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(回答先: 映画「オランダの光」と映画「アメリカの光(?)」 投稿者 鷹眼乃見物 日時 2004 年 11 月 26 日 20:34:08)
鷹眼乃見物さん どうもです。
>やはり、“オランダの光”が最も輝いた時はレンブラントとフェルメールの17世紀、
>つまり近世オランダの黄金時代です。
あえて蛇足を承知で付け加えれば伝記作家ヨハネス・コレルスの言を信ずるならばフェルメールと同じく1632年にバルッフ・スピノザもこの世に生を受けた事になります。さらにスピノザ7歳の時、アムステルダムの彼の生家からヨーデンブレー通りの沿って100メートル足らずの家に33歳の画家が引っ越して来たという記録があります。誰あらぬレンブラントその人。
スピノザ、レンブラントの書き残したものに互いの名前は見出せませんが、21年に渡って、いわば同じ「町内」に住んでいたことはほぼ間違いないようです。
さらにトリビアな話(笑)を続けると1660年、レンブラントは破産し、スピノザはユダヤ教会から破門されほぼ同時に、この町を去ることになりますが、スピノザが居を移したライデン(レインスブルグ)こそレンブラントの生地に他なりません。
スピノザはレコンキスタによってイベリア半島を追われたマラーノ(豚)と呼ばれたセファルディ-ユダヤ人の末裔であったわけですが、17世紀の「オランダの光」をもたらした物が東インド会社は言うまでもなく当時の徳川幕府との独占貿易に見られる世界交通の場としてのアムステルダムであり、その中心に彼らユダヤ人(アシュケナージも含め)がいたということにならないでしょうか。
当時のアムステルダムにはあらゆる人種、あらゆる言語が飛び交っていた。またガラス産業という先端テクノロジーの中心であり、そうした「オランダの光」の中でフェルメールが「窓=光」を描き、スピノザがレンズ磨きを生業としたのも、これまた何かの因縁(笑)
「オランダの光」が急激に収縮していくのがチューリップ恐慌による不景気と貿易の不振、さらにフランス軍の侵入だったのですが、オレンジ公とカルヴァン派教会への権力集中を警戒し軍備の拡張に反対したスピノザの庇護者にして盟友であった共和派のデ・ウィット兄弟が、軍事的敗北に激怒した群集に嬲り殺しにされる事件が象徴的です。「破門、戦争、圧制、反動、それが自由であるかのように自ら隷属を求めて闘う人々、まさにそうした否定的なもののかたちづくる世界にスピノザは生きていた」(ジル・ドゥルーズ)
スピノザの著作は悉く発禁となり匿名での出版も不能になったばかりか、本人も暗殺の危機に遭遇し、その時ナイフで切り裂かれたマントを死ぬまで手放すことはなかったようです。しかし失われた可能性「オランダの光」はスピノザの「大いなる自然の肯定」として辛くも生き延びたのであろうと思っています。
>Morgan Spurlock 監督が自分の身体を実験台として検証した恐るべき映画(1ヶ月間、
>毎日、毎日、三食ともマクドナルドのハンバーガーだけを食べ続けるとどうなるか?)です。
これは森永卓郎氏が「年収300万...」を書くときに試されたようですが、「手足に震えがくる」そうです。(笑)