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(回答先: そりゃあ「カントクエン」を知っていたら、条約違反を非難出来ないわな! 投稿者 愚考 日時 2004 年 8 月 08 日 21:32:32)
条約を含む外交の目的は“国益”の保護です。
昭和16年(1941年)4月の日ソ中立条約は、日本は中国戦線が膠着状態に陥るとともに対米戦までもが予測されるなかで北方の憂いをなくしたいという思惑、ソ連は対独戦が予測されるなかで背後から脅かされる危険をなくしたいという思惑から締結されたものです。(日ソ中立条約締結時に日本政府は独ソ戦を予想していなかった)
日ソ中立条約締結後から2ヶ月後の6月に独ソ戦が始まり、ソ連は日ソ中立条約の恩恵を受けることになります。
その一方で、日本は、愚考さんが指摘されているように、ナチス・ドイツのソ連侵攻が破竹の勢いであったことから、「関東軍大特種演習」を企て対ソ戦の機会を窺う動きに出ます。対ソ戦は賢明な判断で断念され、松岡外相の解任と第二次近衛内閣の崩壊につながります。
ソ連側は、日独同盟が日ソ中立条約に抵触する理解はあったでしょうが、日ソ中立条約が日本参戦をわずかであっても抑止できるならとりたてて問題視せず、条約を残したほうがいいと判断したはずです。
日本も、その年の12月に対米・英・蘭との戦いに突入します。
ですから、対独戦に忙殺されているソ連が対日参戦することはないとしても、日ソ中立条約が生きているほうがいいと判断するのは当然です。
日ソがともに相手との戦争に入る余裕も理由もなくなったことで、日ソ中立条約は、“有名無実”ないし形骸化したまま期限(昭和21年4月)まで生き残ったと言えます。
(ソ連から見れば、日本はドイツの対ソ戦で中立義務を遵守はしていないという認識になり、日本から見れば、米国と連合を組んで戦争をしているソ連も中立義務を遵守していないと言えなくもない。日ソ中立条約は独ソ戦や日米(英・蘭)戦以前に締結されたもので、その後も直接の交戦には至らなかっただけで、それぞれが相手の敵と軍事同盟を結んで戦争を遂行するという“歪な”関係にあった。日ソ中立条約はこのような意味で形骸化していた)
逆に言えば、ソ連も日本も、大戦の帰趨によっては相手に宣戦布告したいという衝動を持ち続けていました。
日本も、ナチス・ドイツがシベリアまで攻め込んだりソ連が崩壊するような状況なれば、ナチス・ドイツに利権を総取りされるのを傍観することなく、極東シベリアで利権を確保するためにソ連領に攻め込む決断をしたと推測できます。
(ソ連も、日本をできるだけソ連国境から遠ざけたり、自国が影響が及ぶ範囲を広げたいと考えていた。そのためには、対日戦勝国になるのがいちばん手っ取り早いわけです)
ソ連は、対独戦の帰趨が明らかになりヤルタ会談の密約を実行するため、条項に従い昭和20年4月に日ソ中立条約の不延長を通告します。
ソ連は、日ソ中立条約が無意味な存在になっただけではなく戦後処理で自国の利益を阻害するものになってしまったと認識したわけです。
日本も少しは思考力がある支配者がいたのなら、自分がソ連の立場で物事を考え、日ソ中立条約が無効化し、対日参戦があることは明々白々に予想できていたはずです。
(予想できなかったとしても、シベリア鉄道を使って極東軍事力を急速に強化するソ連の動きは察知できますから、対日参戦が間近であることは認識できます)
条約や外交は“国益”に従属するものですから、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破って参戦したという非難はそれほど意味がある対応ではありません。(当時の日本指導者は、ソ連が近々参戦することは理解していたのですから...)
条約(同盟)や外交のそのような性格を理解し、それを現実の条約(同盟)や外交に活かすほうがずっと意味があります。