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(回答先: 日本アンダーグランドシーンその露出身体の復権と諸問題 投稿者 愚民党 日時 2004 年 9 月 26 日 18:04:28)
愚民党さん、こんにちは、横レスにて失礼します。
そして、これは【記憶と重力http://www.asyura2.com/0406/war60/msg/520.html投稿者 愚民党 日時 2004 年 9 月 26 日 11:29:12】に重ね合わせてのレスです。
先ず愚民党さんへの応答として、私は、やはり済われるべきは我々ではなく、我々人類に潜む“選民”に他ならず、彼らが“ゴイム”として別つ我々こそが選民を済う主体であるとの感を深めつつあります。そして、ゴイムが自らの存在価値に覚醒し存在意義創造の当為に及ぶことはゴイムにとっての幸不幸の問題に収まらず、真実すなわち宿命的課題の探求を意味するものと考えています。さらに、その経験は必ずやエイリアンでさえも済度していくことに繋がっていくものと信じます。
ところで、最早舞台はゴイムにたいする慰めや癒しの状況ではなく、況してや選民への献納の状況でもない、ゴイムの覚醒の次元にあると想っています。私はそれを最近の邦画『誰も知らない』(是枝裕和監督)を観ながら強く意識しました。映画の後半部分では日常性に潜む特異点が鋭利な恐怖となって観る者に迫って来ます。そこには「アノミー(無規範の状態)の牢獄」と「覚醒できぬ囚われた人間の群」があり、宮台真司氏が叙述しているような「どこかに行けそうで、どこにも行けない」というゴイムの存在状況がありました。
アノミーであるからこそ、此其処に多様な檻を敷設しなければ心は平安ならぬと云うのが、現選民の心象風景ではないでしょうか。しかし、ゴイムにとっては、檻の外はさらに大きな檻の内側であることに変わりありません。このままでは、ゴイムの方行には、催眠にかけられたまま遺棄される、つまり棄民としての末路が待ち受けているだけでしょう。
私は映画や舞台の生成がゴイムにとって自らの存在状況に対峙するためのモメントであって欲しいと望んでいます。そこから、ゴイムによる選民とその下僕達を済うという人類の大いなる挑戦が始まると夢想しています。そして、おそらくここ日本においてはその担い手を1947年〜1954年生まれの世代に求められるだろうと、想っています。確かに70年を境に内ゲバや分派闘争を繰り返してきた在来の運動体の中(うち)に求めるのは困難かも知れません。しかし、べ平連やノンセクト・ラディカルを標榜したり、島流しになることもなく70年代をやり過した人達の中には、今も尚自らのエネルギーのラディカルな投入先を求めてやまない連中が必ず多く存在すると確信してもいます。
固より選民がゴイムを抱(いだ)こうとするはずがありません。逆に、ゴイムこそが選民を、そしてゴイムを抱くことができるのではないでしょうか。
しかしながら、我々は信じるに足るような確固たる重力の記憶もメルクマールとすべき思想も現状は持ち合わせてはいません。にもかかわらず、この廃墟とも砂上とも言い表しようもない地平に選民救済の橋頭堡を築いていかねばならぬでしょう。それはゴイムの新たな存在理由の発見であり、存在意義の創造なのですが、まさに狂気のなせる業に他なりませんし、そのためにはゴイムによるゴイムの存在状況の自覚こそが枢要な契機になると思量します。その後(のち)は、済われたいと望まぬ存在を済おうとする、謂うなれば自らを狂気・妖気と化さねば立ち向えないような次元に突入することになるでしょう。
愚民党さんという既に先行している身体性の問い掛けにたいし、必ずや少なくとも1947年〜1954年生まれの世代は呼応すると信じています。でも、もう暫らくは潜行していてもよいのではと考えている次第です。
愚民党さん、そのときまで、いろいろと嘆くことはありながらも、互いにしぶとく生きていきましょうよ。
また、会いましょう。