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母性とフェミニズム
6 フェミニズムの陰謀
(4) アマゾネスの陰謀
( 『家族破壊』徳間書店、第三章 )
性の自己決定論がもたらすもの
フェミニストのあいだで「自己決定」という言葉が幅をきかせている。女性が自分で自分のことを決める権利を「自己決定権」と言うのだそうな。そんなものはとっくの昔から憲法で保証されているはずではないのか。いやいや彼女たちが要求しているのは、単なる抽象的な「自己決定権」でもなければ、「自己決定」原理だけでもない。具体的な内容をもった「新しい決定権」「新しい選択」を認めよという要求である。
たとえば、オーストラリアでは、キャリアウーマン四人が、メルボルン市内の産婦人科病院に、それぞれの卵子を凍結保存しているという。その目的とは、三十歳代のこの四人は当面は妊娠を望んでいないが、今後年齢が高くなって妊娠の可能性が低くなるのを懸念し、「理想的な父親候補の出現」時に妊娠を可能にするためだそうである。「子どもを産むことの自由選択」「自己決定」の主張はここまで来ているのである。この主張を現実のものにしているのが、人工授精や体外受精の高度な技術である。
フェミニストたちは「産む産まないは女性の自由」というスローガンを掲げているが、「産む産まない」を女性だけで決めてよいというのが思い上がりだという点は別にしても、「性の自己決定」という原理は本当に正しいのであろうか。
性とは個人とも関わりを持つが、しかし単なる個人の所有物ではなく、人類という種とも深い関わりを持っている。性のあり方によって人類の未来が変わってしまうかもしれないという重大な問題をはらんだ領域である。それをまったく個人の自由にまかせていいのであろうか。
「選択肢が増える」というピル正当化の論理
「性の自己決定権」が実現された典型的な例がピル解禁である。ピル解禁を正当化する論理は「女性の選択肢が増える」である。望まない妊娠をしなくてもよい、望まない中絶をしなくてもよい、妊娠を気にしなくてもセックスができる、避妊の確実な方法を手に入れることができる、等々。「女性の選択肢を増やす」というと聞こえがいいが、要するに「女性にとって都合がいい」「女性の利益になる」ということである。
ピルとは、人間の身体的・生理的営みを力でコントロールしようという近代西洋思想に基づいており、性という宿命から科学技術の力で解放されようという思想である。そのような「神をも恐れぬ」欲望を「自己決定権」の名のもとに実現したのがピルである。リスクは自分で負えばよいというのだから、自己責任の原理も持っている。しかしこの自己決定と自己責任はあくまでも個人のレベルでの話である。
個人のレベルでは自己決定と自己責任にまかされているピル服用も、人類全体の運命という観点からは別の問題が出てくる。すなわちピルが環境ホルモンとなって蓄積され、人間の男性を含めた生物のオスをメス化してしまうという問題である。この問題は人類または地球生物全体、すなわち地球上の生命全体にとって何を意味しているのかという視点から考えると、由々しき大問題だと言わざるをえない。このように「全体」という視点を入れてくると、「自己決定」ということを個人のレベルだけで考えることができなくなるのである。「自己決定」を自分だけでしていればよいということではなくなる。つまり「自己決定」が他者に対してどのような影響を(とくに悪影響を)与えるのかという配慮が必要になる。それなしの「自己決定」は、単なるわがままと無責任でしかない。
「迷惑をかけない自己決定」はありえない
そこで「迷惑をかけない自己決定」という概念が登場することになる。たとえば、宮台真司は『<性の自己決定>原論』の中で「自己決定権」とは「迷惑をかけなければ何をしてもいい権利」と定義している。「迷惑をかけなければ」と言うことによって、一応モラルの枠をはめたようなふりをしているが、しかし「迷惑をかけなければ」というのは、じつは何も言っていないに等しいのである。というのは、彼は「迷惑とは何か」について何も言っていないからである。
「迷惑」とは主観的な概念であり、受ける側が「迷惑」だと感じても、与える側が「迷惑」を与えていないと認識している場合もある。たとえば私自身よく経験することだが、私が「迷惑」だと感じたことに抗議すると、相手が「俺は迷惑をかけているとは思っていない」「こんな程度で迷惑だと言う方がおかしい」と反論する。私が「迷惑を受ける方が迷惑だと言えば迷惑なのだ」と反論すると、「迷惑だと言っているのは、お前一人ではないか」と言われる。私は「一人でも迷惑だと言えば迷惑なのだ」と言う。相手は「一人だけで迷惑だと言うのはわがままだ」と言う。このように、結局「迷惑」の定義について決着のついたためしはないのである。
この例からも分かるように、「迷惑」という言葉そのものが曖昧な意味を持っており、客観的に定義することのできない概念である。したがって「迷惑をかけなければ」という限定はとうてい客観的に意味のある限定だとは言えないのである。
「迷惑」という言葉では主観的で曖昧だというので、もっと客観的な概念にしたいと思えば、「害」とか「傷」という言い方をしなければならないが、それも身体的または物理的な「害」に限らなければならなくなる。というのは精神的・心理的な「害」や「傷」はやはり客観的に確認することができないからである。
また相手がどの範囲の人たちであり、どの程度・どの性質の「害」を考えればよいのかもはっきりしない。目の前にいる一人が問題なのか、人類全体のことまで考えなければならないのか。言い換えれば、「迷惑をかけなければ」という場合の「迷惑」の中に、地球規模での他者への影響ということを入れて考えなければならなくなるのである。人類全体のことまで考えたら、どんな行為でも他人に迷惑をかけている可能性がある。そういう可能性という曖昧なことではなくて、はっきりした証拠があり、重大な悪影響を与える例が、ピルによる環境ホルモンの拡散・蓄積である。ピルは「自己決定権」によっては正当化できない選択肢なのである。
性を支配しようとしたアマゾネス
そもそも女性に産まれたという宿命を力づくで免れようという考え方そのものが問題なのではないのか。その考え方そのものも、またその考え方がおかしいのではないかという問題意識も、すでに古代ギリシアの社会に存在していた。それは神話の中に語られているアマゾネスの物語である。それは現代にも通ずる教訓を示している。
女性に生まれたという性の宿命を否定しようとした、あるいはその宿命を極小にしようとしたのが、古代ギリシアの伝説上の女性軍団アマゾネスである。彼女らは全員武人として戦闘と狩りを好み、弓の名手であったが、弓を引くのに乳房が邪魔だというので、右の乳房を切り取ってしまった。アマゾネスの名の由来は、a(否定辞)+mazos(乳)からきており、すなわち「アマゾーン」とは「乳なし」という意味なのである。
彼女らの社会には男は存在せず、子どもを産むためには、他国の男性たちを招いて交わった。すなわちセックスは子を生むための最小限の機能にまで極小化されていた。生まれた子のうち、男子は殺し、女子のみを育てた。
アマゾネスは自らの女性性を否定し、できうるかぎり男性になろうとした女性たちの集団である。乳房を切り取るという行為の中に、女性性と母性の否定が象徴されている。彼女らの最も好んだ営みは、古来男性固有の領域とされてきた戦闘と狩りであった。
女性の男性化は古代においては想像上の存在にすぎなかったが、現代においては正当性を公認された主義主張として堂々と世界中を闊歩し、その願望は現実のものとして実現されている。古代のアマゾネスは「乳房」を捨てて「戦闘」を選び取ったが、現代のアマゾネスは「母性」を捨てて「仕事」を選び取った。ジェンダー・フリーを唱えて男女の区別をなくし、女性として生まれた宿命から逃れようと必死になっている。古代のアマゾネスは男をセックスのときだけ利用したが、現代のアマゾネスは万事において男を支配し、使役し、利用し、父(夫)を奪って家庭の幸せを破壊し、家族の原理そのものを破壊しようとしている。
アマゾネスを現実にした生殖技術
男を拒否したアマゾネスは、男を必要としない国を作りたかったが、古代においては子を産むためのセックスだけは男を必要とした。同じ心理を表わしているのが、「自ら選んだ」シングルマザーである。夫はいらない、子どもだけほしいという女性は、男から「種(たね)」(=精子)だけもらって子どもを産み、母子家庭を作る。セックスさえいやだという女性や、優秀な遺伝子だけをほしいという女性は、精子バンクでどこの誰とも知らぬ他人の精子を手に入れて、子どもだけを「ゲット」する。
こうした「男をぬきにした」妊娠・子作りは、体外受精技術の発達によってますます容易になっている。体外受精は、精子や受精卵を凍結保存する技術とか、顕微鏡を見ながら受精させる技術など、高度な生殖技術によって可能になった。その他、人工授精による代理母やクローン技術の発達により、子どもを「産む」というより、文字通り「作る」時代が来るかもしれない。子どもを「作る」ためには、性は必要なくなり、女性にとって男性は不要となり、ただ精子のみが、それどころか自らの細胞のみでいいという時代がくるだろう。
アマゾネスが男子殺害という恐ろしい方法で実現していた、女性だけの国を作ることも、科学技術によって「平和的に」可能になっている。すなわち受精卵の段階で男子になるものを除外し、女子になるものだけを育てる。そのころには母胎も必要なくなっているだろう。男性はごくわずかの者だけを生存させておき、精子だけを利用する。こうなると、女王蜂と数匹のオスだけがいて、あとは働き蜂ばかりという、蜂か蟻の世界である。人間は昆虫化していくのだろうか。
男性は精子へと極小化される
女性の男性化が完全に実現したアマゾネス社会は、男性が必要なくなる社会でもある。男性は女性や家族を守る必要もなくなり、男性独自の困難な仕事や戦闘も必要なくなり、子どもを作るためにも女性は男性の協力を必要としなくなる。男性は去勢され女性化し、男性化した女性に支配される。完全なアマゾネスの理想の実現である。その動機の根底にあるのは、男性に対する対抗心と、男性拒否症候群である。
その社会では、男性は人格としても生身の人間としても不要とされ、ただ精子へと限りなく極小化させられていく。ただしクローン技術が人間に適用されないという条件のもとで。しかしクローン人間が産まれるようになれば、精子すらも必要とされない。
これは単なるざれごとやブラックユーモアではない。すでにかなりの部分が現実のものとなっているのである。現代のアマゾネスは大手を振って世界を席巻し始めているのだ。
女のエロスの一人歩き
最近のフェミニズムはエロスについて語ることが多くなっている。少し前から欧米でフェミニストたちのエロス論が盛んになり、それを日本のフェミニストが真似てエロス論を語りだした。日本のフェミニズムはなんでも欧米の物真似である。フェミニストの女性学者や評論家たちは、夏休みにイギリスやアメリカに行って、最新流行を仕入れてくる。エロス論もその一つである。
フェミニストのエロス論の本質は、性を家族の枠から解放し、個人の自己決定による個人の所有のもとに置こうという所にある。したがって、それは個人単位思想や自己決定権と結びついて語られるところに特徴がある。それは明確に家族制度や戸籍制度を否定しようという意図を持っている。
その根底にあるのは、「枠は悪」という心理である。性に対して国家や家族という管理の枠をはめるのは悪いことだという考え方である。性に限らず、すべてのことについて、個人の自由、個人の自己決定を最高価値に置こうという思想である。
よからぬ「枠」として拒否されるのは、家族や国家だけではない。もっと根本的な「女」「母」の役割という「枠」から逃れたいという心理が強く働いている。「女」や「母」という宿命から逃れ出て、「男」になりたいという心理、少なくとも「男」と対等になりたいという心理、これこそすでに古代ギリシア時代から注目されてきたアマゾネス心理なのである。
この不健全なアマゾネス心理こそ、男女の区別をできるかぎりなくそうというジェンダー・フリー思想の根底に横たわっている元凶である。
「自由」を最高価値にする危険
男女の区別をなくそうという心理と思想は、生物としての生存にとってもきわめて危険である。オスとメスの違いによって子どもを産み育てるという戦略は、生物が生み出した最も優秀な戦略であった。オスとメスの役割分担をなくそうという思想を持つ者が「自由な」「自己決定」をしたらどうなるか。しかも現代は科学技術の未曾有の発達によって、オスなしでメスが子どもを作れる世の中になっているのである。
断っておくが、これは「オスが不要になるとは、オスである私としては無限の悲哀を感ずる」という次元の話ではない。人類がどういう質で、どういう形で生き残っていくことができるかという問題である。男女が互いの違いを認めあいながら、対等に協力する形を確立していかないと、人類の良質な生き残りは不可能である。
「自由」と「自己決定」を最高価値に置いたら、世の中は滅茶苦茶になってしまう。「自由」の放縦を監視し阻止するものがなくなってしまうからである。この無責任な放縦に学問的理論的な基礎を与えているのが宮台真司である。宮台が唱える「迷惑をかけなければ何をしてもいい権利」という「自己決定権」とは、戦後社会をモラル喪失社会にしてしまった最悪の原理である。
宮台編著の『<性の自己決定>原論』には、「迷惑」とは何かという定義はまったく書かれていない。「迷惑」を明瞭に定義しないで「迷惑をかけなければ何をしてもいい」と言うことは、百パーセント無限定に「何をしてもいい」と言っているに等しいのである。なぜなら誰でも、自分の行為について「これは迷惑ではない」「一人や二人が迷惑だと言っても、大部分の人にとっては迷惑ではない」「この程度で迷惑というのはおかしい」と言うことができるからである。
ピルや生殖技術を利用し、女性が好きなように性を自己管理し、男性ぬきで好きなときに好きな形態で子どもを産み育てることができるようになること、また子どもを妊娠し産む性という宿命から逃れることは、本当に理想的な状態なのであろうか。「女」や「母」という宿命からの解放は、本当に獲得するに値する価値なのであろうか。というより、考えなければならないのは、「女」であり「母」であることは「逃れるべき宿命」なのかという問題である。それを「逃れるべき宿命」と感ずる心理こそ、すでに不健全なものへと歪んでしまったアマゾネス心理なのではないのか。
科学技術の進歩は恐ろしい。古代ギリシアでは決して実現できなかった歪んだ心理を実現させる力を持っているからである。
多くの良心的な科学者が、そして多くの哲学者とくに生命倫理学者や環境倫理学者が、科学技術の進歩に対してそれをコントロールする必要を主張してきた。私もすでに三〇年も前に『反進歩の思想』なる本を書いて、科学技術の進歩に歯止めをかける必要を訴えた。
しかし科学技術の危険性という問題意識は、「女性のため」というフレーズの前では消え失せてしまう。「女性の選択肢を増やす」ものはすべて善とされる。こういう精神風土こそ、フッァショ的な思想支配と呼ぶべきである。アマゾネス心理が最新の科学技術を駆使するのは、きわめて危険である。フェミニズムの暴走に歯止めをかけることは今や緊急の課題と言わなければならない。