランダムハウスによる一般読者投票「(英語で書かれた)二〇世紀のノン・フィクションベスト100」の第一位を獲得している。
ともあれ、ランドの小説や論文は、四〇年代後半から六〇年代のアメリカの若い読者に熱狂的に受け入れられた。彼らや彼女たちは、「ランディアン」(ランド教徒)と椰楡された。ランディアンの中には、連邦準備理事会(FRB)の議長を長く務めるアラン・グリーンスパンもいたのである。
七五年にランドは肺ガンの宣告を受け、八二年に亡くなった。その激しい気質と神がかり的な独断的姿勢もあいまって、彼女とその作品に対する起居褒貶(きよほうへん)は激しい。しかし、ランドの作品は今も読まれ続けている。ランディアンたちは今も生まれ続けている。特に、本書『水源』と『肩をすくめたアトラス』を読むことは、知的なアメリカの若者にとっては一種の通過儀礼なのだ。
シナリオ作家を夢見て21歳でアメリカに亡命したユダヤ系ロシア人女性が、アメリカの国民作家になったのである。ランドは、「アメリカの夢」を体現した稀有な女性であり、作家である。ランドについて関心のある方は、私が主宰するウェッブサイト「日本アイン・ランド研究会」(http://www.aynrand2001japan.com)を御覧頂きたい。
本書を翻訳するにあたって、実に多くの方々から御助言や励ましをいただいた。ここですべての方々のお名前を記すことができないのは、残念であり申し訳ない。しかし、評論家の副島隆彦先生への感謝の言葉を省くことだけはできない。私がランドを知ったのは、先生の名著『世界覇権国アメりカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)による。
副島先生は、面識もない私の本書翻訳の切望を御理解くださり、日本における版権所持者ビジネス社との橋渡しをしてくださった。先生の叱咤激励がなければ、私の翻訳作業はもっと遅れていたに違いない。
また、ミーゼスやハイエクやフリードマンと並んでランドが提唱したとされる(彼女自身はそれを認めていないのだが)個人の選択の自由と自由市場と制限された政府を支持するラディカルな自由主義思想である、リバータリアニズム、(libertarianism)に関するアメリカ有数の研究者であり、アイン・ランド研究者でもあるニューヨーク大学研究員クリス・マシュー・スカバラ博士(Dr. Chris Matthew Sciabarra)には、原作の英語表現や固有名詞について丁寧な御教示をいただいた。
このおふた方には、心からお礼を申し上げる。ビジネス社社長の岩崎旭氏には、本書の出版にあたって御世話になった。この場を借りてお礼を申し上げる。
この小説が多くの日本人に受け入れられるのならば、日本の未来にも可能性がある。
二〇〇四年六月 藤森かよこ
■□『水源』から転載おわり■□
藤森かよこ
桃山学院大学 文学部 教授
【専攻】
アメリカ文学
【現在の主な研究テーマ】
アイン・ランド、フェミニズム、ニューヨーク知識人
【主な著書・論文】
「冷戦とフェミニズム」(『英語青年』2000年2月号)/ 『抵抗する読者』(共訳・ユニテ)/ 『フェミニズム歴史事典』(共訳・明石書店)/ 「シャーウッド・アンダソンの文学」(共著・ミネルヴァ書房)/ 『冷戦とアメリカ文学』(共著・世界思想社)
藤森かよこの「日本アイン・ランド研究会」
http://www.aynrand2001japan.com/
<アイン・ランドの主な著作>
小説
We the Living(1936)
Anthem(1938)
The Fountainhead(1943)
Atlas Shrugged(1957)
評論・エッセイ
Capitalism: The Unknown Ideal (Signet Shakespeare)(1966)
For the New Intellectual(1961)
Introduction to Objectivist Epistemology(1967)
<アイン・ランド関連の映像作品>
The Passion of Ayn Rand (1999)(ランドには批判的)
Ayn Rand: A Sense of Life (1998)
The Fountainhead (1949)