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(回答先: 両面宿儺は凶賊か/両面宿禰と日本武尊【両面宿儺伝説をめぐる奇想(1)】仲哀天皇皇子の忍熊王→剣大明神→神官一族→織田信長 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 13 日 01:32:00)
▲ 位山山頂(海抜1,540m)より500m下の「天の岩戸」:岩の洞窟に向かうと真東で太陽を拝める。 | ▲ 第ニ期岩石古墳時代の墓石で、神器を祀ったらしい跡があり、太陽祭祀の場と推測される。 |
さて、飛騨における古代史異説となれば、避けて通れない問題にいわゆる「古史古伝」の一つ『竹内文献』のことがある。
『竹内文献』そのものは昭和初期に成立した偽史だが、その中では飛騨のことが「日球国」「日玉国」などと表記され、太古の日本のみならず世界の中心たる大宮が置かれた、と記されている。そのため、昭和初期から『竹内文献』を奉じて飛騨高天原説を説く論者は跡を絶たない。
また、『竹内文献』にはピラミッド日本起源説が示唆されていたため、位山(クライヤマ)こそエジプトのものよりも古いピラミッドだ、などと主張する者も現れた【注8】。
▲ 位山山頂の「磐座」:ストーンサークルだと言われている。 | ▲ 山頂付近の展望台:乗鞍岳や御嶽山を一望。 |
そして、1984年、『サンデー毎日』が行った「日本にピラミッドがあった!?」キャンペーンにより、位山ピラミッド説は大きく宣伝された。こうなると、『竹内文献』を両面宿儺と結びつけた説が出るのも必然だ。鈴木旭氏は次のように述べる【注9】。
「仁徳天皇の時代というのは、漢字などの中国渡来文化が導入され、ようやく大和の地を中心として古代国家の萌芽がみられつつあったころで、まだ完全に定着したとはいえない時代ではなかったか、と推測される。そして、まだ不慣れな土地である日本には、かつて輝ける先史王朝時代があったことを記憶する人々も残っていたことだろう。
そんな折、飛騨の地にとんでもない事件が勃発した。“飛騨こそ、真の高天原である”として日球王朝再興運動が始まったのであった。仁徳天皇は、さぞかし驚いたことであろう。当然のことながら、それを放置すれば、せっかく日本に定着して勢力基盤を築きつつある時、その存在そのものを否定されることになる。先史王朝の記憶もろとも、その子孫たちを抹殺せんと決断し、軍隊を派遣したに違いない。
その際、位山のピラミッドは徹底的に破壊され、日球王朝の痕跡を残すものはすべて消し去られてしまったのだろう。しかし、民間伝承までも抹殺することはできなかった。そして、細々と正史で伝えられる“両面宿儺伝説” とはまったく別の姿が語り伝えられてきたのであろう」
▲ 宮川源流部冷谷の「宮の大イチイ」 イチイ=一位は位山の名の由来となる 樹齢:2000年、周囲:6.9m、樹高:25m イチイ製の笏を歴代天皇即位式に今も献上 イチイは一位一刀彫や一位笠の原料 |
山本氏記すところの若田翁の話によると、宿儺は丹生川の谷を本拠に、岐阜県大野郡宮村にあった飛騨政府(高天原)を攻めようとしたため、大和朝廷の飛騨救援軍に殺された。ところが後世、両面宿儺の残党や子孫が、宿儺を神仏のように敬い、さまざまな伝説をでっちあげたのだという。
山本氏はまた、「ある書には、両面宿儺は天空から飛来して神武天皇に位を授けたとか、両面宿儺の住んでいた出羽ケ平の洞窟から神代の秘密を記したタブレットが見つかったとか、書いてあるが、そんなことは地元の私たちも初耳です」とも述べておられる。
どうやら飛騨高天原説の論者といえども、両面宿儺をありがたがる人ばかりではないらしい。
しかし、飛騨高天原説は、両面宿儺が高天原の再興を図ったとみなすにせよ、征服を図ったとみなすにせよ、なぜ大和朝廷が、応神朝の創建に活躍した有力な将軍をわざわざ山深い辺地の凶賊一人のために派遣しなければならなかったかを、説明するのには有効である。
実際問題として、飛騨高天原説は成り立ちえないにしても、飛騨には大和朝廷にとって、それこそ高天原にも匹敵するほど重要な何かがあったのではないか。
尾関章氏は位山ピラミッド説に触発されながらも、『竹内文献』流の「日球王朝」説とは別の角度から、両面宿儺伝説に挑んでいる【注11】。
▲ 位山を御神体山とする水無(=水主)神社=飛騨一ノ宮 |
尾関氏は両面宿儺を中国神話の蚩尤と比較した。『戦国策』『荘子』『史記』などによると蚩尤は三皇五帝の時代、黄帝に反逆して討たれたとされる鬼神で、『述異記』はその姿を「人身牛蹄にして四目六手あり」と伝える。
しかし、蚩尤は一方で武神としても崇敬され、兵頭神という名で蚩尤を祭る神社は日本でも『延喜式』の神名帳に19社もある。そして、蚩尤は斉(山東)の地主神だったともいわれている。
尾関氏は宿儺はもともと蚩尤によく似た飛騨の地主神であり、「宿儺伝承が飛騨に先ずあって、『紀』はこれを中国の史書にならって“逆賊”とした、というのが真相ではなかったか」とする。
また、尾関氏はインドのヴェーダ神話に現れる至高の双神格ミトラ=ヴァルナ【注20】、ローマ神話の双面神ヤヌスなどを引き合いに出し、ミトラ=ヴァルナから分離独立した神ミトラが仏教に取り入れられて弥勒となり、ペルシャでは善神マズダと悪神アングラ・マイニュの「仲保者」とみなされ、さらに一世紀末頃のローマではミトラスの名で「不敗の神、太陽神」として崇拝されたことを述べる。
そして、ペルシャ、ローマにあったミトラ崇拝の戦士集団の東アジア版が、六世紀の新羅における弥勒崇拝の戦士集団・花郎であり、飛騨の宿儺は新羅系の勢力から弥勒=ミトラとして祭られたのではないかとする。
弥勒=ミトラ信仰では東北という方位が重要視されており、位山の、ピラミッドといわれた巨石群はその信仰の担い手たちにより、方位計測に用いられたという。
尾関氏の語る宿儺の栄光は壬申の乱でクライマックスを迎える。
「大海人軍の軍旗は赤旗であり、その軍事的拠点は美濃国安八麿郡の湯沐邑であった。ところで漢の高祖(劉邦)はその挙兵にあたり、黄帝と蚩尤を祠祭し、蚩尤旗とも称される赤旗をその軍旗とした。(中略)漢の高祖と同様、決戦に臨んだ大海人もまた、蚩尤(スクナ)を祭祠し、その呪力を自らのものとしたのではなかったか」
「壬申の乱が朝鮮の新羅<吉野方>と百済<大津方>の対立と深くかかわっていたとする有力な説がある。
(中略)武振熊(タケフルクマ)=百済系によっていったん殺害された両面宿儺=新羅系の鬼神は、吉野軍=新羅系によって新たに復活させられ、太陽と不敗の軍神としてのミロクへと変身する。
花郎の花主高市皇子は、下生したミロクの霊力をその体内に宿して大津軍と対決する。太陽王=大海人皇子自ら、そしてそのブレーンであったと推測される新羅僧行心の裡にあった“日を背負いてこそ撃ちめ”という幻想は、陣営地からみる美濃そして飛騨山系の景観としっくりと重なり合っていたに相違ない」
「しかし、善悪を超越した猛烈な力を有する双面の至高神は、祝祭の後に明と暗の二神へとその身を引き裂かれる運命にある。(中略)切り捨てられた反秩序の側面、または両義性という本来的特性を失わない神は“いかがわしい神”として、マイナーな地位を与えられ、辺境の地に封じ込められる。ここに反秩序の鬼神スクナが生誕する」
かくして高市皇子は殺され、行心はその首謀者の一人として、飛騨に流された。そして、宿儺はマイナーな鬼神として、伝説の中にその栄光を留めることになったというわけである。尾関氏の解釈は両面宿儺をあくまで神話的な存在とみなすものだ。
斎藤守弘氏はまず両面宿儺の正体について、「ズバリいえば、両面宿儺は幻の飛騨王朝の正統な王権継承者であったのだ」と規定する【注12】。
▲ 複雑に交錯する美濃、飛騨境の分水嶺:頂に降る雨を日本海と太平洋に厳正に振り分ける(大野郡宮村、位山上空から西の白山連邦を望む)[ぎふ海紀行 位山分水嶺 水のたどる運命宣告歌] | ▲ 森の一滴は太平洋と日本海へ:飛騨の3大水系=飛騨川、宮川、庄川。[JA飛騨 飛騨の山々が育む水] |
宿儺が座した位山は分水嶺であり、その流れは、南は飛騨川から木曾川へと合流して太平洋に、北は宮川から神通川となって日本海へと注いでいる。すなわち位山の水源地は南北二つの顔を持っているのである。これが両面宿儺の顔二つの実体だった。
両面宿儺は水源を確保することで太平洋側と日本海側の文化の双方に支配力を及ぼし、列島規模の宗教的神権を有していた。倭王「讃」として国内統一、海外雄飛を志す仁徳天皇はこの宗教的神権と衝突し、山深い辺境の飛騨まで討伐軍を出すことになった。
斎藤氏は、両面宿儺の全国支配を支えたのは水分祭祀だとして、次のように述べる。
▲ 日子坐命(9代開化天皇の皇子)の陵墓:岐阜市岩田清水山の山麓。この山裾に日子坐命を祭神とする伊波乃西神社がある。 | ▲ 八坂入彦命(10代崇神天皇の皇子)の陵墓:可児市大字久々利。 |
「縄文時代に遡るその水分祭祀を毎年行ったのは、両面宿儺の宮殿というか、むしろ神殿であり、この飛騨の水無神社こそ、ほかならぬ縄文中期以来の縄文神学の伝統を伝える我が国最初の教育機関、いわば“縄文アカデミー”であったと考えるのである。全国各地の縄文村から子女が集まり、ここで正式の巫女教育をうけ、再び各地の拠点的祭祀場に配属される。そして、この神権統治システムは『魏志倭人伝』の時代には、もちろん健在であり、卑弥呼はそのシステムを自己の邪馬台国体制に利用した。すなわち神託卑奴母離体制である」
▲ 泳宮:八坂入媛(12代景行天皇の皇后、八坂入彦命の娘) の実家跡。近くの久々利番場から高さ110cm の銅鐸が出土。 平成の風土記 岐阜 |
だが、古墳時代、神体山・位山の移動に際して、巫女アカデミーの校長が菊理媛神と呼ばれる女性から、両面宿儺と呼ばれる男性に交代する。それと同時に最後の女性校長を奉じる一派は加賀一之宮・白山神社に移り、また別の一派が現岐阜県可児市の「菊里媛」で代々の菊理媛神の霊を祭ることになった。
泳宮(ククリノミヤ)は後に景行天皇の皇后、八坂入媛の実家となる【注13】。飛騨の伝説に、武振熊に敗れた両面宿儺が首を「括り」死んだとあるのは、菊理媛との関係を暗示したものだというのである。
また、斎藤氏は、姉小路基綱の和歌裏書に神武天皇云々とあることについて、ナポレオンが皇帝即位に際してヴァチカンから法王を招いた例を挙げ、
「大和に侵入した神武も初代天皇を名のるには、必ず盛大な即位式を行ったのであり、その即位を万人に承認させるための宗教的権威者を要したはずなのである。それは何者だったのか。
水無神社の縁起書によれば、飛騨位山に居を定める両面宿儺、もしくは菊里媛である、ということになる。当時の日本列島の人々にとって位山の縄文アカデミーの校長は、ナポレオンのヴァチカン法王クラスの大権威を誇っていたのである。いわば天皇制確立以前の“古天皇”だった」と述べている。
吉田信啓氏は創価大学の萩原明教授による「両面宿儺の原形はシュメールの神像にある」という仮説に基づき、古代メソポタミアはシュメール文明の紀元前二千二百年頃の回転印章に刻まれた、「前後に顔を持つ」神イシュムドに言及する【注14】。
イシュムドは水と知恵の神エンキのメッセンジャーだが、その神格は日本神話で出雲の大国主(オオクニヌシ)命の助力者とされる少彦名(スクナヒコナ)命に似ている。また「宿儺」の名は少彦名命に通じるものがある。
大国主は福岡県宗像の奥津宮(沖の島)の神・多紀理比売(タギリヒメ)命を妻としており、その実体は「北部九州から玄界灘、響灘を経て日本海沿岸を北上し、出雲、北陸へと伸びる海上の道をすべて制圧していた海人王朝の王」と見るべきである。
大国主の海の王朝は西方のシュメール航海民やケルト海洋戦団とのつながりも持っていた。だが、大和朝廷はその王権を武装解除し、出雲へと押し込めた。以上の考察によって、吉田氏は宿儺の正体を次のように結論づける。
「飛騨の山奥深くにある深遠な洞窟に祭られている“前後二つの顔を持つ宿儺”とは、近畿大和朝廷に先行した海人王朝の参謀・少彦名命を、大和朝廷の目の届かぬ所で密かに祭祀したものであると私は想定する。
それは大国主命を出雲大社に祭ることで、殺戮した前王朝の群衆や軍勢の魂を鎮めようとした近畿大和王権に対する恨みと復讐の念を新たにし、ひいては滅亡させられた大国主・海の王朝の再興を祈念する秘密の祭祀場であった」
つまり、吉田氏は飛騨と日本海との関係を重視し、両面宿儺に出雲神話の神々の面影を見ようとするわけである。
以上、紹介してきた諸説はいずれもそのまま真に受けるわけにはいかないが、それぞれ示唆するところは誠に興味深く思われる。特に注目すべきは次の二点であろう。
一、両面宿儺伝説には、中近東・地中海方面の神話に登場する両性具有神・双格神・双面神などを連想させるものがある(木村・尾関・吉田説)。
二、両面宿儺(と呼ばれた何者か)は、単に飛騨一国のみの存在ではなく、全国的規模の権力・権威を有し、大和朝廷からも畏怖されていたらしい(坂口・鈴木・斎藤・吉田説)。
さて、坂口安吾は両面宿儺伝説と壬申の乱を結びつけ、尾関章氏はその方向を発展させたわけだが、私にはこの伝説の根は、仁徳のはるか後代の天智・天武朝よりも、安吾がもう一つの方向として示唆した、景行〜仲哀朝に求める方が妥当と思われる。
『日本書紀』の紀年による仁徳65年は西暦375年、四世紀後半であり、むしろ神功・応神の実年代としてふさわしい頃である。
武振熊が神功元年(201)から170年以上の時を隔てて現れる矛盾は、両面宿儺退治(のモデルとなった実際の事件)の実年代を『日本書紀』の紀年にむりやりはめこんだために生じたものであろう。
そのころ、飛騨に神功、応神らが怖れるようなもう一つの王権が存在した可能性はあるだろうか。ありうる。それは景行〜神功の時代に近畿およびその東方を支配した東海系王朝の後継である。
私はかつて本来の景行天皇が九州の王だったと思われることを指摘した【注15】。九州系景行王朝が神功、応神の時代に畿内に入ったとすれば、それは先述のように四世紀後半の事件と思われる。
四世紀と言えばすでに古墳時代、日本列島各地で大型の墳墓を造るだけの権力が出現している以上、畿内にも大きな権力中心が存在していたはずである。
私はそれを九州の景行天皇とほぼ同時代、美濃を経て大和平野に入り、纏向に都を建てた東海地方出身の王の王朝であったとみなす。
坂口が両面宿儺の影を見たヤマトタケルは実は東海系王朝の王と九州の景行天皇の太子の合成人格であり、香坂王・忍熊王は東海系王朝の最後の王たちであった【注16】 。
宮崎康平氏は、日本武尊(ヤマトタケル)の別名ヤマトヲグナ(記・倭男具那、紀・日本童男)のクナは河口の水田の意味で、ヤマトタケルの正体はそのような土地の王だったのだろうという。
また、宮崎氏は出雲神話の少彦名命の名も同様の由来だとする【注17】。少彦名の名は吉田信啓氏が示唆したように両面宿儺とも通じる。
あるいは倭男具那、少彦名、両面宿儺の名は、『先代旧事本紀』が東海地方、現在の静岡県磐田市周辺にあったと伝える久努国と関連するものかも知れない。久努国は天竜川東岸で、河口の水田の国と呼ばれるにふさわしい所である。
▲ 十一面観音像 円空作 春照の観音堂(元は太平寺蔵) 円空と太平寺 |
ちなみに尾関章氏は飛騨に両面宿儺像を残し、美濃の弥勒寺再興を祈願した円空が伊吹山に足跡を残していること、伊吹山頂に日本武尊像と共に弥勒像が祭られていることなどから、伊吹山の弥勒信仰と両面宿儺との関係を示唆している【注19】。
東海系王朝が畿内進出の基地としたのは美濃の泳宮だが、その遺称地、久久利村(現・岐阜県可児郡可児町)は飛騨川の水系で両面宿儺ゆかりの地、丹生川村とつながっている。記紀ではっきり死んだとされている忍熊王が、越前に逃れたという伝説もあるくらいだから、東海系王朝の皇位継承圏を持つ人物が泳宮の縁で美濃へ、そしてさらに飛騨へと向かったとしてもおかしくはない。
東海系王朝の王族が飛騨で再起を図った(あるいはそのような噂が流れた)、それが両面宿儺の正体だとすれば、追討のため、武振熊ほどの有力な将軍が飛騨の奥地まで派遣されたのも当然である。
東海系王朝が滅ぼされた後も、その威光の名残は、勝者の側に潜在的恐怖となってのしかかった。だからこそ彼らは武振熊が伊吹山に阻まれて畿内には帰れないという説話を作り、また想像の中で両面宿儺のような怪物を生み出してしまったのである。
また、記紀編纂時に、東海系王朝の存在を隠蔽する方針があったとすれば、その追討譚が『日本書紀』にのみ、しかも両面宿儺伝説のような奇怪な形でしか残せなかったことも頷ける。なお、両面宿禰伝説の西方的性格は、東海系王朝の文化的背景を考える上で参考となりうるかも知れない。
諸先学の奇想に触発されて、私なりの解釈を示してみたが、両面宿儺伝説は思いの他、根が深そうである。とりあえずはこの辺で筆を置くことにしたい。
【注8】『竹内文献』とピラミッド日本起源説については拙著『幻想の超古代史』批評社、一九八九年、『幻想の津軽王国』批評社、一九九五年、およびジャパンミックス編・刊『歴史を変えた偽書』一九九六年、を参照されたい。
【注9】鈴木旭『日本超古代遺跡の謎』日本文芸社、一九九一年。
【注10】山本建造『日本古代正史とその思想・国づくり編』飛騨福来心理学研究所出版部、一九八九年。
【注11】前掲『濃飛古代史の謎』。
【注12】斎藤守弘『神々の発見』講談社文庫、一九九七年。
【注13】尾関章氏も、前掲書で、菊理媛とは禊ぎを教える水の女で、「くくり」とは水を潜ることである、という折口信夫の説を紹介し、景行天皇の泳宮伝承との関連を示唆している。
【注14】吉田信啓『神々の遺産』中央アート出版社、一九九七年。
【注15】原田実「二つの日向国」『季刊/古代史の海』第十号、一九九七年十二月、所収。
【注16】原田実「もう一人の景行天皇」
【注17】宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社、一九六七年。この著書で宮崎氏はスクナヒコナを狗奴国王の名のりであるとし、狗奴国=熊本県球磨川河口説をとったが、後の『新版・まぼろしの邪馬台国』(講談社、一九八〇年)で鹿児島県出水平野説に改めた。
【注18】原田実『もう一つの高天原』批評社、一九九一年。
【注19】前掲『濃飛古代史の謎』
【注20】インド神話のミトラ神は元来太陽光の神格化で、契約の神であり、友愛の神である。ミトラ神は、司法神ヴァルナ(Varuna:仏教での水天)と対で語られることが多く、両神はアーディティア神群を代表する古き神で、しばしば「ミトラ=ヴァルナ」と併称される。共に、クシャトリア(武士)階級の信仰対象で、クシャトラ(至上権と訳される、クシャトリア階級の権力)の保持者とされた。